第9話-1 肌と肌を【ルード】
アトリさんが顔を真っ赤にしながら、涙目でこちらを見つめてくる。
俺の位置が正確にわからないせいで視線がちょっとズレていることはさておき、アトリさんは明らかに、俺に向かってこう訴えていた。
『ドレスを脱がしてほしい』、と。
……いや、本当に勘弁してくれ。
アトリさん以上にずぶ濡れになっていた俺は、当然服を脱いでいる。
いくら彼女の目が見えないといっても、全ての着衣を脱ぐのは品性そのものを脱ぎ捨てることと同義だから下着だけは身につけているものの、それでも、限りなく裸に近い状態にある。
その俺に『ドレスを脱がしてほしい』と頼むのは、いくらなんでも倫理的に問題がありすぎる。
ありすぎるが……あぁ、アトリさんが俺から顔を背けながら手で口元を押さえた。またクシャミが出てしまったようだ。
冷たい雨が降ったせいで、ここ二日間に比べて格段に気温が低くなっている。
そんな状況でずぶ濡れになった服を着ていたら、どんどん体温が奪われてしまう。
倫理がどうとか言っている場合ではない。
覚悟を決めた俺は、アトリさんの背後に回る。
ドレスなど触ったこともないが、アトリさんが腰の後ろに結ばれている紐と格闘していたことから察するに、そこの結び目さえ解けば、後はアトリさん一人でも脱げるようになっているはず。
というか、頼むからそうであってくれ。
さすがに座った状態だとやりにくいので、アトリさんに立ってもらう。
紐の結び目を覗いてみると……これはまた見るからにきつく縛っているな。
おまけに、たらふく水を吸っているから余計に結び目がきつくなっている。
これは確かに、後ろ手で解けるような代物じゃないな。
アトリさんの代わりに冷たい風を背中に受けながら、紐を解きにかかる。
護り屋という仕事での経験や、それ以前の境遇も含めて、俺は今のような厳しい環境に慣れ親しんでいるが、アトリさんは違う。
護り屋としても、一人の男としても、アトリさんの風よけになるのは当然の義務だ。
可及的に速やかに紐を解くことも含めて。
そんな想いとは裏腹に、予想以上に時間がかかってしまったが、なんとか紐を解ききる。
ここまでくれば自分一人でできると思ったのか、アトリさんは意気揚々と背中に手を回し、紐を緩めながらドレスの背部を開いていく。
――あれは……。
ドレス背部の隙間から見えるアトリさんの真白い背中と、そこに刻まれた不可思議な紋様……あれが聖痕か。文献に載っていたとおりだな。
アトリさんが肌着を着ているから肩甲骨よりも下側の素肌……じゃなくて、聖痕が見えないのは残念だったような安心したような…………って、何に対する安心だ!?
経験したことのない感情のうねりに困惑していると、アトリさんが突然こちらを振り返り、『見ないで』という視線を俺の方に向けた後、袖を脱げ……脱げ……脱げない。
手先が隠れる程度まで脱ぐことはできたが、それ以上はどれほど袖を引っ張ってもウンともスンとも言わず、またしてもアトリさんが『助けて』という視線を投げかけてくる。
見たところ、ドレスがずぶ濡れになっている上に、サイズがピッタリすぎるせいで、袖の内側が腕に貼り付いてしまい、脱ぎにくくなってしまっているようだ。
これはもう、力技でいく以外に方法はなさそうだな。
アトリさんと一緒にたき火から離れると、片方の袖も引っ張って、彼女の両手の先が完全に隠れる形にする。
その結果、華奢な両肩が露出してしまったことが眼福……とか思ってしまいそうだったので、今は気合で意識しないようにする。
アトリさんに両手を前に突き出してもらい、手先を隠れるまで引っ張ったことで余りが生じた袖を掴む。
その袖を軽く引っ張ってみせると、意図を汲み取ってくれたアトリさんがコクコクと首肯を返してくれた。
二人で引っ張り合って袖を脱がす――それが、アトリさんに伝えた意図だった。
俺は大きく息を吸い込み、
「■―■」
「せーの」のかけ声――たぶんちゃんと言えてない――とともに、俺は袖を引っ張り、アトリさんは袖が脱げるよう後ろに思いっきり体重をかけ始める。
アトリさんと力が拮抗するよう微調整しながら袖を引っ張り続けていると、期待どおり、少しずつ少しずつ袖が脱げていく。
袖が脱げた後に起きることはわかっているので、俺は腰を落として後に備えた。
そして、
「■■■!?」
両の袖が脱げた瞬間、アトリさんの体が勢いよく後ろに倒れる。
俺は即座にドレスの袖を手放して駆け寄ると、彼女が倒れるよりも早くにその華奢な体を両手でしっかりと抱き止めた。
ふぅ……予想どおりだったとはいえ、さすがに心臓に悪いな。
一応無事を確認するために、アトリさんの様子を確かめてみる。
両の袖が脱げたことで、ドレスそのものが脱げてしまったらしく、今の彼女はシュミーズとパンツだけという、あられもない姿になっている……だと?
現実から目を逸らすように、視線をアトリさんの足元に落としてみる。
思ったとおり、彼女の足元には脱げたドレスが蹲っていた。
どうやら、袖が脱げたことで引っかかりを失ったドレスが、ストンと脱げてしまったようだ。
現実を確かめるように、アトリさんの顔を覗いてみる。
顔はおろか、露出している肩まで真っ赤にしながらカチンコチンに固まっていた。
今さらながら、自分の胸に柔らかな〝何か〟が押し当てられていることに気づき、視線をそちらに向けてみる。
俺の胸には、アトリさんの胸が押し当てられていた。
いや、この場合、俺の方から抱き止めたのだから、俺の方から押し当てていることになるな…………などと冷静に分析することで、かろうじて理性を保つ。というより、保たざるを得なかった。
なぜなら、パンツが見え隠れするほどに丈の短いシュミーズが、彼女の胸を護る最後の砦だということに気づいてしまったからだ。
気づけた理由については……その……アトリさんの胸の先端が、俺の胸に当たってだな……正直、今まで劣情に屈する人間の気持ちが全くわからなかったが、これはきつい。今にも理性が引きちぎられそうだ。
思考は茹っていく一方で、顔も火が噴きそうなくらい熱を帯びている。おまけに、心臓の自己主張は激しさを増すばかりで……これ絶対彼女にも伝わってるよな?
なにせ胸と胸を合わせてるからな。伝わらない方がおかしい。
一方で彼女の心臓は……その……柔らかくて、大きくてな……どうやら着やせするタイプのようだ……じゃない!
理性を保つための分析が、本能に則したものに変わりつつあることに危機感を覚えた俺は、とっととアトリさんから離れろと自分に命じる。
だが、なぜか体は言うことを聞いてくれず、アトリさんを抱き止め――いや、抱き締めたまま動こうとしなかった。
抱き締めているからか、少しずつ体温を取り戻していくアトリさんの温もりが心地よかった。
鼻腔をくすぐる香りは甘く、ずっと嗅いでいたいと思った。
ただ抱き締めているだけなのに、安心する。
ずっとこうしていたいと思う。
――だけど。
冷たい風が洞窟に入り込み、アトリさんが寒そうに身震いする。
たき火から離れているこの状況、互いの体温で暖め合うにも限度がある。
ドレス同様、アトリさんが身につけているシュミーズは濡れそぼっているため、風に吹かれるのはなおさら堪えるだろう。
アトリさんの身を案じることで今度こそ冷静さを取り戻した俺は、名残惜しさを覚えながらも彼女から離れ、手を引いて一緒にたき火の傍に移動した。
ここまでずっとされるがままだったアトリさんはというと、体だけではなく思考までカチンコチンになっていたのか、たき火の傍に腰を下ろした瞬間、ようやく今までの出来事を認識したかのように、唐突にアワアワし始めた。
顔も真っ赤なままで、いちいちかわいらしい。
本当はドレスだけではなくシュミーズも脱いでもらった方がいいのだが、さすがにそこまで催促するのはどうかと思ったので、着衣を脱ぐのはこれで終わりという風を装いながら、あらかじめたき火の傍に拡げておいた外套を拾ってアトリさんにかぶせる。
アトリさんは嬉しさと申し訳なさが入り混じったような顔をしながら、ペコリと会釈して『ありがとう』を返してくれた。
俺の旅装と、アトリさんのドレスをたき火の傍に拡げながら、彼女を抱き締めた感触を思い出す。
アトリさんは、柔らかくて、温かくて、いい匂いで……たまらなく愛おしかった。
護り屋の仕事で、女性を護衛したことは何度かあった。
今のように下着姿で抱き締めてしまうほど過激ではないにしろ、女性と触れ合ったことは何度かあった。
その際は全くと言っていいほどなんとも思うことはなかったが……惚れた女性が相手だと、俺もこのザマのようだ。
娯楽小説で、恋は人を盲目にするという言葉を目にした時は鼻で笑ってしまったが、今は著者に謝りたい気分だった。
もはや俺の中で、アトリさんを護衛することは仕事ではなくなっていた。
彼女を護りたいと思った。
仕事など関係なしに、ただただ彼女を護りたいと思った。
――人里についたら、誰かに通訳を頼んで確認しよう。
この後、彼女がどうするつもりでいるのかを。
予定通りマイア城を目指すのなら騎士団と連絡をつけよう。
マイア城を目指さず、このまま捧唱の旅に出るというのなら喜んでお供しよう。
自分の想いを確かめたところで、アトリさんの方に視線を向け――……ちょっと待ってくれ。本当にちょっと待ってくれ。
なんで彼女は、隣に座れと言わんばかりに外套の片側を拡げてるんだ?
一緒に外套に包まれというのか?
これはいったい何の試練だ?
それともアレか?
アトリさんは俺を試しているのか?
……いや、違うな。
彼女のことだ。自分だけ外套を使うのが申し訳なくて、でも、俺に外套を譲っても突き返されるのがわかっているから、ああしてるんだ。
このまま外套を拡げていては、アトリさんの体が冷えてしまう。
だから、仕方がない。不可抗力だ。そう自分に言い聞かせながら、俺は彼女の隣に座り、一緒に外套に包まった。
彼女の優しさを嬉しく思う気持ちと、また肌と肌を合わせることを喜ぶ気持ちを、理性という外套で包みながら。