バルナバス
地下水脈は、美夕が予想していたよりずっと真っ暗で、激しい水の流れの場所だった。
岩は水流になめされてつるつるとした見た目だ。それが常に水に濡れていて、光を当てるとテラテラと光るのがまた、見たことも無いような生物を目の当たりにしているようで、言い知れぬ恐怖を感じた。
地下水脈を越える、と言っても、美夕が思っていたように向こう岸があるわけでは無かった。魔法が小さくなって途切れがちになる中、バルナバスと二人で一生懸命光の魔法を放って向こう側のそそり立つ岩の壁を調べると、こちらの目線より下は水が流れているつるりとした岩が見えるだけだったが、上の方へと視線を動かして行くと、左斜め上の所に、棚のような場所が出ているのが見えた。こうして見ると、全くの絶壁ではなく、あちこち欠けていて、川底から天井までガッツリ繋がっているのではないようだ。
美夕は、指を指した。
「あの辺り。」上が空洞になっている亀裂の辺りを指さした。「あそこ、ただの棚じゃないよね。向こう側に繋がってそう。」
バルナバスは、頷いた。
「ここも元は他の洞窟と同じで、普通の洞窟だったと言われている。水が流れたから大きくえぐれてこうして綺麗に形が出来ているが、こちらの洞窟と同じように横にはいくらか向こうへ繋がる穴や亀裂があるのだ。こちらと同じように。だからといって、どこでもこうやってあちらへ抜けるような場所があるとは限らないがな。」と、上の方をチラチラと見た。「…どの辺りがいいか…こちらからロープを渡しておこう。あちらへ行きやすくなるだろう。」
美夕は頷いて、自分のポーチを探った。しかし、バルナバスがその腕を押さえた。
「いや、私のロープを使う。ここから向こうまで結構な距離があるし、バネの力でかぎ爪を打ち出す道具があるのだ。それであちらへロープを渡す。」
バルナバスは、言うが早いか小さなキャラメルのおまけのような銃の形の物を出した。そしてそれを地面に置くと、すぐに大きく戻した。
それは肩に担いで、打ち出すような形の物だった。先には光る尖った大きな槍の先のようなものが着いていて、こんなものが当たったら間違いなく痛いだけでは済まないだろうな、と美夕は身震いした。
だが、バルナバスは慣れたようにそれを担ぐと、狙いを定めて、打ち出した。
バシュっという音がして、その大きな槍の先は一直線に美夕が指差した辺りの岸壁に飛んで行き、まるで砂の山にでも向かっているようにあっさりと突き刺さった。
その威力に若干退き気味に美夕が言葉を失っていると、バルナバスは満足げに肩に担いでいた道具を下ろした。
「よし。では、こちら側をこっちの岩に固定しよう。一度あちらの様子を見て来る。ここで待っていてくれ。」
バルナバスは、毎日そんなことをやってるような手つきでさっさと目ぼしい岩にその丈夫そうなロープを固定すると、全く構える様子もなく、さっさと腰に別のロープを回して金具を付け、それを今固定したロープへと引っ掛ける。美夕は、その手際を感心して見ていたが、そんな美夕に軽く会釈をすると、足と手でロープにぶら下がって、さっと地下水脈の上へと躍り出た。
美夕は、レスキュー隊の訓練で見たようにスルスルと向こうへと渡って行くバルナバスを見送りながら、さっき聞いたことを思い出していた。
「私は、軍に居たのだ…15年前までな。」
美夕は、絶句した。軍に居た…軍に居たの?!あの、アレクサンドルの軍隊に?!
「え…!」
美夕が言葉を失っていると、バルナバスは苦笑して続けた。
「まあお前達は散々に追い掛け回されたのだから、そういう反応になるだろうな。そう、あの頃私は、30歳だった。それなりの経験を積んで、小さな小隊の小隊長だったのだ…あの、パルテノンの襲撃の時な。」
美夕は、ラファエルやアガーテが、他の巫女や修道士達が軍を防いでいるうちに、今回のように逃れたのだと言っていたのを思い出した。その襲撃の時、バルナバスは襲撃する側だったということなのだ。
「では…バルナバスは、他の修道士や巫女を殺しちゃったの…?」
バルナバスはクックと微かに笑って首を振った。
「ならば今私はここに居らぬだろうが。いくらラファエル様の御心が広くても、己の護るべき者達を殺した者を受け入れては頂けなかっただろう。ではなくて、私は部下達には表からの襲撃を指示して、もしかしたら反対側から誰かが逃れるかもしれないと単身そちらへ向かったのだ。そこで、ラファエル様とアガーテ様と出会った。」
美夕は、驚いて口を押さえた。
「え、発見していたの?!」
バルナバスは、その美夕の反応を楽しんでいるように、微笑んだまま頷いた。
「そう。私はそこで、そっと脇から逃れようとしている者達を見た。子どもも混じっていることにも驚いたが、何よりその子供の一人であるラファエル様の、あの毅然としたご様子と皆を気遣う様に、雷に打たれたような気持ちになった…あれほどにお小さいのに、皆を捨てて行けぬと逃げようとしている他の巫女や修道士達を説得しようとなさっていた。私は魔法に長けていたが、その澄んだ気には圧倒されたものよ。己の心の中が、サーっと洗われて行くような。気が付くと私は、自分が軍の甲冑を身に着けている敵側であるのも関わらず、ラファエル様の前に進み出ていた。」
美夕は、その時の様子が目に浮かぶようだった。確かにラファエルは、そこに居るだけで皆を圧倒し、浄化してしまうような雰囲気がある。まさに神に選ばれて生まれた人が居るというのなら、こうだろうという様子だったのだ。
「ラファエル様はその時、なんと?」
バルナバスは、遠くを見てその時を思い出しているようだった。
「回りの者達は怯えて悲鳴を上げるのに、あの幼いかたが真っ直ぐに見上げて立っていらした。それは強い視線で睨みつけてな。私はその時になって初めて、自分が軍人でラファエル様達を追っていた事実を思い出した。なので、慌てて膝をついた。そして、こう言ったのだ…『あちらは今、かなりの数の軍が集中しております。ここには私だけ。どうか、あちらのことはお諦めになって、このままお逃げください。』とな。」
美夕は、軍人で自分を追っていたバルナバスに、一瞬でそんなことを言わせてしまうラファエルのオーラに畏怖の念を感じた。バルナバスは、一目でラファエルに神を見たのだろう。
美夕が何も言わないので、バルナバスは、続けた。
「アガーテ様は何も言わずラファエル様をご覧になった。ラファエル様は、じっと私を見ていたが、こうおっしゃった…『真実ぞ。』と。そうして、逃れるとお決めになられ、私はラファエル様を抱いてシーラーンから山を下って走った。そのまま、軍には戻っておらぬ。私はそれから自分の命を、ラファエル様がご使命を果たされるために使うのだと心に決めて生きて来た。ラファエル様は、嘘と誠がお分かりになる。私はこれまでラファエル様を偽ったことはない。本当に生きるということをお教えくださったことに、心から感謝しておるのだ。」
バルナバスの顔は、とても穏やかで誇らしげだった。自分が信じる者のために、命を懸けて仕えるということを、目の前で見て美夕は、不思議な気持ちだった。あちらの世界で、こんな熱い思いと出会ったことはあっただろうか。自分も今まで、何かのために生きていると、言えることがあっただろうか…。
美夕は、そんなことを考えるようになった。
「ミユ!」
美夕は、ハッとした。自分がさっきの会話のことを考え込んでいる間に、バルナバスは向こう側の棚の上に乗ってこちらに声を掛けていた。美夕は、急いでそちらを見上げた。
「そっちはどう?!」
美夕が水音に負けない声で言うと、バルナバスは答えた。
「奥までは見えないが、どうやらあちらへ向かえるようだ。ここにする。こちらから、もう一本ロープを張って備えよう。」
バルナバスはそう言うと、あちらで作業をしながら戻って来る準備をしているようだ。
美夕は、心配して遠回りしてしまったが、案外に簡単に、皆地下水脈を越えられるのかもしれない、とそれを見て思っていた。




