呪文
美夕は風呂からリーリアと共に戻った後、夜遅くまで呪文を覚えようと奮闘した。
リーリアは早くから教わっていたのでいくらかは頭に入っているようで、覚え方のコツなどを美夕にこと細かく教えてくれて、美夕でもなんとかいくつかの呪文を頭に入れることは出来た。
それでも全て覚えることはできなくて、リーリアと二人ベッドに崩れるように寝入ってしまい、気が付いたら朝になっていた。
リーリアは、昨日の朝と同じようにもう、居なかった。恐らく朝の礼拝に出掛けて行ったのだろう。
目覚まし時計もないのによく起きられるなあと感心しながらも、自分の不甲斐なさにまた落ち込みつつ、手元に広げたまま放ったらかしになっていた呪文の書かれたメモを手に取り、目を擦りながらまた暗唱を始めた。
すると、リーリアが幾分疲れたような顔で入って来た。
「ミユ?起きていたのね。」
美夕は、リーリアを見てなんとか微笑んだ。
「おはよう、リーリア。昨日はいつの間にか寝てしまって…あなたはもう起きていたのに。付き合わせてごめんなさい。」
リーリアは、首を振った。
「私も覚えなければならないから。アガーテ様から、本日は私も共に来るようにと朝の礼拝の後に言われたの。だから、本日は私も一緒に。」
美夕は、パアッと明るい顔をした。
「リーリアも?嬉しいわ!私一人ではとても心細かったから…。」
リーリアは、しかし悲しげに下を向いた。
「本当なら私が教えねばならないのにと叱責を受けたの。お教えを受け始めてからもう数年なのに、まだ全てを覚えられていないから…。」
だから、疲れているようだったのか。
美夕は、リーリアの肩を撫でた。
「そんなことないわ。たくさん覚えていたじゃない。あなたの手帳にはたくさん呪文があったし…もしもの時は、あれを見たら問題ないもの。大丈夫よ。」
リーリアは、顔を上げて美夕を見た。
「アガーテ様は、呪文は必要な時に素早く出せなければ仲間の命に関わる大事だと申されて。後悔しないためにも、必ず暗唱しなければとおっしゃるの。」
美夕は、それを聞いて一気に顔を曇らせた。確かにもし何かが起こった時に、覚えていたら瞬時に皆を守る事が出来たのにと、後悔するようなことになるのは目に見えていたからだ。
しかし、中には戦いなどには関係のないような呪文もあった。
美夕は、顔を上げた。
「それなら、まずはみんなを助けるような呪文を優先的に覚えるようにしましょう!ほら、中には意志を疎通させる呪文とかあったじゃないの。もう覚えてしまったけど、ああいうのは言葉が通じない同士のコミュニケーションのためとかだから、直接関係ないよね。そういったのは、これからは避けて頂いて、実戦に使えそうなのから順番に覚えて行くの!そうしたら、きっとアガーテ様が懸念なさっているようなことは起こらないもの!そう言いましょうよ。」
リーリアは、少し困ったように美夕を見上げたが、気が進まないような状態ながらも、頷いた。
「ええ…旅に出るあなたが言うのなら…。」
だが、美夕は変に納得していた。自分の頭でこの数日で全てを覚えるなんて無理なのだ。ならば、役に立ちそうなものを片っ端から選んで覚えて行った方が、効率的なのだ。
妙なやる気が湧き上がって来た美夕は、また静かな朝食を終えてから、リーリアと二人でメモ帳を握りしめてアガーテの部屋へと向かった。
アガーテは、静かにそこに座っていて、穏やかに二人を迎えた。
「よう来たの。それで早速であるがミユ、昨日教えた呪文は覚えて参ったか?」
美夕は、アガーテの前に膝をついて見上げて言った。
「アガーテ様、幾つかは覚えて参りましたが、全て覚えられませんでした。」
アガーテは、それを聞いて深い息を吐いた。そして、リーリアを見た。
「しようがない。だが、リーリアはもう数年前から我に学んでおるゆえ、もうほとんどは頭に入っていような。」
しかし、リーリアは小さく震えながら、答えた。
「申し訳ありませぬ。アガーテ様。まだ全ては覚えきれておりませぬ…。」
小さく、消え入るような声だ。アガーテは、それを聞いてしばらく黙った。が、口を開いた。
「…困ったもの。主はどうあってもこれを覚え、次にここへ選ばれた巫女が生まれた時にはそれを伝える責を負っておるのだぞ。我はもう、そう長くはない…このような婆であるのに。主ら二人には、神に選ばれた命であるという自覚が足りなさすぎるのだ。」
それは、身に沁みて分かっていた美夕だったが、リーリアはもっと分かっていることだったようで、涙を浮かべてうなだれていた。
美夕は、そんなリーリアを見て、思い切って顔を上げて言った。
「アガーテ様、自分の責務の重さは重々分かっておるのですが、私にはその能力がありません。まだ追いついていないのです。覚える努力はして参りますが、旅は待ってくれません。どうか、戦いで仲間を守るための術と、戦うための術を優先的に教えてはもらえませんでしょうか。それらから、完璧に覚えていきたいのです。」
アガーテは、少し眉を上げたが、言った。
「…巫女の術には戦う呪文はない。守りに特化したものが多いのだ。皆を守って補佐する役目。傷ついたものを癒す役目。全て穢れたものを浄化する役目。それが巫女の術よ。戦うのなら、主らの仲間が知っている術を覚えねばなるまい。我が教えるものはない。」
美夕は、食い下がった。
「では、その守りと、癒しの術を優先的に。巫女の術が仲間の中で私にしか出来ないのなら、戦いの時に役に立つ守りを覚えたいんです。戦う術は仲間に教えてもらっていくつか放てるようになってます。だから、どうかお願い致します。先に、いざという時役に立つ術を覚えたいです。」
美夕が必死にそう訴えると、アガーテは困ったように美夕を見ていたが、息をついて頷いた。
「分かった。では、戦いの際に役に立ちそうなものを先に覚えて参るが良い。昨日記したものの中でも、幾つかあったの。それに加え、本日は更に大きな術を放てるものを。それで良いの?」
美夕は、アガーテの言葉を聞いて笑顔になると、リーリアを見た。リーリアは、少し戸惑うような顔をしたが、美夕に頷きかける。
アガーテは、そのゆったりとした様とは違う凛とした声に変わると、呪文を二人に伝え始めた。
リーリアと美夕の二人は、必死にそれを書き記して行った。
翔太は、目を覚まして硬い岩の上で起き上がった。
いきなり押しかけたのでここでは翔太達の寝床はない。ここに住んでいる者達には、それぞれ木で作ったベッドがあり、そこに藁を敷いて上から布を被せてベッドを作ってあるが、人数分しかないので直に寝るしかなかったのだ。
聡香は最近作ったというブレンダのベッドに狭いながらも寝ているらしく、すこぶる元気なのだが翔太はさすがに岩の上は体が痛かった。
外の土の上ならこれほどでもなかったのに、と思いながらも、持っていた水を一口飲んでから、今見張りに出ている海斗を替わろうと、外へと向かった。
岩屋の入口では、海斗が座って昇って来る朝日を見ていた。天気もよく、空気が澄んでいて気候もちょうどいいようだ。翔太は、そんな海斗に声を掛けた。
「ああ、海斗。替わろう。ちょっと休んだらどうだ。」
海斗は、翔太に気付いて振り返った。
「いや、慎一郎、スティーブと順番に見てもらってる間に結構寝ていたし、オレが来たのは二時間ほど前なんだ。まだいける。朝飯はどうする?食ってくか。」
翔太は、頷いた。
「ああ。オレ達が持ってるヤツを食うからここの食料を分けてもらわなくても大丈夫だ。飯食ったら出ようと思ってるんだが、お前達はどうするんだ?」
海斗は、また目を森の方へと移して見張りながら、答えた。
「カルロ達には街へ行けばどうかと提案はした。オレ達が護衛してやるからと。だが、あいつらは自分達で何とかすると言ってオレ達とは来ないようだ。まあ昼間なら軍には気を付けなければならないが、魔物が出ない道があるからそれを行けば街へはそう時間もかからず着けるんだ。慎重に行くから問題ないと言って聞かないし、あいつらにはあいつらの勝算があるのだろう。オレはそこまで口を出そうとは思わない。ただ、帰る方法が見つかったら教えてもらいたいから、腕輪の繋がりだけは外すなとそればっかりだ。」
翔太は、あまり口出しはしないと決めていたのだが、渋い顔をして言った。
「…捕まるんじゃないのか。長く戦ってないんだろうが。軍に見つかりやすい道ってのは、どれぐらい安全なんでぇ?」
海斗は、フッと息をついた。
「軍とは戦えない。そんなことをしても勝てないから、オレ達だって軍とは出くわさないようにしてるぐらいだ。その道の横の茂みを、潜んでゆっくり行くしかないんだが、軍が通るから魔物もそこには来ないから、子供連れだったら確かにいい道なんだがな。隠れながらちょっとずつ進むから、時間がかかるんだよ。だから、オレ達は使わないってだけで。あいつらには時間はたっぷりあるんだし、それを選んでもおかしくはないし、むしろ子供連れで魔物と戦いながら行くより、リスクは少ないな。」
翔太は、まだ腑に落ちなかったが、海斗がそう言うので頷いた。
「そうか。だったらまあ、いいが。街へ行ってあてはあるのか?」
それには、海斗はすぐに頷いた。
「それはある。仲間がすっかり現地人になってあちこちに住んでるからな。甲冑さえ着てなかったら、軍も街中で静かに暮らしてる限り何もして来ないんだ。そいつらとまだ腕輪で繋がってるから、頼って行こうと思ってるんだろう。」と、腕輪に視線を落とした。「…お前達ともこれで連絡を付けるしかないな。お互いに帰り方が分かれば、教え合うようにしよう。オレ達も最後には、シーラーンへ行くことになるのかもしれないしな。」
翔太は、息をついて頷いた。
「そうだな。だがまずお前達の刻印持ちのことを聞かなきゃならねぇだろう。ラファエルの所までは一緒に行こう。その方が、オレ達も道を間違えずに済むしな。」
海斗が頷いた時、翔太は何か、金属の擦れるような音が森の方から聞こえたような気がした。
「…?」
翔太がそちらを見ると、海斗もつられて見る。だが、そこには何も無く、聴こえたように思った金属音もしなかった。
「今のは…?」
海斗は、首を振った。
「いや、何か聴こえたか?」
翔太は、気のせいだったかと踵を返した。
「神経質になってるな。なんか金属の音が聴こえたような気がしたんだが。じゃあ先に飯食って来るよ。」
そうして、翔太は中へと入って行った。
海斗はまた、森の方を見ながら考えに沈んだ。




