神様
その数時間前、美夕は、翔太達を見送って、ほっと一息ついて部屋へでも帰ろうかと思ったが、アガーテがすぐに言った。
「では、ミユとやら。さあこちらへ。そなたには教えておかねばならぬことが山のようにある。時が惜しい。」
美夕は、仰天してアガーテを振り返った。今から?!
だが、アガーテの言うのももっともなことだった。
翔太達がどれぐらいで戻って来るのか分からない今、悠長に休んでいる時間などないのだ。命に刻印があるのだとラファエルに言われたが、美夕は自分がそんな大層な命であるなど、考えられなかった。翔太だってそうだろう。チームの中で誰よりも意識が低く、誰よりも要領が悪い上そんな風だからこそ死にかけた。仲間が強くなかったら、それに亮介のような魔法に長けた仲間が居なかったら、自分は死んでいただろう。命に刻印があるのに、ここで何も果たせず死んでしまったら、自分に巻き込まれてしまったらしい翔太達はどうなるのだろう…。
美夕の背筋は、それでブルッと寒くなった。海斗達のように、長くここに放って置かれる仲間達が目に浮かんだのだ。自分のせいで。
じっと黙っている美夕に、肯定とみなしたのかアガーテは頷きかけて、前の椅子へと座るようにと促した。レナートが、所在なさげに言った。
「その…オレはじゃあ、あっちで。」
アガーテは、それを見て頷いた。
「主は後程の。もし今夕までに思い出す様子が無ければ、術で記憶を鮮明にしようぞ。」
レナートは、その細い体をブルブルっと震わせて大袈裟に驚くと、そのままそこを出て行った。
ラファエルは、アガーテに言った。
「では、我は常のように。ここも我が離れたら守りが薄くなり見つかる可能性が高くなるの。案じられる。」
アガーテは、ラファエルがかわいくてならないのか、その顔のしわを更に深くして笑顔を作ると、首を振ってその袖を撫でた。
「そのような。ラファエル様は思う通りに生きられたら良いのでございます。我も、ここの結界がもつよう尽力致しまするゆえ。お留守の間はご案じなさらなくてよいのです。」
ラファエルは、そんなアガーテに苦笑して見せた。
「主に掛かると我はいつまでも子のような。主こそ案ずるでない。我は思うように生きておるぞ。」
そうして、とても思うように生きているようには見えないラファエルは、綺麗に伸びた背筋のままゆったりとそこを出て行った。
美夕は、その姿に自分との違いを見せつけられて、うなだれた。同じ命に刻印がある者同士、本当なら分かり合えるはずなのに。自分が不甲斐ないばかりに…。
アガーテは、そんな美夕をじっと見つめていたが、言った。
「さて…そなたには、ラファエル様と同じになれとは言わぬ。だが、今少し自覚をせねばの。主の意識を読んだが、まるでまだ赤子よ。依存心が強く、己で何かを成し得ようという気持ちがこれっぽっちも感じ取れぬ。分かるか?己がシーラーンへ行くと言ったあの時でさえ、主はラファエル様やショウタと申す男に頼る気持ちが心にあった。此度、何の使命か分からぬが神がそれを科したのは主。それを成すのは主の使命なのじゃ。主が成してこそのことであり、ショウタが成してもラファエル様が成しても、それは成就せぬということぞ。」
アガーテは、叱るようでもなく、ただこんこんと美夕を諭すようにそう言った。だが、美夕には心に刺さる言葉ばかりだった。全て、見通されているように間違ったことは何一つ無かったからだ。
アガーテは続けた。
「つまり、主が、主自身が何としてもその使命を成すのだという気持ちを持たねば、回りの者達は皆命を落とすことになろうぞ。主自身、己の命を賭して使命を全うするのだという気概を持たねばならぬ。術などという技術はその後のことぞ。分かるか、ミユ。主が成すのだ。ラファエル様やショウタではない。」
美夕は、回りが命を落とす、という言葉に身を固くした。翔太も、前に同じことを言ったのだ。そのままのお前は、命を懸けないと助けられる気がしない、だがその価値を今は感じない…。
だが、命に刻印があると分かり、それが皆の帰還に影響するのだと分かったら、翔太は命を懸けて美夕を守ろうとするだろう。そんなことをさせるわけにはいかない。
分かっているが、自分自身の意識をどうやったら高く出来るのか、全く分からなかったのだ。
美夕がそう思いながらただ下を向いて黙って居ると、アガーテはため息をついた。
「…しようがない。我が話しただけで簡単に意識など変えられぬわな。では、今我が言ったことを頭に置いておいて、これよりは我らの神のことを話そう。我らの神と主らの神が同じであるかどうかは分からぬ。だが、我らを作った神は兄弟であるのだという。ならばどちらにしろ神のことは知ることが出来るはず。なので、知っておかねばならぬことを話そうぞ。巫女が子供の頃から話して聞かせることよ。難しいことはない。」
そうは言っても、違う世界での神のことなのだ。美夕は、急いで腰の小さなバックからメモ帳を取り出した。書き記しておいて、必ず後で見返して頭に入れようと思ったからだ。アガーテは、それを見て片眉を上げた。
「ミユ?主は荷物をそのままの大きさでカバンに収めておるのか。」
美夕は、何のことだが分からない顔でアガーテを見た。
「え?そのままって…物は皆そのままなんじゃないですか?」
アガーテは、首を振って簡単な呪文を唱えた。すると、美夕の手にあるメモ帳は、途端に小さな豆粒のような大きさに変化した。
「まあ!」
美夕が目を丸くしていると、アガーテはまた呪文を唱えた。それは、元の大きさに戻って美夕の手の中に収まった。
「そうか、こんな簡単な呪文も知らぬか。物はこうして持ち運ぶのだ。さすればたくさんの物を負担なく運べるであろう?」と、腰にさしてある大きな剣を指した。「それも。必要な時だけ手にして運べば良いのだ。歩くのに負担にならぬ。覚えておくが良い。」
美夕は、急いでその呪文をメモ帳にしたためた。負担が軽くなる…翔太にも教えてあげなくては!
アガーテは美夕の様子を眺めながら、付け加えた。
「生き物には使えぬからの。他にもこれが使えぬ物もあるゆえ、追々覚えて参るがよい。」
美夕は、うんうんと頷きながら注意書きをした。使えない物もある…。
アガーテは、苦笑して椅子の背にもたれ掛かった。
「では、神の話をしよう。覚えておらぬだろうが、主が天でそば近くに過ごしていた存在。絶対的な力を持ち、我らの成長を見守る全てを作りたもうた神よ。」
美夕は、固唾を飲んでペンを握りしめた。
アガーテはゆっくりと話し始めた。
古来、人は女神ナディアを信仰していた。
何千年も前、女神ナディアは人のそば近くにおわし、人を助けていたという。
だがナディアはデクスという悪魔に封じられ、人は神をなくし、それでもその加護を信じて生きていた。
封じられてなおナディアは命の気を皆に与え、人が生きる事を手助けしていたからだ。
アガーテも、つい20年前までは、それを信じていた。
なので、200年ほど前に王としてシーラーンを首都として治めると言った男が、全ての信仰を禁じるという触れを出した時も、決して従わず揺ぎ無かった先輩巫女達を倣って、アガーテは潜んでナディアを崇めていた。
それが、20年ほど前。
パルテノンの奥、ナディアの像の前、神が現れると言われる台座の前でいつものように祈りを捧げていたアガーテの前に、黒髪に赤い瞳の、凛々しい男神が現れた。アガーテが茫然と見上げていると、その男神は言った。
『我は、ウラノスと名乗っておる。主らが崇めておるナディアは我が作った命。一度は天に還り、今は人として地上で人と暮らしておる。主、我のために働く気持ちはあるか。』
アガーテは面食らった。それをいきなり信じろというには、あまりにも長いナディアへの信仰心があった。それを素直に言うと、ウラノスは言った。
『さもあろうの。ならば我が主に力を与えよう。』と、ウラノスは、手を挙げた。『主は、我が天から降ろした命ではないが、我が庇護する命ではある。主に使命を与えよう。』
そうして、ウラノスが浮くその足元の台座の上に、白い髪のそれは美しい赤子が現れた。その側には、美しい装丁の本がある。ウラノスは続けた。
『我が大切に育んで来た命。天よりここに降ろし、こちらを正す力としよう。賢しく強く誰よりも正しい命ぞ。主に託す。これが力をつけ学ぶまで、主はこれを守り育むのだ。』ウラノスは、本を指した。『守るための術をいくつか記してある。これが育った暁には、これと同じように、我が命に刻印を刻んだ者達がここへ集い、この世界を正しく導く力となろう。主にはそれまで、これを守り慈しむ責を与える。健やかに育てよ。名は、ラファエルぞ。』
そうして、ウラノスは消えて行った。
アガーテが何が起こったのか分からずにただ茫然と立ち尽くしていると、目の前の赤子が盛大に泣いた。
アガーテはハッと我に返って、急いでその赤子を抱きとった。赤子は泣き止み、じっとあのウラノスと同じ色の潤んだ瞳でアガーテを見つめて来た。アガーテは、その赤子を抱きとった途端、自分の体に力が満ちて行くのを感じた…これは、啓示だ。啓示なのだ。ウラノスは、真実を言っていた。信仰心の他はさして力の強くなかった自分が、ウラノスによって力を得たのだ。
アガーテは、ウラノスが残した呪術書を手に取った。それの表紙には、赤い小さな石がついている。その石からは、強い力を感じた。ウラノスが、そこから見ているような気がした。
アガーテは、ラファエルを抱いて、皆に神の御子だと告げた。
最初は半信半疑な者も居たが、その時から無尽蔵に地から命の気を取り込んで魔法を放つようになったアガーテの姿に、いつしか誰もそれを疑わなくなった。
アガーテは、ラファエルをそれは大切に、パルテノンで育てた。




