地底3
美夕が呆然と見ていると、ラファエルが気さくな感じで言った。
「ああ、アガーテ。話があって呼んだのだ。そちらも、同じ用件があるのではないか?」
アガーテと呼ばれた老婆は、皺だらけの顔に更に皺を深くして微笑んだ。
「さすがはラファエル様、もう気取っておいでであったか。」
ラファエルは、頷いた。
「あの使っておらぬ入口は、開きっぱなしであったし我が閉じておいたぞ。そういったところに大雑把では、ここの守りも危ういのではないのか。」
呆れたように苦笑して言うラファエルに、アガーテはなお微笑みながら答えた。
「そうやって気付いて対処してくれるお方が居ると、甘えてしまうのでありまする。」
美夕が振り返って緊張しながらそのやり取りを聞いていると、そのアガーテという老婆は案外にしっかりとした足取りで、サクサクと足を進めて美夕の前まで来た。そして、じーっと美夕を顔を見ると、言った。
「ほほう、これはまた珍しい。これほどに澄んだ気を持つ人を見るのは初めてじゃ。してそなたは、やはり違う世界から来て軍に追われておるか。」
ずいと顔を近づけて言うアガーテに、美夕はどぎまぎしながら頷いた。
「はい…あの、そなたも、ってことは、誰か他に同じ境遇の人をご存知なんですか?」
アガーテは頷いて微笑んだ。
「今しがた知り合った。そなたの知り合いであろうよ。」
と、ラファエルの方へと歩み寄る。ラファエルは、急いで手を振ると、目の前にはソファが、手も触れないのに飛んで来てそっとアガーテの後ろへと滑り込み、うまいタイミングでアガーテはそれに腰掛けた。
どうやったんだろう、と美夕が感心してそれを見ていると、アガーテは息をついて、言った。
「フーッ、ここまでの距離でも疲れるようになってしまいましたわい。我も足腰に自信がありましたのに、歳ですのう。」
ラファエルは、苦笑した。
「なんの我が赤子の頃から、そう変わっておらぬぞアガーテ。して」と、美夕とレナートを見た。「この二人。軍に追われて困っておるらしい。こっちがミユ、そっちがレナートというのだが、ミユが戦闘員で、レナートは頼まれて保護していたようだ。仲間に合流したいと申す。そちらに来た客人は、これの仲間か?」
アガーテは、頷いた。
「そのようですじゃ。それであれらの話も合わせて言うと、ミユ、そなたもあちらの世界への帰り方を模索しておるのか?」
美夕は、頷いた。
「はい。こちらに来てしまったあちらの世界の者達の、大部分が恐らくそうではないかと。でも、私達は軍に追われているのです。どうして、軍は私達を追うのでしょう?何も、悪い事はしていないのに。」
アガーテとラファエルは、顔を見合わせた。
「確かにのう…そなたらが追われる理由は、王であるアレクサンドルにしか分からぬだろうの。しかしあれは、一度昔我らが潜んでおった別の神殿へ攻め入って参って、いくらか我らに伝わる書を持って出てしもうたのじゃ。もしかして、あれは何か、とんでもないことを考えておるのやもしれぬ。」
美夕は、顔をしかめた。とんでもないこと…?それと、私達が何の関係があるのだろう。
それを口にしようとした時、ラファエルが険しい顔でアガーテを見て、言った。
「あの、15年前のことか。我も幼い頃のことではあるが、覚えておる。北から来た者達が持ち込んだという、太古の書が幾つか持ち去られたと。」
アガーテは、ため息をついて頷いた。
「咄嗟のことであったが、我も巫女達も必死に持てるだけ書を手にしてそこを後にしたのですじゃ。だが、持ち出せず置いて来てしまったものを、あれらは奪って参った。もしや、あんな心根の者達が、知ってはならぬことが書かれた書があったのではと案じられてならずで。」
美夕は、急に不安になった。神殿にある書だということは、きっと何か、神様に関することを書いてあったのだろうか。
「それは、神様のことについて書いてある書だったということですか?それを、王が持って行って、それで…何か、悪いことをするようなことを書いてあったってことですか?」
アガーテは、その子供のような聞き方にフッと表情を緩めた。
「そなたらには難しいことよの。神殿にあった書はの、神について書かれてあることもあれば、神から世を平らかにするためと、様々な術を教えてもらっておった、それを記してあったものなのじゃ。大半は、我らが逃れる時に必死に持ち出したし、幼いとはいえラファエル様がまとめて我らを守って逃げてくだすったので、無事にこの神殿へと持って来れた。しかし、奥深くに置いておったものは、こちらへ持って来ることが出来なかったのじゃ。その書にあった術などで、もしや大変なことが出来るようなものがあったなら、あのアレクサンドルにはその術を放つ力があるゆえ厄介だと思うておる。」
美夕は、顔を曇らせた。つまりは、そのアレクサンドルという王が悪い王だったら、神様が教えてくれた術を悪いことに使うかもしれないから、心配だとアガーテ様は言ってるんだわ。
美夕は、言った。
「そんな…だとしたら、何か悪いことをするために、私達がシーラーンに集められて、利用されるかもしれないってこと…?」
それを聞いたラファエルもアガーテも、驚いたように息を飲んだ。美夕は、その様子に何か間違ったことをまた言ってしまったのかと、口を抑えた。
「あ、すみません、私本当に頭が悪いから…間違ってましたか?」
しかし、ラファエルは、首を振った。
「いや、確かにそうだなと思い当たったのだ。」驚く美夕に、ラファエルは続けた。「しかし、異世界から来た人だけを集めて何が出来るのか。人と申すなら一般人を連れて参る方がいくらか容易かろう。主らは、大変に術に長けておるから、一筋縄では行かぬからの。もしかして、他の何かがあるのかもしれぬ。」
アガーテは、今まで微笑を浮かべていた顔に厳しい表情を浮かべて、視線を落とした。
「…困ったもの…置いて来た書の中に、パルテノンの護りがあったのが悔やまれる。」
美夕は、首を傾げた。
「パルテノン?それは…私達の世界では、神々の神殿の名前です。」
アガーテは、驚いて美夕を見た。
「なんと。世界が違っても同じ意味で使われる言葉があるか。パルテノンは、神が司る広い世界のどこかに存在する、神を祀る神殿の名なのだと聞いておる。それを、我らが守っていた神殿にも神が名付けてくださっておったのじゃ。しかし、我が今申したのはその名を冠した書じゃ。神がどうやって世界を作り、どうやって統べているのか、それを説明してあり、他に、神の考え方、神の術の作り方…そんなものを、記してある書なのじゃ。理解して使える者は少なかろうが、それでも己の力にうぬぼれるものならば、使ってみたいと思うやもしれぬ術が、あれには書いてある。我もあまりに恐れ多いことに、深くまで読んだことはないのじゃが、ラファエル様は僅か4歳にしてあれを読破なさっておいでで、内容はご存知のはずじゃ。」
美夕は仰天した。何やら難しそうな内容だなあと思っていたのに、たった4歳で?!
ラファエルは、息をついた。
「我はの、そういったことを司って神に仕える者達を守るために遣わされた、特別な命なのだ。だからこそ、書に書いていることは理解出来た。最初から知っておったのかもしれぬ。我には、その証に命の刻印がなされておる。同じ命の刻印を持つ者を探し、それらと共に民が心安く過ごせるように地を整えるのが使命ぞ。だが、我は未だ、同じように命に刻印を持つ命に出会えておらぬ。どうやら、皆我のようにいくらかの知識を持たずに地上に降りておるようで…知らずに何も成さずに暮らしておる者達も居るだろうと。そういう者は、自ずと命の刻印が表面に現れて、使命を思い出すように促されるのだがの。我一人には、正直荷が重いのだ。」
アガーテは、気遣わしげにラファエルを見た。
「ラファエル様…。」
ラファエルの表情は、更に険しくなった。
「それよりも問題なのは、あの書がただ人に読まれるためにだけあそこに存在しているのではないということぞ。」
アガーテの顔が、暗くなる。美夕は、なぜかその顔に不安を覚えて言った。
「何か、別の役割が?」
ラファエルとアガーテは顔を見合わせる。そしてラファエルが、言った。
「…あれはその名の通り、パルテノンを守っておった。このリーリンシアという島で人が暮らせるように、その地を穏やかに保つため、神から与えられた呪術書なのだ。あれ自身が力を持ち、あの場で強い地の力を抑えて制御している。なので我らは、あれをあの場から持ち出す事が出来なかったのだ。」
美夕は、息を飲んだ。では、その大きな力を持つ本が、悪い王様の手元にあるってこと…?
「そんな…何をされるか、分からないのでは。」
アガーテが、下を向いた。
「我らは日々パルテノンの守りを案じておる状態じゃ。しかしパルテノンは、シーラーンの地下深くに有り、アレクサンドルに見付かった今、潜入して見守る事も出来ぬ。持ち出す事が出来ぬ以上、アレクサンドルがあの地を離れぬ限り、我らには打つ手がないのじゃ。我らはこのように目立つ白い髪を持つ者達。見付かると皆、殺される。現に15年前逃れる時も、このラファエル様の力をもってしても、何人かの犠牲は免れなかった。その中には、次代の巫女長にと我が目をかけておった巫女も含まれておった。」
美夕は、まるで自分のことのように不安になりながらそれを聞いていた。するといきなり、左の上腕の表面がチリチリと痛んだ。現実世界で今までも時々あったのだが、その度に虫にでも刺されたのかと慌てるが、そんなことはなかった。それは決まって、幼い頃からある痣の辺りだった。
思いも掛けないところから痛みが来たので驚いて右手でそこを擦ろうとしたが、急に美夕は、このままでは駄目だ、と強烈に腹の底から何かの想いが湧き上がって来るのを感じた。
そして、気が付くと腕の痛みも忘れ、立ち上がっていた。
「このままじゃ、駄目です!」自分の口から、思ったよりずっと強い声が出たのに驚きつつも、止まらなかった。「取り返さないと。パルテノンの守りを、そのままにしておいては駄目です!」
アガーテとラファエルは、驚いたように美夕を見た。レナートも、急にそんな使命感にかられたようなことを言い出したので、呆然としている。
アガーテは、戸惑ったように言った
「だがのミユとやら…パルテノンの守りをあそこから動かしてしもうたら、大地の守りがなくなってしまうのじゃ。ラファエル様が言うておったこと、聞いておらなんだのか?」
美夕は、首を振った。
「大地の守りだって言うんなら、きっとこの島のどこからでも守れるはずじゃありませんか?ラファエル様が力を持っていらっしゃるなら、きっとまた術を掛け直すことだって出来るはずです!その方法を、神様があの本に残していらっしゃらないはずはありませんもの!あの本を読めばいいんです!」
それを聞いて、ラファエルは何かに思いあたったような顔をして、黙り込んだ。アガーテは、ラファエルをまだ戸惑ったように見上げている。
美夕は、二人を急かすように言った。
「さあ!私の仲間が居るのなら、相談しましょう。話したら、何か道が開けるかも。お互いに。」
アガーテは、まだラファエルと美夕を交互に見てためらっていたが、ラファエルは思い切ったように立ち上がると、美夕に頷きかけた。
「参ろう。」
そうして、何が何だが分からないレナートと、戸惑っているアガーテを連れて、ラファエルと美夕はアガーテの部屋へと向かって行った。




