その頃
アデリーンでは、美夕がレナートの声で目を覚ましていた。
寝袋にくるまって暖を取りながら呪文を覚えていて、気がついたら寝てしまっていたらしい。
レナートが、言った。
「朝飯が出来たぞ。何やら、街の方が騒がしい。君はおとなしくしてる方がいい。君が飯を食っている間にオレは様子を見て来るが、誰が来ても絶対にドアを開けるな。オレは地下通路から下水道に出て街へ出る道があるから、それで行って来る。腕輪と甲冑はオレが昨日地下の隠し通路脇に隠してあるが、他に足が尽きそうなものがあったら、全部出せ。隠して来る。」
美夕は、首を振った。
「他に足がつきそうなものなんて、きっとないと思います。あの、何がいけないのでしょう。」
レナートは、考え込むような顔をした。
「そうだな…戦う関係のものだ。ここは、皆戦うなんて方法は知らない。もちろん魔法だって使えない。お嬢さんは使えるだろう。それを使うのに、特殊な武器とかあったら隠して置いた方が正解だ。普通の市民が持ってないものを持っていたら、それだけで捕まるからな。」
魔法を使う特殊な武器…。
美夕は、ハッとした。呪文…?
「…呪文を書いたメモ帳が、ここに。」
美夕がそれを差し出すと、レナートはそれを見て舌打ちをした。
「それだよ。こんなものが見つかったら、大変なことになる。お嬢さん、あんたはもし誰かに遭遇しても、必ずオレを叔父だと言い通すんだ。それで、住民のふりをしろ。どこから来たと聞かれたら、パージの母の所から来たと。母が病気なので、叔父に預けられていると答えるんだ。母親の名前は、マーラ。君はニコラだ。分かったな。」
美夕は、何度も頷いた。お母さんは、マーラ。私は、ニコラ…。
レナートは、大きく一つ、頷いた。
「よし。じゃあニコラ、朝食を食べてるといい。叔父さんは町まで行って来るからな。」
美夕は、頷いた。そして、知らずに震えて来る手を必死に押さえつけた。せっかく翔太達が私を安全な場所にとここへ残して行ったのに。どうしても、ここで生き残らないと。それぐらいのことは、出来ないとみんなに仲間と認めてもらえない…!
一階の暖炉の前には、サンドイッチとスープが置いてあった。
美夕はレナートに感謝してそれを食べた。何のつながりもない私なんかを、こうして世話してくれるなんて。
そして、翔太達のことを考えた。今頃は、もうパージに着いている頃だろうか。五人の遠ざかって行く背中を思い出すたび、美夕の心は痛んだ。一緒に行けるぐらい、私も強かったら良かったのに…。
だが、美夕にも分かっていた。戦闘能力以前の問題として、心が弱すぎるのだ。確かに、自分で道を切り拓こうとするような、そんな強い心は持っていなかった。軍からも、何が何でも逃げ切れるかどうかわからない。もしかしたら、追い詰められたら諦めてしまうかもしれない。
美夕は、ため息をついた。どうしたら、心は強くなるのかしら。
美夕がそんなことをぼんやりと考えていると、いきなり地下からドカドカと足音が聞こえ、レナートが物凄い勢いで居間へと駆け込んで来た。
「ああ良かった、お嬢さん!覚悟を決めるんだ。」
美夕は、びくりと体を固くした。いったい、何があったんだろう。
「か、覚悟?何の覚悟ですか?」
レナートは、美夕の両肩を掴んで言った。
「それだ。まず他人行儀をやめるんだ。それじゃあ他人だと言ってるようなもんだ。」その時、何やら通りの方から騒がしい声が聴こえて来た。レナートは、そっちを見てまた舌打ちをした。「もう来やがった。いいか、軍が来ている。君達を探している。早朝から街の家を一軒一軒しらみつぶしに探してやがるんだ。ここへも、直に来る。兵士が来たら、中へ入れなきゃならない。君のことも当然見つかる。だから、ニコラ、叔父さんだと思い込め。わかったな?間違っても呪文なんか口にするんじゃないぞ。オレが目の前で殴られたとしても、君が突き飛ばされたとしても、絶対に抵抗しちゃならない。そんなことが出来るのは、戦闘員しかいないからな。わかったか?」
美夕は、わけが分からないままに、頷いた。その時、扉を激しく叩く音が聴こえた。
「来たか。」と、レナートは、そちらへ向かいながら言った。「いいか、何が起こってるのか分からないと、ただ怯えていたらいいんだ。絶対に抵抗するな。」
レナートは、扉の方へと歩いて行く。
美夕は、言われなくても怯えていた。軍が、来た…!翔太達が居たら、大変なことになっていただろう。だが、自分だけならきっと大丈夫だ。きっと、ただの町娘に見えるはず…!
美夕は、ひたすらに自分に言って聞かせていた。
「はい?」
レナートが、さも何事かという風な顔をして扉を開くと、兵士が三人、そこに立っていた。
「鍛冶屋か。昔は軍も重用していたというのに、見る影もないな。」先頭の初老の一人が言うと、他の者達は笑った。先頭の男は続けた。「各家を回らせている。お前は特に王に敵意を持っているだろうから、隠れるなら絶好の場所だろうと思って私が自ら来てやった。」
レナートは、その顔を忘れていなかった。
「リュトフ…!」
相手は、ふんと鼻を鳴らした。
「リュトフ准将だ。家の中を見せろ。逆らいはしないと思うがな。」
リュトフは、さっさとレナートを押しのけて中へと入って行く。レナートは、憎々し気にリュトフを見送った。リュトフ…オレを捕まえて、あまつさえ訳の分からない噂を流した張本人。
そんな視線には、気付かないふりをして、リュトフは居間へと入った。他の二人は、さっさと他の部屋へとずかずかと入って行く。そこに居た美夕を見るなり、リュトフは目を細めた。
「…ほう。お前の娘は死んだのではなかったか。」
リュトフは、言った。
「妹の子だ。あいつは病気で世話も出来ねぇからと、こいつをここへ寄越した。」
美夕は、フルフルと震えながら、言った。
「ニ、ニコラです。」
リュトフは、じっと美夕を見つめた。
「…ここへどこから来たのか言え。」
美夕は、震えるままに言った。
「パージから、お母さんが病気だから、叔父さんの所へ行って来いと言われて。」
「母親の名は?」
「マ、マーラです。」
「ふうん。」リュトフは、美夕をとっくりと見た。「マーラとはこいつが投獄されている時に会ったことがあるが、確かに身重だった。あの時の子か。」
美夕は、何のことか分からなかったが、じっと黙ってレナートに助けを求めるような視線を送った。レナートは、それを受けてなだめるように言った。
「大丈夫だ、軍人さん達は探し物があるだけだから。お前を捕まえようってんじゃない。」
美夕は、小さく頷いた。リュトフは、またふん、と鼻を鳴らした。
「相変わらず兄妹仲は良いようだな。頭のおかしい兄が居ると、離縁されて家に戻った哀れな娘なのだと聞いているがな。」
レナートは、食いしばった歯の間から言った。
「…そのお陰で、マーラは子供を抱えて苦労したんだ。」
リュトフは、嘲笑うように言った。
「それでも頭がおかしくても兄がこうして手助けしてくれるじゃないか。あの時も、兄は悪くないと何度私に陳情しに来たか。妹まで頭がおかしいのかと思ったものだ。」家の中を荒らし回っていた兵士二人が戻って来た。そして、首を振る。リュトフは、踵を返した。「そうか、何も出ないか。まあこう歳を取っては、何をする気力もないだろうがな。」
リュトフは、こちらに背を向けた。もう帰るのか、と美夕がフッと息をついた時、リュトフは剣を引き抜いていきなり美夕の鼻先に剣を突きつけた。
美夕は、びっくりして飛び退ろうとして、後ろの椅子へと倒れ込んだ。レナートが、リュトフの腕を掴んで叫んだ。
「何をする!ニコラが何をしたんだ!」
リュトフは、そのレナートを簡単に振り払って床へと叩きつけた。美夕は、再び剣を向けられて体を震わせた。その剣を、弾き飛ばすだけの呪文はもう、覚えて知っていた。だが、レナートは何が何でも隠し通せと言っていた。リュトフは、じりじりと寄って来る。美夕は、ただその切っ先を見つめていた。殺される…!
呪文が唇まで出そうになった時、翔太の言葉が思い出された。
…連れて行くということは、殺すつもりはねぇ。殺すなら、さっさと殺しちまえばいい。捕らえたいんだ。だが、なぜだ?
殺されない。
美夕は、寸でのところで呪文を口にしなかった。自分は殺されない。きっと、これは試しているんだ…!
美夕は、それに賭けた。剣を突きつけられて、美夕にはそれは長い時間に思えたが、実際は数分で、リュトフはフッと笑うと、剣を鞘へ音を立てて収めた。
「…ただの娘か。こんな所に、たった一人で居るはずもないわな。」
そうして、リュトフは今度こそ出て行った。
その足音が遠ざかって行くのを感じながら、美夕はへなへなと床へとくずおれた。良かった…!翔太、やっぱりあいつらは殺すつもりなんかないよ…!
美夕は心の中で思った。レナートが、急いで玄関の扉を閉めて閂を掛けると、飛んで戻って来て美夕を抱え起こした。
「よく我慢した、ニコラ!あそこで何かしていたら、オレも君も連れて行かれちまってたところだ…!」
美夕は、レナートを見て、涙を流した。
「叔父さん…。」
そう、このレナートのことも、自分は背負っていたのだ。どうしても、逃げ切らないと。今は切り抜けた。でも、ここに居るからと落ち着いている場合はじゃないんだ。
美夕は、もっと状況を把握しなければ、と心から思った。そして、地下通路に隠してある腕輪だけでも、手元に置いて常にチェックしておかなければと強く思った。
「叔父さん、腕輪を取って来てほしいの。」
レナートが、驚いた顔をした。
「あれは絶対駄目だ!あいつらだって、あれが君達の持ち物だって知っている。腕輪を持ってたら、それだけで捕まるぞ。拾ったと言っても聞いてもらえない!」
美夕は、真剣な顔をしてレナートにずいと近づいた。
「それでも、情報を仕入れておかないといけないんです!生き残るためには、どうしても!」
レナートは、その真剣な様に気を飲まれているようだったが、険しい顔付きになった。そして、強く一つ、頷くと、足を地下へと向けた。
「…こっちへ。地下通路を教える。」
美夕は頷くと、レナートについて階段を降りて行ったのだった。




