第四話 「雨音に馳せる」
第一章 第四話 「雨音に馳せる」
今日は、雨が酷く降っていた。
2007年6月中旬。もうとっくに梅雨入りし、毎日じめじめとした空気を肌に感じる怠い日々を送っている。
幼かった頃は雨上がりの水溜まりではしゃぎ喜んでいたような気もするが、今じゃ当然そんな気持ちにはならない。気怠いだけだ……と、一人、窓越しの雨に染まっていく景色を見ながら考えていた。
今は帰りのHRを迎えるまでのちょっとした空き時間。正確には清掃時間なのだが、早く終えた生徒は教室に戻ってきて各々だべっている。もっとも、天気が雨なので、外掃の生徒らは外に出ていない。つまり掃除すらしていないのだが。かくいう俺は教室掃除担当だった。
雨はまだ止みそうにない。さすが梅雨と言うべきか。梅雨に敬意を払う時が来たか……などと訳の分からない思考にふけっていると、右の頬に指が食い込んだ。
こんなことするやつは一人しかいない。俺は窓から目を背けずに、そいつの名を呼んでやった。
「直、鬱陶しい」
「せめてこっち見て言えよー。なんでわかったし!」
はぁ、と深いため息をつきながら……振り向いた。案の定、そこにいたのはお馴染みの2人…白間直と鈴波憂だった。
「俺に話しかけるのなんてお前らしかいねえし、そして憂は普通に呼ぶ。そんで、何の用だ」
「ふふ、聞いて驚くな、実はなんとこの俺がだな…」
「放課後、直が勉強付き合って欲しいんだって」
「なんで先に言うんだよおおお!!!」
言いたかったことを先に言われた悔しさからか、直は憂にそう叫んだ。憂はしてやったり、という笑みを浮かべていた。
「お前が勉強……??」
つい本心からの呟きが口をついて出る。直と勉強とは全くかけ離れたものだった。受験期は随分と頑張っていたが、高校に入ってからは全然勉強している姿を見たことがない。
「いやぁ俺もインテリ少年に目覚めちまってさぁ……」
「単に中間の成績が悪すぎただけだろ」
「ぐふっ」
いかにもインテリ風なポーズをとった直は、すかさず憂に脇腹に軽く肘鉄を入れられた。期末テストは、来週の木曜からだった。
「そんなんひとりで勝手にやれよ」
「時人頭良さそうだし」
「お前よりは悪くない」
「まぁ時人、たまにはどうかな」
俺と直の不毛な議論の間に入って、憂がそう言った。
「たまには、か……」
ふと外を見る。雨足は先程よりも強くなっていた。傘を持ってきているが、この土砂降りでは確実に濡れる。
……少しくらい待てば、止むだろうか。
「…雨が、止むまでな」
ある意味、俺の完全な気まぐれだったが……。その返答を聞いて、2人は表情を綻ばせた。
そして、相川知美によるHRを終え、放課後となる。
部活動もテスト期間なので休みに入ったらしく、教室内はいつもより騒がしかった。
「時人ー、こっち来いよ!」
直と憂が空いている机をくっつけながら俺の名を呼ぶ。先週席替えをした結果、俺だけ窓際で、2人は隣同士だった。騒がしさから少しは逃れられる……と思ったが、実際はそうでもなかった。
これみよがしに溜息をつきながら、荷物を持ってふたりのところへ向かう。
「よっし!やるぞ!」
直が珍しくやる気に満ち溢れた目でシャーペンを握っていた。肝心の教材は机の上にないのだが。
「お前、何から勉強すんの」
「とりあえず数学……」
憂のその問いかけで直の燃えていた瞳が一瞬で萎んだことから、おそらく数学が非常に悪かったんだろうな、と微かに思った。
「数学はテスト課題山ほどあるし、それやったら」
「あぁ……中間の時もそれ溜め込んで前日に一気にやったから散々だったんだったな……。よし!やるか!」
意気込んで、鞄の中を捜索し始める直をよそ目に、俺も数学の課題をやろうと机に広げた。隣を見ると、憂は英語を広げている。
そのまましばらく俺はノートと問題集に目を落としていた。3問くらい解き終わったあとだろうか、直がパタッと机に唐突に伏せた。
「なっ直?」
驚いたらしく憂がびくっとなりながら直に問いかける。当の本人は死にかけの声でこう返答した。
「ノート忘れた……」
「馬鹿なのかお前は」
「馬鹿だな……」
たかがノートを忘れたことがそんなにメンタルにきたのか、俺と憂のバカ呼ばわりにも反論してこなかった。憂は気を使って「ほかの教科やったらいいじゃん」と助言していた。が、しかし……。
「いや今数学の気分だから……俺の頭の9割数学だから…… 」
「残り1割の割合を増やすんだ!さぁ!」
「うっ、ほかの教科……英語に国語……」
やはり直の勉強嫌いは変わっていなかったようで、1度出たやる気はどこへ行ってしまったのか、そのまままた机に突っ伏してしまった。
「こら、直ー」
憂がそんな直のほっぺをつつきながら起こそうとする。直は憂から顔を背けて、「ふて寝してやる……帰る時起こして」とだけ言って黙ってしまった。憂は深いため息をついた。
「騒がしいわね」
直が黙ると、憂の斜め後ろからそんな声が飛んでくる。
「あっ、ごめんね福本さん。うるさかった?」
苦笑いしながら謝る憂を、声の主である福本未来は一瞥し、また手元のノートに視線を落としていた。福本と直と憂の席が近くだったということに今気づいた。
福本とは、神永椎奈を間に挟む感じではあったが時々話す機会があった。いや、俺はほとんど喋らないのだが。主に直と憂が話しかけていた。2人は社交的であるし、別に神永と福本だけに話しかけていた訳では無いが、なんとなく、彼女らは『仲のいい』方なのかもしれない。俺には関係ないが。
くだらない思考を止めて、俺も視線を教材に落とす。無機質な数字の羅列。俺は至って無感情に手を動かしていった。勉強は、嫌いでもない。だが好きといったわけでもない。ただ、やらなくてはいけないことだろうからやるだけだった。
教室はやはりどこか騒がしい。そのまま30分くらい問題を解いていて……、集中が切れた。周りの微かな騒がしさに嫌気がさし、先ほどの直と同じように机に突っ伏した。
「こーら、時人まで消沈かよ」
見兼ねた憂が俺の肩を揺さぶりながらそう言う。俺はその憂の手を払って、「飽きた、ちょっと寝る」とだけ蛋白に行った。憂の表情は見えなかったが、おそらくいつも通り困ったような笑みを浮かべているのだろう。
視界を遮断してみると、より音は明確に聞こえてくる。シャーペンが紙の上を走る音、教材のページを捲る音、……会話の、内容。
声だけでは判別つかないが、同じクラスの女子達が、おそらく芸能人について話題にしているのが聞こえた。
「はぁ……本当ショック」
「昨日のニュースでしょ?びっくりだよね」
「めっちゃ好きだったのに……」
やたらと声色は暗かった。俺はTVをあまり見ないため、なんの話題についてなのか全く推測できない。
「福本さん、TVとかあんまり見ない人?」
俺と同じような反応を態度で表したのだろうか、福本に憂がそう訊ねるのが聞こえた。
「好きじゃないから、騒がしいし」
ばっさりと福本は言い捨てる。俺も福本と似たようなものだった。
「そっか、まぁ俺も言うてニュースくらいしかまともに見ないけど……。昨日のニュースとか結構話題だけどそれも知らない?」
「今、あの子達が話してた話題?」
「うん、そう。アイドルグループのボーカルが自殺したっていう話題」
「……知らない。興味もない」
そこで、2人の会話への俺の興味は途切れた。『自殺』の三文字をそっと、俺自身にも聞こえないような声でなぞる。アイドルといった具合だから、まだ若いのだろう。
若者の自殺が度々話題にされるが、大抵の人はどこか絵空事の世界のように感じているのではないか。────俺も、その1人でありたかった。
あれこれとつまらぬことを考えている間に、気づけば俺の思考は停止していて、夢と現の間をさ迷っていた。
突っ伏してから40分も経っていることに気がついたのは、背中をを何かの角でつつかれて起こされたからである。
「っ、いっつ…」
「テスト期間に教室で寝るとはいい度胸だな?」
起き上がると、そこに居たのは────国語科教師、祗道義だった。手には出席簿。それの角でつついたのだろう。
「……すみません」
「あと10分で教室は施錠するから、まだ勉強するなら自習教室にいけ。あとそこの居眠り魔も起こしておけ」
そう言って祗道が指さしたのは直だった。よほど安心して寝ているのか微かないびきまで聞こえる。祗道が出ていこうと踵を返したのと同時に、福本がノートで直をつついていた。
「…ふあ?」
目を覚ました直が間抜けな声を上げる。呑気で何より。
「もう帰るぞ。お前いつまで寝てんだよ」
憂が荷物をまとめながら言った。直は時計を一瞥し、ようやく事態が飲み込めたようだった。
「……馬鹿みたい」
言って、福本も教材を鞄に片付け始めた。俺も中途半端に問題を解き終わっていた数学のノートを閉じ、鞄に詰めた。
直が荷物をまとめ終わったのを確認して、俺達は教室を出た。流れで福本もついてきていた。
「まじ、うざいよな」
昇降口にさしかかったあたりで、憂が脈絡もなく毒を吐いた。俺はなんのことかわからず、固まった。
「……どうした? 珍しいな」
直が怪訝な声音で問う。憂は靴を履き替えながら、不機嫌さを僅かに感じさせる声で答えた。
「俺、あいつのこと嫌いなんだよ」
その答えを聞いて、俺はなんだか、少し驚いた。誰にでも笑顔で接する憂に、そのような嫌悪を示す人物がいるとは思っていなかったからかもしれない。
それは直も同じだったようで、少々目を丸くしていた。 ……まぁ憂も聖人ではない。嫌いな人物の一人や二人いたってなんら問題ではない。その話題について、憂はもう口を開くことは無かった。ただ常よりも少し鋭い目をしていた。
雨が止むまで勉強をするという予定だったが、生憎まだ止んではいない。先よりはマシになったと言うべきか。鬱陶しく傘を差しながら、俺達は下り坂にさしかかった。
下り坂の歩道はそこまで広くない。だからいつもそれとなしに俺は二人の後ろに並んで歩く。今日は福本も一緒にいたため、二人二人に分かれて帰っていた。といっても、前の二人は普段通りくだらない話に花を咲かせていたが、なにせ、俺も福本も語るタイプではない。沈黙の中、雨音と前の男二人の愉快な話し声が俺たちの耳に入っていった。
俺は深い意味はなかったのだが、福本の方にチラリと目を遣った。彼女は手で口元を抑えていた。
「……眠いのか?」
つい、そんな問いが漏れてしまった。
福本は少々目に涙を浮かべながら、「最近寝れなくてね」と不機嫌そうに言った。
「まぁ夜遅くまで勉強してそうだもんな」
「……まぁ、そんなところ。あと、夢が嫌でね」
「夢?」
福本は頷くだけで、それ以上は答えなかった。俺はあまり意味がわからず、ただぼんやりと夢について考えるだけだった。最近、夢なんて見ていない気がした。
────そうしているうちに、俺達は駅に着いた。俺たち3人と福本はそこで別れる。
「じゃあね」
彼女は淡白にそう言い、バス停へと続く駅の表階段を降りていった。その先は雨の街である。
────自然と、彼女が雨の街に吸い込まれていくような、そんな気がした。