はじめてのお仕事8
「ええと。ありがとうジゼル。おかげで、ちょっと力に余裕ができた、かな」
なにやらはっきりしない礼をシリルから告げられたのは、マリーからの通達で、シリルの寝ぼけ癖がひとつ消えたことを使用人達が知ったその翌週だった。
今日は御前会議の日なので、シリルはいつものように、寝ないでその会議に出席して、帰ってきた。
母屋の廊下ですれ違い、いつものようにすぐに寝るのだろうからと、支度を手伝うためにそのまま離れに向かっている途中のことだった。
「いいえ、どういたしまして。やっぱり、見ている方もはらはらしますから、ああいう寝癖は早く直さないと駄目ですよ」
「そうだね。……でも、そういう話なのかな」
ぼそぼそ小声で呟いたその言葉は、ジゼルの耳には届かなかった。
「今日はもう、お休みになるんですよね?」
「ああ、そのつもり……あ、そうだ」
突然、懐を探りはじめたシリルに、ジゼルは首を傾げた。
「手、出して」
振り返ったシリルにそう言われて、素直に両手を差し出す。
そのうち左手を、シリルの、その外見から想像するよりずっと男性的な手がすくい上げ、そっと腕輪をはめた。
「……なんでしょう?」
「お礼。どうせ昨夜は寝てられないからと思って作ってみたんだ」
驚き、自分の腕にはめられたその腕輪をまじまじと観察する。
シリルの髪を思わせる白銀に、その瞳と同じような色の、小さな翡翠がはまっている。蔦が絡んだような繊細な彫りが施され、その部分には、所々に色のついた石で、人の手で作られたとは到底思えないほど細かい花の意匠が付けられていた。
こんな繊細な、細やかな彫りの手法を、ジゼルは今まで一度も見たことがなかった。
装飾品など縁の無かったジゼルが、ぱっと見てわかるほど、恐ろしく手の込んだ高価な品だった。
ジゼルは、笑顔をひきつらせながら、慌ててそれを外そうと手をかけた。
「いくらなんでも、あの程度のことでこんな高価な品はいただけません。お気持ちだけ……あら?」
つい先程、するりとはめられたはずの腕輪が、なぜか手に引っかかり抜けなかった。
ギュウギュウと無理矢理引っ張っても、ぐるぐる回してみても、外れない。
しまいには、腕をぶんぶん振り回したが、まるで肌に吸い付いたように、その腕輪は頑として離れなかった。
「……ふぐぅぅぅぅぅ!」
顔を真っ赤にしながら、必死になって外そうとしているジゼルを、シリルは慌ててその手を押さえて止めた。
「ああ、はめながら魔法で小さくしたから、外せないよ」
「はい!?」
ぜえはあと肩で息をしながら、ジゼルはシリルの信じられない言葉に目を剥いた。
「小さくって、なぜですか!」
「それは、特殊な効果を付けたので、うっかり外れて他人の手に渡ると困るから」
さらりと告げられ、二の句が告げられない。
完全に硬直したジゼルに、シリルはにっこり微笑んだ。
「便利だと思うよ。それを付けてると、私の防御魔法が無効にできるから」
「む、無効?」
「いつも出ている透明の壁も、その腕輪を持っていれば効果が無くなるよ」
ぽかんと口を開けそれを聞いたジゼルは、はっと気が付いたように首を振った。
「駄目です!」
「……なぜ?」
「だって、その防御の魔法って、身を守るためですよね? それなのに、それを突破できるような物を簡単に他人に持たせたら、駄目じゃないですか」
「だから、ジゼルの腕からは外せないようにしたんだけど……」
「駄目ですっ! 盗賊達は、宝飾品を奪うために、腕ごと切り落として持っていくことだってあるんですよ。私自身が身を守れるならまだしも、なんの力もない女に持たせていいものではありません! それに私は、ずっとここに勤めるわけじゃないんです。いつまで居るのかもわからないのに、こんな大切な物はお預かりできません!」
「……うん、やっぱり、それはあげる」
「だから!」
「大丈夫。腕を切られることはない。それは、私の魔法を無効化するんじゃなく、指輪の対になるように作ったんだ」
シリルはにっこり微笑み、左手の甲をジゼルに見せるように顔の横まで持ち上げる。その中指に、やはり白銀で、同じように翡翠がはまっている指輪があった。
「対の物は、自らの魔法に反発することはない。君の身も、私と同じように守られるから」
その言葉を聞いて、ジゼルは血の気が引いた。
「わ、私にも、あの透明な壁が出るんですかっ!?」
「あ、大丈夫。私の指輪が暴走しているのは、ただ私の魔力に反応して、威力が増しているだけだから。だから逆に、魔力の練り方を知らないジゼルなら、暴走はしないしできないよ」
だからといって、安心できるような物ではない。なにせ、あれが出てくると、外から音も届かないが、中の音も外に届かないのだ。
なんとか外せないかと、必死で腕輪を抜こうと努力をしているジゼルを見下ろしながら、シリルは苦笑した。
「心配するのは、君が脅しに屈して寝返るような状況だろうけど……それもなさそうだし」
「そんな父の名に恥じるような行いはしません。でも、なにごとも絶対はないんです」
すぐさまそう返したジゼルは、自分の腕に、どれだけ重要な物が付けられたのか、今のシリルの言葉で身に染みて理解した。
ジゼルが、どんな状況で、どんな選択をするのか。それは、本人もわからない。
たとえば、妹たちが攫われたら?
父が捕まって、命の危険にさらされたら?
商人である伯父が商売に失敗して、窮地に陥ったら?
……そして、そんな状況を、利用されたら?
そんな時でも、この腕輪を手放す選択はしないと、ジゼルは言いきれないのだ。
ジゼルは、他の使用人達のように、公爵家に忠誠を誓ってここにいるわけではないのだから。
「とにかくこれは、外して下さい」
必死で突き出した腕をちらりと見て、くすくす笑いはじめたシリルは、そのまま再び足を離れに向け、歩き始めた。
「あ、待ってください。シリル様!」
「あのね、人をあっさり裏切る事ができる人間は、そんなに必死にならないよ。何も考えないままに、重要な選択を気軽に受け取るんだ。できない人は、自分がそれをできないとわかっているから、選択をする状況を作らないように必死になるんだ」
「そう思うなら、取ってください!」
「……持ってたら、申し訳なくて、君はここにいるだろう? だったらそれでいいよ」
「……は?」
「あ、でも、できるなら、誰にもそれを持っていることは言わないでくれたら嬉しいんだけど」
内緒とばかりに、人差し指を口に当てたシリルに、ジゼルはこのどうにもならない状況に叫ぶように言い放った。
「むしろ言えません!」
そんなジゼルの表情すら、楽しそうにシリルは見つめていた。
「特にマリーに見つかると、とても面倒なことになる気がするから……」
「言いませんけど、取ってください」
なおも諦めずに腕を突き出すジゼルだったが、シリルはそのまま、体の向きを変えてしまった。
「ははははは……」
笑いながら、シリルは自らの住まいである離れに向かい、足を動かす。
「シリル様、笑ってごまかさないでください!」
慌ててそれを追いかけながら、ジゼルはそれをどうやって仕事中も見つからないようにするかを必死に考えていた。
―――そして三日後。
あっさりとその腕輪の存在はマリーに知られることとなり、ジゼルの住まいは、母屋から離れに移動された。
別に、ジゼルがわざと見せたり言ったりしたわけではない。
ただ、侍女仕事をしながら手首を隠したままにしておくのは、どうやっても無茶で不自然だったのである。
ジゼルの左手を握ったまま、満面の笑顔を見せるマリーと、その笑顔と目を合わせることがどうしてもできずに、引き攣った笑顔でマリーから必死に視線を逸らしていたジゼルの姿は、その日の午前中、多くの使用人に目撃されたのだった。