花開く その思い 24
海上で見る空は、こぼれ落ちそうなほどの無数の星に埋め尽くされた、もう一つの広大な海だった。陽がまだある時間に見た、煌めく波間の風景が、今は空で、星の瞬きによって表されている。
その広大な星の海に身を委ね、シリルは海面に自らの魔力の糸を無数に張り巡らし、周囲を警戒していた。
シリルは、長く伸びた白銀の髪で背中を覆い、虹彩を変化させ、瞳を翡翠に輝かせた異形の姿となりながら、見張り台がある帆柱の先端に、片足だけで立っていた。
その下にある見張り台には、レノーが自ら立ち、周囲を警戒している。
他の兵達は、夜明けまで体力を温存するため、ごく少数を残してみな休息を取っている。
そんな静寂に包まれた船の上で、二人は、同様に海を見ながら、その時を待っていた。
「……来るなら、夜明けですかね」
「だろうな。可能性が高いのは、夜のうちに、砦には陸伝いに数人送り込んで、それを回収するために夜明けまでに接岸する方法だろうよ。今回は、はじめから相手を特定して罠を仕掛けたが、陸路を僅かなりと使っておけば、船が直接見られない分、特定に時間がかかるからな。それだけ、足取りを混乱させやすい」
闇の中でも、シリルの眼は普通に物を見る事が可能である。
しかし、レノーの目はそうはいかない。
――そのはずなのに、レノーは、普通に周囲を見渡し、目視で確認を行っている。
自分も規格外だとよく言われたが、さすが野獣と言われる男も、十分規格外だとシリルはひっそり考えていた。
「……何度も襲撃されたと聞いたんですけど、まだ砦を襲ってくるんですね。何度も失敗しているなら、そろそろ懲りればいいのに」
「海賊には海賊の矜持ってもんがあるんだろう。もっと自由に動けた間に、何度もやつらの住み処をぶっ壊したからな。俺にも同じことを仕掛けたいんだろうよ」
シリルが呆れたように呟けば、レノーは肩をすくめてそれにあっさりと答えた。
「今、その仕事をしなくなったのは、隊長になったからですか? それとも……」
「海軍の基地が出来たからな。その仕事は、そっちがやるって話になった。一部隊の仕事ではなく、本格的に沿岸の安全を図るための組織を作ったって話だが……。今のところ、やつらはなんにも仕事してねえな。おかげで、海賊の恨みは、うちが引き受ける羽目になってる」
その、あっさりと達観したようにも聞こえる答えは、おそらくティーアも同様なのだろう。シリルが見ていた限り、残されている一家は、娘三人も皆、父親が戦う時はあそこで生活するのが当たり前になっているのだ。
あの会議室は、本格的に立て籠もる事も出来る構造になっている。
会議室は、そこに行くまでほぼ一本道であり、その途中にある窓は、籠城した時に弓などを使い抵抗するための物で、人が出入りできるような隙間はない。
屋内にはなぜか井戸も掘られている。水源がはっきりしていないが、少なくとも海水ではなかったので、長期間の籠城にも耐えられる。
彼女達は、立て籠もる時、食事は外で作って持ち込んでいたのだが、保存食も室内に用意していた。
いざとなれば長期の立て籠もりすらも可能な仕度をしている彼女達は、それが当然だという風で、疑問など感じてさえいなかった。
今回の討伐で、一家の脅威がすべて解消するわけではないだろうが、せめて、ジゼルがこれから住む王都に、一家が安全に旅する事が出来るようになればいい。
ジゼルが、一家がこれからも住むだろうこのガルダンに、安全に移動できるようになればいい。
今までジゼルがもっとも安全に過ごせた場所から連れ出す自分ができる、せめてもの事を、シリルは今行おうとしていた。
糸は、波間を滑るように、その海域に漂っていた。
時折跳ねる魚がその糸に触れる他は、波が穏やかに揺れるばかりである。
だが、その時、その波に、大きなうねりを感じ、シリルは顔を上げた。
「船影あり」
シリルの声に、レノーもまた顔を上げ、予定の海域に向けて目を懲らす。
まだ、夜は開けておらず、その水平線に僅かの変化もみられない。船は僅かな月明かりの元、黒い影として、そこに存在していた。
レノーが下で立ち番をしていた兵に知らせると共に、シリルは今まで波間を漂うだけだった糸を、その舟に向けて鋭く走らせた。
「この時間に、明かりも無しで船を動かすか。優秀な操舵手だな」
レノーが、凶悪な笑みと共に、この場を任せるとシリルにひと言告げ、指揮を執るために、見張りの役割を交代し、降りていく。
シリルは、レノーの言葉を受け、魔力の糸を、今はまだ影にしか見えない船に慎重にまとわりつかせた。
まず、糸を使い、相手の船に魔術師が乗っていないかを慎重に探る。
繊細な糸の先を、ほんの僅かな指先の動きで自在に操りながら、シリルは海賊の船を丸裸にしてゆく。
「……敵、魔術師無し。内部探索開始」
帆柱の先端で、ふわりふわりと薄紫の布が舞う。
それを、船員と兵達が、慌ただしく動きながらも、畏敬の念を込めた眼差しで見守っていた。
「すげえな、魔術師ってのは。何十人いたって人の目では補いきれない物を、全部一人でこなすんだな」
ため息混じりの兵士に、レノーは重々しく告げた。
「だからこそ、その才能があるやつは貴重なんだよ。国が財産として囲い込む程度にはな。早く仕度しろ。砲台の用意は大丈夫か」
「昼の間に整備は終わっています。方角の微調整が、この闇の中だと難しいのですが」
「……でたらめ魔術師が、ある程度飛距離の計算が出来ているなら、飛ばせばその弾道の微調整は自分がやると言ってたぞ」
レノーは、その視線を再びシリルに向けた。
兵士達は、同じようにその視線をシリルに向け、そのあまりにも規格外の存在に、首を振る。
人一人が、ようやく持てる重さの鉄の塊が、火薬で勢いを付けて飛ばされるのである。船の外装も簡単に吹き飛ばすような威力のある物を、魔術師はさも簡単に、操る事が出来るというのである。
畏れるなというのは、不可能だった。
「んなことも……できるんすか」
「風の方角も気にするな。あいつがいる場所が、風上になる。存在からその力まで、何から何まででたらめなんだよ、あいつは」
レノーは、そう言いながら、今帆柱の上で魔力の糸を繰る、異形となったシリルに視線を向けた。
「あいつの魔術は、子供の積み木なんだそうだ。小さな木切れを積み上げて城を造るように、小さな魔法を積み重ねて、目的の形を作る。そんなめんどくさい魔法の編み方をするのは、世界広しと言えど、あいつだけらしい。だからこそ、あいつは、その小さな魔法を道具に込める方法を思いついた、世界で初めての、魔法”技”師なんだ」
その小さな単位から、シリルの魔法は始まった。
師に教えられた魔法は数あれど、シリルが実際に使用する魔法は、ほんの僅か。ほとんどの効果を、その僅かな数の魔法から、紡ぎ上げる。
魔力が大きいからこそ出来る、他の魔術師がやろうとしても不可能な離れ業なのだ。
その離れ業を、息をするかのごとく紡ぎ出すでたらめ魔術師は、今まさに本領を目に見えるほどに発揮中だった。
「……音声、拾います」
シリルの声が船に静かに響く。
その直後、どこかで聞いた濁声が、全員の耳に届けられた。
『まったく、あの軍人野郎。こっちをなんだと思ってやがる。俺らの奴隷は行くとこ行けば、高級品なんだぞ。それをさんざん値切り倒しやがって』
『上手い思いもさせてもらったが、そろそろ潮時でしょうな。あの軍人にいつまでも付き合ってたら、こっちは使い捨てにされるばかりだ』
『買われて使い捨てられた奴隷から、こちらに手が伸びるのは間違いないだろうしな』
『宰相を攫う必要なんか、あるのかねぇ。むしろ、さっくり殺っちまったほうが、楽じゃねえか』
『……ま……か』
『どうやら、あの軍人野郎は、功を焦ってるみたいだな。宰相閣下が陸軍の兵舎から攫われて、それを助けたのが海軍となれば、今より海軍が幅を利かせられる。奴隷達で作った海賊の住み処に宰相を捨てて、俺達はとんずらすればいいだけだと言われたが……じつは俺達を船ごと沈めようとしてたりしないだろうな』
『……糸……師……』
帆柱の上で、シリルの手が止まる。
下で慌ただしく動いていた全員も、それに気が付いた。
『この糸……術師……聞こ……ま……か』
「……こいつは、海賊の声じゃないな」
レノーの言葉に軽く頷くと、シリルはその手の動きを変化させた。
「音声絞ります」
『――この糸を繰る魔術師よ、聞こえますか』
その明瞭な声に、一瞬、船が騒然となった。
「……相手に魔術師が居るじゃねえか!」
「いえ、違います」
シリルは、船影を見つめたまま、静かに首を振る。
「なんだと?」
「これは、魔術師の力じゃありません。私が伸ばしている魔力の糸に、声を乗せているんです。あちらからの魔力の糸は、感じません。……嫌な予感がする。返答します」
シリルは、ふわりと体を動かし、そちらの糸に向けて、応の答えを返した。
『……魔術師に、頼みがあります。私は、ファーライズ第三聖神官イルネス=ガトー。あなたが糸を伸ばしている船に捕われています』
「なっ! 聖神官がなんで海賊船の中にいるんだよ!」
「ちょっと待ってください、まずいです! 聖神官がいる船に、うかつに砲撃は出来ない。砲撃用意は一時中止してください!」
シリルの指示に、甲板で走り回っていた兵達は素直に従った。
『この船に、私の他に成人男性二名、成人女性五名、未成年女性二名が捕われて、下層の船室に閉じ込められています。私は、この行為に対して、抵抗ができません』
「抵抗? 聖神官が抵抗って、何するんだ?」
見張り台にいた兵士が、きょとんとした表情で首を傾げた。それを見下ろしながら、シリルは顔をひきつらせた。
「ファーライズ聖神官なら、身をもった抵抗など必要ないですよ。相手を敵視した瞬間、神の奇跡で船が沈んでもおかしくないです。聖神官自身はそれで助かるかもしれないけれど、他の捕われている人々の命はない。陸が近いなら、まだ助かる術はあるでしょうが、中にいる聖神官は、周囲がわからないんだと思います。だから、抵抗はできないです」
愕然とした兵士の表情に追い打ちをかけるように、囚われの聖神官の声が再び船内に響き渡る。
『あなたが乗っている船は、武装船でしょうか。救出を依頼します。船を沈めないならばどんな攻撃手段も神の名の元に認めます。ただ、できる限り、人質の身の安全は計ってください。もし、非武装船ならば、今すぐガルダンに行き、第五聖神官エリック=フィッテに、私の名で船の出航を依頼してください。それですべて通じます。至急お願いします』
突然の事態に、今まさに攻撃用意を調えていた面々が、愕然とした表情で、敵船影を見つめていた。
そしてシリルは、帆柱の上で、なにやら難しい表情で首を傾げながら、その聖神官の居場所を特定するべく、再び魔力の糸をそちらに向けて伸ばしたのだった。




