花開く その思い 21
二人のじゃれ合うような会話を聞き流しながら、父親二人は、互いがどちらが先に口を開くかを牽制し合っているようだった。
それを制したのは、さすがに日頃の職務ゆえか、口を使う事が多いと思われる宰相だった。
「それで、儀式についてだが。婚約の儀ならば、婚約の期間を定める事になるんだが」
「その前によ。お宅の息子は、うちに婿に来ると言い張ってるんだが、それはそっちも了解してるのかね」
「……なに?」
「そっちの家の事情を詳しく聞いているわけではないが、貴族の息子がそうほいほい平民の家に婿にいく事が出来ないくらいは、さすがに知ってるんだが」
宰相は、一瞬押し黙ると、ゆっくりと息子に視線を向けた。
地を這うような、今まで聞いていたものよりさらに背筋を凍り付かせそうなほどの冷たさを感じる声で、その名を呼ぶ。
「シリル……?」
「ちゃんと調べてきましたからね。私の身分は、もう完全にバゼーヌから抜けているでしょう。魔術師のみの身分なら、商人に嫁いだ魔術師がいましたし、ヤン師匠の奥方は農家の長女ですよ。前例があるなら、私のも問題ありません。仮の王位継承権に関しては、むしろ早く抹消しなければいけないものなんですから、私の結婚で何かが変わるわけでもありません」
ジゼルに、お腹にいたノルを預け、シリルはゆっくりと身を起こす。
あくまで婿で押し通す気らしいシリルに、宰相は首を振った。
「お前それを、姫に説明してきたのか」
「……母さんに?」
「姫は、お前が婿になる事を納得したのか」
「……事後承諾です」
「馬鹿者め。これに関しては、私より姫の方がよほど厳しいぞ。確かにお前はすでにバゼーヌの籍を抜けている。だが、お前の中に王家の血がある事に変わりはない。姫は、王家の血に関して、折れた事はない。お前の事に関しても、バゼーヌから籍が抜けているのはある意味書類上だけの事。件の誓約の期日が来たあとも、お前が貴族の籍を持つ事に変わりはないからこそ、あの方は条件付きでそれを認めたんだ。嫁を迎える事なら何も言わないだろうが、お前の籍までが平民になる事は、あの方は絶対に認めんぞ」
厳しい視線を向ける宰相の向かいで、レノーは納得したように頷いていた。
そんなレノーに向き直り、宰相はまるで懇願するような口調で、問いかけた。
「婿じゃないと、駄目なのか?」
真摯な問いに、レノーは厳めしい顔をさらに顰め、沈黙した。
そんな夫に変わるように、その場の空気をすべてひっくり返すような陽気は声が返事をした。
「どちらでもよろしいですよ」
「ティーア!」
夫の制止も気にすることなく、ティーアは微笑んだままで頷いていた。
「娘はまだ二人おりますし、もともと三人のうち、誰か一人が婿をもらってくれればという話だったのですもの。何も一番上だから、ジゼルがもらわなければいけないという事もありませんわ」
軽やかな笑い声と共に告げられた言葉に、宰相はあきらかにほっとして表情をゆるめ、そして逆にレノーの表情はさらに厳めしくなった。
さすがのシリルも、苦い表情で父の安堵の表情を見つめ、小さな声で愚痴る。
「父さん……勝手に話を進めないでください」
「これは最大限の譲歩だ。少なくとも、お前の相手に関しては何も言わん」
癖なのか、息子を睨む時だけは他の時より視線の冷たさが三割ほど増している宰相は、その視線で息子の声を封じる事に成功した。
その様子を、しみじみと見つめていたティーアは、不思議そうに首を傾げた。
「むしろ、そちらの方が私は不思議なのですけど、本当にうちの娘がそちらにお嫁に行ってもよろしいんでしょうか? 親の私が言う事ではありませんけど、うちの子には貴族に必要な教養など、何一つ身につけさせた覚えがありませんが」
そんな状態で嫁に行って、苦労をさせるのも親としては、という母の呟きに、何を今更とレノーは突っ込んだ。
宰相は、そんなティーアの心配を、若干ながら柔らかになった表情で否定した。
「それに関しては、大丈夫だろう。元々、彼女を見初めてシリルの傍に置く事を決めたのは、王妹として王妃陛下と並び社交界に君臨する我が妻ディオーヌだ。元々、彼女がシリルの妻となる事は、視野に入れていたはずだ。それなら、必要な教育は、あの方が行うだろう」
宰相は、ジゼルを見ながらきっぱりと断言する。
ジゼルは、その言葉で、バゼーヌ家に預けられていた日々を思い起こした。
公爵夫人は、にこにこと微笑んだまま、ただお茶を一緒に楽しむようにとジゼルに告げた。
毎日、話題を変えながらも、さりげなくお茶の入れ方を教え、そして使用人達の仕事を教え、社交界の貴婦人として必要な心得を、言葉とその姿で示し続けていた。
シリルの傍に、お仕着せを着て仕えるようになったあともその習慣は変わらなかった。
時にお茶だけではなく、淑女としての心構えと、時の過ごし方も、見せてくれていた。
どんな失敗をしても、叱られるような事はなかった。ただ根気よく、毎日繰り返し、それらを見せてくれたのだ。
初めて見た貴族の生活に及び腰だったジゼルの手を引き、その中でしっかりと立つ術を教えたのは、間違いなく公爵夫人だった。
「姫は、彼女がシリルの傍にあればと思えばこそ、我が家で彼女を守護する事を請け負ったのだ。それは、彼女の立場が、使用人からシリルの妻になろうと、変わる事はない」
初めて、公爵夫人の言葉の端々に込められていたものが、頭の中にじわりと浸透する。
あれらが、シリルの傍にあるために必要な事なのだと、お茶と笑顔に僅かずつ潜ませて、公爵夫人はジゼルに伝えていた。
ジゼルは、それをようやく、受け取る事が出来たような気がした。
しかし、そんなジゼルの安堵の表情と裏腹に、複雑な思いでシリルが見つめていた。
「……どうして、母さんが、ジゼルを……。初めて会った時だというなら、それはあの夜会の時でしょう。彼女は、平民としてあれに参加していた。妻として見初めるなら、貴族の女性だって沢山居る場なのだし、先にそちらに目を向けそうなものなのに、どうして彼女だったんです」
「……銀と紫水晶を切望したのは、お前だけではないということだ」
その場の視線が、ジゼルの銀に集中した。
視線が集まるのを感じながら、ジゼルは自らの髪を一房手に取る。ようやくジゼル自身も認められるようになった銀は、予想以上の影響を、バゼーヌ家にもたらしていたのだ。
「姫は、お前が思う以上に、お前が大切なのだよ。幼いお前が、魔力で苦しむたびに与えていた銀と紫水晶の守りは、すべて姫が、王家から降嫁する際に与えられた財を対価にして得ていたものだ。お前が粉々にした守りの数は膨大だったが、姫は自らに与えられたすべてを手放しても、お前を守るためならそれで構わないと、国内は元より近隣諸国からも守りをかき集めた。結局、成人までの命すら保証されず、その身を守るには魔術師になるしかないとわかった時には、あの感情を抑える事が常の姫が、慟哭したのだよ」
「……そんな姿、見た事もありません」
シリルの知る母は、常に笑顔で感情とその思いを包み隠す。魔力でその思いを探ろうとしても、彼女の感情は揺らぐ事がないため、それですら読み辛い。
そんな姿しか知らないシリルからすると、慟哭など到底信じられる話ではなかった。
だが宰相は、微かに首を振り、息子に言い聞かせた。
「当事者であるお前に見せるはずがなかろう。それがあったからこそ、姫は彼女を目に止め、そしてその人となりを見る気になったのだろう。あの時、彼女が王妃陛下に面会が叶ったのは、姫の意向があったからこそだ。それがなければ、直接会う事は、さすがになかっただろう。姫ははじめから、お前の側にその揺らがない銀と紫水晶をもつ娘を置くつもりで、彼女を連れて帰ったのだよ。それ以外など、姫にとっては瑣末な事だ」
ジゼルがどこの出身であろうと、誰の子だろうと、公爵夫人には関係ない。銀と紫水晶をもつ娘が、そのまっすぐな性根を持ったまま、息子の傍でその心を守る事こそ、重要なのである。
夫である公爵は、夫人には勝てない。何があっても勝つ事はない。
だが、誰よりもその理解者である事は、間違いなかった。
――故に、断言した。
「だが、嫁にもらうんじゃなく、お前が行くのは駄目だ。それだけは、間違いなく姫は認めない」
きっぱり言い切り、そして宰相は正面に座るレノーに頭を下げたのである。
「これはあいにくやれん。申し訳ないが、そちらの娘をくれ」
「……宰相が、ずいぶん簡単に頭を下げるもんだな」
「簡単なわけがあるか。ジゼル嬢を求めているのは息子だけじゃなく、姫もなんだぞ。むしろそっちの方が説得が大変なんだ」
おや、とジゼルは首を傾げる。
なぜか父親二人が、最初の雰囲気からずいぶん砕けているように感じたのだ。
レノーは、宰相を見て、しばらく沈黙した後、深々と息を吐いた。
「お前も大変だなぁ……」
「お前に言われたくはない」
宰相とレノーの視線が、ティーアに向けられた。
ティーアは、その二人の視線をものともせずに、ただほほほと笑っていた。
――レノーの友人関係は、筆頭として、ベルトラン家現当主の存在がある。
当然のように、その酒の席には、隣人であるバゼーヌ家当主も存在していたのである。
ジゼルとシリルがそれを知ったのは、二人の結婚が、ジゼルが嫁に行く事で決まった後の事だった。