花開く その思い 18
シリルの視線がジゼルの視線とぶつかりあう。
緩やかに伸びてきたシリルの手が、ジゼルの手を取り、そっと口元にその手をあてた。
また噛みつかれるのかと身構えたジゼルは、シリルに微笑まれ、その手のひらに口付けられて、羞恥に慌てふためいた。
「……居てくれて、助かった」
「え、あの、どうか、なさいました?」
「ノルの眠りに引き込まれそうになってた」
「え!?」
ジゼルが慌てて視線を向けた先では、シリルのお腹に抱え込まれている黒猫が、ぐったりと体を投げ出すようにして、力なく眠っていた。
日頃、シリルも、眠っている時は彫像のようで、はじめの頃は息をしているのか不安になったものだった。
それがノルは、体が小さい分、まるで死んでいるかのように見えるのかもしれない。
「あの、ノルはこんなにぐったりしていて大丈夫なのですか?」
「うん、師匠が居るから、大丈夫。師匠は、これに関しては、私より熟練だから」
シリルは、握っていたジゼルの手を、そっと毛鞠となっていた梟に押し当てる。
師匠は、ふるりと一度身を震わせると、再び元のように、毛を膨らませ、丸まった。
「私も昔、師匠にこうして守ってもらっていたんだよ」
懐かしそうにその姿を見るシリルを、ジゼルは驚きで見開いた眼で凝視した。
「師匠さんは……ずいぶん長生きなんですね」
「私より年上だよ。使い魔としても、もう三十年くらいじゃないかな」
「さんっ……」
「今は、私が仮とはいえ、結界の主として治まったから大丈夫なんだけど、昔、ヤン師匠は、王宮の結界を維持するために、ずっとその中に居なければいけなかったから、代わりにこの梟の師匠が、弟子達を指導してたんだよ」
「まあ……」
「主がいない間は、王宮の結界に近寄れるのは、正規の魔術師のみでね。そうでなければ、結界に力を取られ、そのまま死んでしまうんだ。だから、正規の魔術師として認められるまで、私はヤン師匠の顔も見た事がなかったよ」
くすくす笑いながら告げられた言葉を頭の中で反復し、目の前の毛鞠と化した梟を改めて見てみる。
その、威厳などより先に愛嬌を感じる姿に、この梟の主人である、魔術師長の姿が被る。
ジゼルにとって、あの魔術師長も、やはり威厳よりも、優しい雰囲気を感じる人だった。
やはり、使い魔というのは、主に似るものなのだと、改めてこの一人と一羽の師匠の姿に知らされた気分だった。
「……だから、シリル様は、この梟を、師匠と呼ぶのですか?」
「そう。本当の名前は、ヴェルデというんだよ。でもみんな、名前で呼ぶ事はないね」
「……名前、あったんですね。……皆さん師匠とか梟とか仰るから、初めのうちは、師匠が名前なのだと思ってました」
失礼だという事は承知の上だが、思わず口にでてしまった。
言葉の最後は、ほとんど口の中で呟くように小さな声だったが、シリルには聞こえていたらしい。
それを聞いたシリルは、我慢できないとばかりに吹き出してしまい、上に乗っている動物たちを起こさないよう、必死で声が出るのをこらえていた。
外の賑やかな帰還準備の音が、奥まった場所にある会議室にも、微かに聞こえてくる。
この賑やかさなら、そろそろ先発部隊は姿を見せているのかもしれないと、ジゼルは扉の外に意識を向けた。
そのジゼルの意識を戻したのは、シリルに握られたままの手だった。シリルは、ジゼルが意識を逸らしていた間も、紫の瞳をじっと見つめていたのである。
ひたすら見上げてくる視線に、ようやく気付いたジゼルが、シリルの瞳をのぞき込む。
その中に映るのは、特に変わりない自分の姿で、シリルのその視線の意味がわからないジゼルは思わず首を傾げる。
「……どうかしましたか?」
「いや……」
身動ぎすらせず見つめてくるシリルの視線に、ジゼルは思わず自分から視線を逸らす。しかし、いくら視線を逸らそうとしても、その都度、シリルは手を引き、自分の方に注意を向け、片時も自分から意識を逸らすなと無言のまま告げているようで、ますます困惑する。
珍しいほどのシリルの強引さに、さすがのジゼルもどうしようもなく、困惑した表情のまま、シリルに懇願するしかなかった。
「あの、シリル様。……ご用がないなら、手を離していただけませんか」
「……やっぱりだめか」
ため息と共に零れた言葉は、ジゼルにとっては予想外な言葉で。
「はい?」
「……ジゼル、今から、ものすごく情けない事を言うけど、笑わずに聞いてくれるかな」
「笑わないというのはお約束できませんけど、真剣に聞くという事はお約束しますよ」
「笑わないのは、駄目なのか」
「思わず吹き出す事を止めるのは、すごく厳しいですよ」
それこそ、つい先程、シリル自身が思わず吹き出した時に経験したはずである。
それを思い出したのか、シリルもそれは仕方ないねと納得して、頷いた。
「昔から、私は、人の感情とか、そういった事が、読める子供だったんだ」
「読める?」
「考えている事がわかると言うか。その当時は、勘が鋭いんだろうといわれてたけど、そうじゃなく、そのまま頭の中に、考えている事が聞こえる感じだったんだ。強い魔力が、相手の感情でぶれる事で、それを感じていたんだろうと思う」
ジゼルは、手を握られたままで聞いていた。
その話の内容を、しばらく自分なりに考え、そして思い至ったのは、今自分が、シリルの目の前にいるという事実だった。
「……じゃあ、もしかして、私の考えている事も」
あっというまに赤面したジゼルは、慌てて手を離そうとして、しっかりとにぎりこまれたシリルの手に阻まれる。
「それがわからないから、今困ってる……」
「は?」
目の前にいるシリルが、本当に戸惑うような表情をしており、ジゼルはますます意味がわからない。
そんなジゼルの戸惑いも困惑もよそに、シリルは深々とため息をついた。
「昔から、それのおかげで聞きたくない事ばかりを聞いていたから、聞こえないようになるために苦労をしてきたんだけど……まさか、一番それを知りたい相手は、それが聞こえないなんて、思わなかった」
「……」
「まさか、私より、魔法で作った『眼』の方が、君の感情を読むのに長けているとは思わなかったけど……そのことに気が付いた途端に、ますます落ち込んだ」
「あの……普通は、人の考えている事なんて、わからないのが普通なのですから、そこまで深く考える事ではないのでは」
「どうして、リスは、ジゼルを慰めていた?」
「え?」
「落ち込んでいた? 悲しかった? 悔しかった? そういった感情を、私は読めなかった。照れてるのはわかった。恥ずかしそうに視線を逸らしている時もわかる。嬉しそうな時は、笑顔を見て、それがわかる。それなのに、慰めたい時、傍に居なきゃいけないその肝心な時が、わからない」
シリルはそれを、自分の方がよほど悔しそうに、ひと息に語る。
ひたと据えられた瞳は、その心の欠片を拾おうと必死であるかのように、ジゼルの瞳を見つめていた。
「言葉に出してくれないか、ジゼル。察してあげられれば一番いいのはわかってる。それを察せない自分が、とても情けないのもよくわかってる。それでも、その時、私は君の傍にいたいんだ」
「シリル様……」
「わがままを言ってくれ。愚痴でも、泣き言でも、構わない。その感情の欠片を見せてくれないか、ジゼル。せめて、それに気付ける手がかりを、ほんの少しでもいい、知りたいんだ」
唖然としたまま、シリルの縋るような告白を耳にして、ジゼルは次第に心の中にある、蓋をした思いが溢れそうになっているのを感じていた。
「……そういう事を話すのは、慎みがないって、怒られちゃうんですよ?」
「そんな事を言う相手が居るなら、私が代わりに怒られるよ。怒られるのを聞き流すのは得意だから」
「全然自慢にならないですよ、それ」
思わずくすりと笑ったが、それでもジゼルは、それを口に出す事を躊躇っていた。
「ジゼル……。何が、嫌だった?」
その問いに、ジゼルは必死に首を振る。しかし、その動きは、すでに心に体を支配されたように、弱々しいものだった。
「じゃあ……悲しい事があった?」
その問いにも、首を振る。
「ジゼル……」
「傍に……」
ぼろりと零れた涙が、ジゼルの心の蓋に、ひびを入れる。
一粒零れた涙は、あとはただ、流れるばかり。
「髪……眼……別の色なら……たのに」
幼い頃から、絶対に、口に出してはいけないと己に課した禁忌のひと言が、涙に乗せられ、はじめてこぼれ落ちた瞬間だった。