はじめてのお仕事6
派手な水しぶきが、庭の噴水から上がる。
ジゼルはそれを、シリルの寝室から見ていた。
今日の出現地点は、この離れと母屋を繋ぐ庭に作られた噴水の上だった。
結構な高さから、背中を下にして落ちていたが、その衝撃がシリルを傷つけることはない。
だが、その衝撃が収まった後、その場にある水がシリルにどう作用するかは理解できる。
ジゼルは、ため息ひとつ吐くと、扉の外にいるマリーに報告し、部屋から外に繋がるテラスの入り口を開けると、そちらに駆けだした。
噴水に、背を下にしてぷかりと浮いたシリルは、案の上びしょ濡れだった。幸いなことに、今は夏で、たとえ水に濡れても、すぐに風邪をひくということはない。
ひとまず、ジゼルは、一時恥を忘れ、スカートを膝が出るほどにたくし上げ、腰のベルトに引っかけると、靴と靴下を脱いで噴水に足を踏み入れ、シリルをそこから引っ張り出した。
「……ジゼル」
「おはようございますシリル様」
「冷たい……」
「噴水の上でしたから。マリーさんがさっき、湯浴みの用意を始めましたよ。ちょっとだけ、我慢してください」
ひとまず持っていた手拭で、顔と手足の水滴だけを拭うジゼルを、シリルは本当に目がさめたのか疑わしい、ぼんやりとした視線で追う。
「……スカート、直さないのか」
まったく力のない声で、シリルがそう尋ねる。
言われてようやく、今の自分の姿を認識したジゼルは、少し考えてひとまずスカートを降ろした。
「実家では、海に入る時などによくやってたから、あまり恥ずかしいとは思わないんですけど……。ここでは叱られそうなので、見なかったことにして下さい。はい、忘れて忘れて」
「……むり」
「……ですよね」
シリルが、このぼんやりした状態でも、起きているなら通常とあまり変わらない視力聴力記憶力があるのは、すでに三ヶ月で嫌と言うほど理解している。
しかも、頭も良い。でなければ、少なくとも魔術師などやっていないだろうし、世界でもまだ数えるほどしかいない魔法技師なんてやってられないだろう。少なくとも、忘れる、というのは、シリルには縁遠い言葉に違いない。
だが。
「告げ口しなければ良いんです。はい、内緒内緒」
「……わかった」
この寝起きのぼんやりした間、シリルはとても素直になる。今も、まるで小さな子供のように、こっくりと頷いて、口を噤んだ。
すでに二十八になるという男を捕まえて、子供のようだというのは暴言も良いところだが、この三か月間でジゼルはこの寝ぼけ眼の主人の扱いを心得ていた。
「あ、マリーさんがきましたよ。いいですね、内緒ですよ?」
「……ん」
再びこくんと頷くシリルをよしよしと眺め、立ち上がってマリーを迎えた。
マリーが持ってきた大量の布を預かり、マリーがそれを使いながらシリルの水滴を拭うのを尻目に、ジゼルはシリルが先程出現した場所と、母屋を眺める。
「ジゼルさんも手伝って」
マリーに声をかけられ、慌ててシリルの水滴を拭う手伝いをする間にも、ジゼルの頭の中で、先程見たシリルの姿が消えることはなかった。
「……ええと、本日の出現場所、西の庭園、妖精の噴水上空。高さは……と」
今日もシリルの寝室に設えた丈夫な本にそれらを書き入れ、ふむと悩む。
すでに三ヶ月の間で、シリルが寝起きに飛んだのは両手足の指を足しても足りない回数に及ぶ。他も、侍女長のマリーが覚えている限りの出現場所もここに記されている。
ジゼルは、魔法は使えない。そもそも、それを一度も見たことがなかったジゼルには、目の前で魔法を使われても、何が起こっているのかさっぱり理解はできない。
シリルは、一度、移動の為の魔術式という物をわざわざ書いて説明してくれたのだが、ジゼルにはただの落書きにしか見えなかったのである。それがどこをどうすればどんな効果になるのか、まったく想像できなかった。大変残念ながら、ジゼルには魔法使いの資質は無いらしいと言われ、さもありなんと頷いた。
あと、たまに暴走して、シリルの睡眠を意図せずに守護している、透明な壁の魔術式も教えてもらい、そのどちらもこの本に記した。
何度見比べてみても、そのニ種類の魔術式は、ジゼルの目には同じ物に見える。
とりあえず、シリルが目覚めれば、ジゼルの残る仕事はこの部屋の管理なので、ひとまずその本をパタンと閉じると、ジゼルは身を翻した。
「少しは何か、変化を見つけたかい?」
「ひゃっ!?」
突然話しかけられぎょっとしたジゼルは、特に悪いことをしたわけではないのに思わず硬直した。
珍しく、目が醒めたシリルに声をかけられ、ジゼルは驚きの声が出てしまった。
「お、おはようございます!」
「……そんなに驚かなくても……」
「今日は意識が戻るのがお早いですね」
「この後、王太子に呼ばれているんだ。だけど、たしかに予想より早かったな……」
どうやら、落ちた場所が噴水だったため、流石にその冷たさで目が醒めたらしい。
「お水で目がさめるなら、毎朝枕元にご用意するんですけど」
「流石に、いきなり水をかけるのは勘弁して……」
くすくす笑うジゼル相手に、なにやら情けない面差しになったシリルは、その手元の本に視線を向けて、話を逸らした。
「毎日書いてある物は私も見ているけど、それぞれ飛ぶ場所に共通点は見つけられないね。高さも出現場所も方向も、すべてばらばら。流石にここまで統一性がないと、魔法で飛んでいるにしてもおかしすぎる……」
「共通点はありますよ」
「……え?」
「全部、公爵家の敷地内です。一度も外に出たことはありません」
ジゼルは、そのこと自体は、早くに気が付いていた。
「この離れは、どちらかと言えば公爵家の敷地内では、端の方です。たまに母屋にまで飛んでいるのですから、方角が違えば、敷地の外に出る事も考えられます。でも、一度も外には出ていないんですよ」
馬小屋は、ここではなく、母屋を挟んだ反対方向にあるのだ。そこまで飛んでいることを考えれば、敷地外に飛んでいてもおかしくない。だが、実際は、ジゼルがこうしてメモを取る以前も、敷地外に飛んでいたことは一切無かったのだ。
「言われてみれば……」
「マリーさんの覚えている限りの出現場所も、すべてです。それらから考えても、共通点としてあげてよろしいかと思います。そして高さもです」
「え」
「母屋に近ければ近いほど、高くなります」
ジゼルがその事を思い付いたのは、今日、つい先程だった。
「ここは平屋建てですが、母屋は三階建て。母屋に近づくと、その屋根のあたりまで飛んでらっしゃいます。先程の噴水では、ここの建物の屋根より、かなり高い位置に出現されてました。それこそ、母屋の屋根に迫るほど高くにです。以前、この部屋の屋根ぎりぎりの位置に出現していたこととあわせて考えると、母屋に近くなればなるほど高くなると推測できますよ」
ジゼルは、ぱらぱらと本を捲り、今までのメモを目で追いながら、先程ふと思いついたことを改めて考えていた。
「それで、思ったんですけど……飛んでしまっている理由はわからないのですけど、少なくとも、いろんな場所に出現している原因は、シリル様の身につけている物ではなく、この公爵邸の敷地にあるんじゃないかと思うんです」
「……敷地に?」
「いつも思っていたんですけど、シリル様が防御のために付けてるという装飾品、寝ている時に出しているあの透明の壁って、なんだか丸いですよね」
「丸い、というか、その装飾品を芯にして球状に結界は広がっているけど……」
「そう、それです。そんな感じなんです。シリル様の出現している場所を、それぞれ点にして考えると、公爵家の敷地の中央から、球状に広がっている気がするんです」
「……公爵邸の敷地中央となると……母屋になるわけだけど」
「その母屋に飛んだ時が、おそらく高さとしては最高です」
それは、三階建ての壮麗な屋敷の、誰も登ることができない尖塔の屋根部分である。
誰も救出できず、結局本人が目覚めて魔法で降りてくるまで、使用人総出で必死に声をかけながら、下にベッドのマットレスを運び出したらしい。
尖塔は、母屋の西と東、そして南にある。シリルが出現したのは、その尖塔のうち、この離れに近い西の尖塔だった。
「そこで、疑問なのですが、シリル様が身につけているその指輪や耳飾りなのですが、この公爵邸で身につけていて違和感のような物を感じたりはしませんか」
「どうして?」
「透明の壁と同じと言うことは、その地点でぶつかって中に近寄れない印象を受けるからです。見えないのに、中に一切入れない壁。ですけど、普段、シリル様は、普通に母屋に入りますし、その壁も感じることがないのですよね。寝ている時に作用しているなら、意識がある時も違和感を感じていてもおかしくはないと思うんですけど」
「ああ……うん……そうだよな」
シリルは、そう呟くと、そのままなにやら思考に耽りはじめた。
水に濡れ、物思いに耽るシリルは、どんな芸術家もその神々しさに足元にひれ伏しかねないほどに美しい。だが、ジゼルは、自分の目が、この神々しい生き物を目の前にして、まったく反応しなくなったことに気付き、思わずぼんやりと遠くを眺めた。
どんなに美しかろうが芸術的だろうが、日頃ぼろぼろになった姿を見慣れれば、感動する前に自制できてしまう。さらに、人の目という物は、嫌が応にも慣れるものなのだ。
慣れてしまった自分が恐ろしい……。
その瞬間の、ジゼルの正直な感想がそれだった。
しばらく悩んだシリルは、突然部屋の中の書架にある羊皮紙を取り出した。
それは、ジゼルには本来見ることが許されない、この公爵邸の敷地の見取り図だった。
それをテーブルに広げると、突然出現場所を記した本が空中に浮き上がる。
ジゼルは、目の前で直接行使されている魔法の成り行きを、呆然と見ることになった。
シリルは特別な呪文を唱えているわけではなかった。しいて変わっていると言えるのは、指先だろうか。まるでそこに見えない糸でもあるように、そしてその糸をつま弾くように、指のすべてが繊細に空中を滑るのだ。
そのひと仕草ごとに、その場に光の粒が産まれ、そして地図上に舞い降りていく。
空中にある本が、見えない手でぱらぱらと捲られていくごとに、その動きや光は激しく蠢き、そしてその場所に、先程ジゼルが推測したような、光の半球が出来上がっていた。
光がようやくそれぞれの位置に納まり、動きを止めると、シリルも指先の動きを止め、ぽんと軽く一度手を合せた。
とたん、その光の点は、まるで棒が倒れるように方々に落ちていく。
そして、光の点は一見ばらばらに落ちていったはずなのに、それらすべてが落ちた後、綺麗な円が地図の上に描かれたのである。
それは、あきらかに、本に記された魔術式の様式と同じ物だった。魔術式は、円環にて成される。素人が見ても、始まりと終わりがわからない、そして上も下もわからない、特殊な文字によって作られる円環なのだ。
散らばった光の点が、まるでその文字のように見え、まさに魔術式のような、不確かな、しかし確かにある円として成り立っていたのである。
「……これは?」
ぽかんとその光を見つめるジゼルは、隣で同じようにそれを見つめていたシリルの変化に気付かなかった。
突然、しっかりと手首を握られ、はっと気が付いた時には、シリルに引き摺られるようにして部屋を出ていたのである。