花開く その思い 6
その日、シリルは、予想より早く、昼少し過ぎに起きてきていた。
そろそろ様子を見ようかと思っていたところにその姿を見つけ、愕然としていたジゼルを見て、シリルは苦笑していた。
猫のノルは、そんなシリルのあとを、一定の距離を保ちながらついて回っている。
ジゼルが、そんなノルを見ながら、シリルに尋ねたのは、『眼』の猫の事だった。
「あの倉庫に私が入る時、眼の猫ちゃんが一声鳴くと、他の猫が隠れたんですけど、眼の猫ちゃんは、普通の猫より強いんでしょうか?」
「そういう訳じゃないと思う。むしろ、猫達にとって、あれは猫じゃないと思うよ」
ジゼルが訳がわからず首を傾げると、シリルはジゼルの肩にいた白銀の猫を抱き上げ、その顎の下を撫でた。
「これは、私の力の塊だから。猫から見たら、生き物ですらない。あの時、たぶんノルが、私には逆らうなって猫達には言い聞かせてたんだよ。だから、私の力にも、逆らわなかったんだ」
「そういうものですか……」
ジゼルは、シリルの腕の中にいる、白銀の猫に人差し指を差し出し、その顎の下を掻く。
猫は、嬉しそうに喉を鳴らして眼を細めており、これが生き物ではないと言われても俄には信じられない姿だった。
「……そうだ、シリル様。この子には名前をつけないんですか?」
「え、『眼』だけど」
「それは名前とは言えませんよ?」
「そうかな。……じゃあ、ジゼルがつけていいよ」
「私が、ですか?」
「この『眼』は、元々ジゼルの記憶からできたものだし、ジゼルがつけた方が、名前も定着しやすいだろうから」
はい、と『眼』の猫を差し出され、抱き留めたジゼルは、ごろごろ喉を鳴らす腕の中の猫を見ながら、しばし考え込んだ。
「ジゼル、あの。考えながらでいいから、話を聞いてもらえるかな」
「……え。あ、それなら、ここで立ったままお話しというのも。……庭にでも行きますか?」
突然のシリルの申し出だったが、シリルが何を話したいのかはジゼルにも理解できていた。
シリルがここにいる間にすませたい事といったら、ひとつしかない。
深く考えるあまり、妙な緊張に手足を支配され、ぎくしゃくと歩いて行くジゼルを心配そうにシリルが見つめながら、二人は夕暮れにはまだ時間がある庭に出たのだった。
庭は、母が畑にしている一角を除き、兵士達が朝夕の訓練に使うため、土が剥き出しの運動場になっている。今はみんな任務に就いており、その訓練場も閑散としていた。
ジゼルは、シリルをそのすぐ脇にある、兵士達が休憩するための芝生に案内し、いつもやっているようにそこに座り込んだ。
それを一瞬驚きの表情を見せつつも、シリルはジゼルの隣に腰を下ろした。
「……ここは、本当にジゼルの家なんだね」
「どういう意味でしょう?」
「いや、普通、砦というのは防衛拠点だから、ここまで家庭的な雰囲気の場所は聞いた事がないんだけど」
なにせ、運動場の脇には畑である。他の施設でも多少はそういう設備もあるが、そういう場所の畑というのは、基本的に軍事行為の邪魔にならないよう裏手に設えられている。
しかしここでは、「ここが一番日当たりがいいんだ」と言わんばかりに、堂々と宿舎の正面でその存在を主張しているのである。
野菜が植えられている畑の隅にはハーブも植えられており、その可憐な花々が、ここが厳めしい戦のための施設である事をうっかり忘れさせそうなほど穏やかな風景を見せていた。
ジゼルを見てあの母親を見れば、なるほどと納得もできるが、ただ軍の施設を見に来ただけなら、目を剥いて驚きかねない。
「見れば、ああ、ジゼルの家なんだなとわかる」
楽しそうに笑いながら、シリルは周囲を見渡していた。
そんなシリルの足には、ノルがそっと身を寄せており、そしてジゼルの膝の上では、『眼』の猫が、猫らしく足を隠して丸くなり、喉を鳴らしていた。
その背を撫でながら首を傾げていたジゼルは、シリルがじっと自分を見つめていたのに気付いた。
「……あの?」
「ええと……本当に、婚約の儀、ファーライズでいい?」
いきなり本題に入られ、ジゼルは硬直した。
「あの時、お母さんが聖神官に儀式の手続きを尋ねた時、ファーライズはそれを全部飛ばして、了承の返事を送ってきてたんだ」
「……え?」
「本来なら、こちらから申請の書類を書いて、あっちの国で、神官達の協議の元で承認が下りてから返事をもらえるところを、全部すっ飛ばして神様が承認したんだ。神様が承認した事を、神官達や国が拒否する事は絶対にない。だから、許可も何もなく、やりたい時に受け付けてもらえるみたいなんだけど、本当にファーライズでいい?」
ジゼルは、撫でる手を止めて、しばし考えた。
考えたが、わからない事が多すぎて、結論は出なかった。
「いろいろわからないのですけど、その場合の代金はいかほど……」
「最初に聞かなきゃいけないのはそこ!?」
シリルが、何かに衝撃を受けたかのようによろめいた。
「……納めるお金に関しては、気にしなくていいよ。一応私も、蓄えはあるから」
「でも、お国が依頼するようなものですし、普通の神殿の、婚約の儀とは、お代も変わるんだろうなと……」
「それほどは変わらないよ。国と一般の違いと言えば、ファーライズに依頼する手段があるかないかくらいじゃないかな。それに、ファーライズの聖神官を呼び出す事で一番お金がかかるのは、彼らの船の補給物資を、呼ぶ側が出さなければならないという所だから。他の用事できていて、さらにその補給物資代もすでに国が支払っている今なら、儀式だけの金額でいいはずだし、実際それで引き受けてくれるよ」
「……補給物資代」
それもおいくらほどですかとジゼルが尋ねるような隙を、シリルは与えてくれなかった。
「今回は、もちろんベルトラン家の儀式のためにここにいるわけだけど、貴族の婚約は基本的に国の行事だからね。その代金は、儀式代以外は、国持ちなんだよ」
「でも、同じお役目についている方がいらっしゃるんですよね。聖神官様がそう仰ってましたし」
「うん。だから今回、お金で出してるんだ。そのもう一つの国と、折半になってると思うよ。そういう調整は、ファーライズ側がしているから、国は請求された金額をそのまま出す事になってるんだ」
ファーライズの船は、そもそも日程を違えることなく航海する事で有名だった。これも神の奇跡なのだろうが、彼らの船は、嵐にも凪にも遭わず予定通りに航海をするのである。
もしファーライズの船が自分達と同じ行き先ならば、そのあとをついて航海すれば、何の問題もなく、たとえ嵐の予報が出ていても、嵐の方が避けて通ると言われていた。
嵐と同じほどに会いたくない海賊にしても、ファーライズの船は避けて通る。海の男達は、神に逆らう事の恐ろしさを、海を通して知っている。
ファーライズの船を襲おうものなら、その後、無事に陸に辿り着ける事などありえない。
彼らは、代々の言い伝えにより、他の船乗り達より、その確固たる事実を知っていた。
その為、ファーライズの船は、途中で難破した船に出会い、食料を余分に消費したという事がない限り、最初に計算されたとおりに補給される事となる。
「……代金はちゃんと出す。これでも、結構高給取りなんだよ? たとえ補給代を出せと言われても、出せる自信はある。それで、あの、ファーライズで本当にいいのかな」
「むしろ、駄目な理由を教えていただければ嬉しいんですが」
あっさりなされた返事に、シリルは今度こそ虚を突かれたように呆然とした。
「成立しないと、一番強烈な神罰が来るよ?」
「腕が消えるんですよね。シリル様は、途中で婚約を中断しなければならない予定はおありですか?」
首を振ったシリルに、ジゼルは頷いた。
「それなら別に問題はありません」
「途中で「やめた」はできないよ。それだと「やめた」を言い出した方の腕が飛ぶよ?」
なぜか必死で説得するようなシリルの様子に、ジゼルは吹き出した。
「シリル様。私は、シリル様の所に戻ると決めた時点で、シリル様から解雇を直接告げられるまで、何があってもずっとお側にいることを心に決めたんです」
いつもどおりの笑顔で、さらりと告げられた言葉は、シリルの予想以上に、確固たるものだった。
「私は、社交界には、まったく縁がありません。できない事ばかりで、そこに入れと言われたら、普通に振る舞えるようになるだけでも、他の方々が呆れるほど時間がかかると思います。それでも、私には、諦めるという事はありません。ずっと、どこまでも、シリル様についていきたいんです」
その晴れ晴れとした笑顔に、シリルはまるで気が抜けたように、がっくりと肩を落とした。
「……ほんと、どうしようか」
「何がでしょう?」
「そんな可愛い事をいわれて、婚約だけしてあっという間に一人で帰れって、それは拷問だろう」
手で顔を覆い隠し、なにやらぶつぶつと呟いている。鬼気迫るその姿に、ジゼルは思わず半身ほど引いた。
「半年も婚約期間があるなんて耐えられるかとエルネストが叫んだ理由が今更わかるとは思わなかった……」
くっと、何かを噛みしめるように呟いたシリルは、そのまま顔を上げ、真剣な表情でジゼルに告げた。
「婚約は、ファーライズでもいいんだよね。それなら、結婚は?」
「……はい?」
「結婚の儀式をファーライズで行うのは、駄目?」
「……どういうことでしょう」
「婚約の儀式は無しで、そのまま結婚の儀式でというのは、駄目?」
ようやく理解したシリルの言葉に、ジゼルの眼は見開かれ、そのまま硬直していた。
「婚約、無し?」
かくんと傾げられたジゼルの頭は、驚愕の表情のままだった。




