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花開く その思い 1

 翌朝は、爽やかに晴れていた。

 砦の広い庭には、収穫を迎えた秋の野菜が、たわわに実っている。この砦を長く預かる隊長の妻が、丹精こめて育てたそれらの野菜は、連日厳しい訓練を重ねるこの砦の若い見習騎士達の体作りのために、食卓に上るのだ。

 その菜園を横に見ながら、訓練場を兼ねた広い庭に足を踏み入れたその人物は、信じられない事態に遭遇し、目を剥いた。

 そこかしこで、人が行き倒れている。

 その場に濃厚に漂うのは酒精の香りで、この行き倒れが揃いも揃って酔っぱらいだという事実を明確に知らせていた。


「あら、おはようございます、神官様」


 明るく声をかけてきた隊長夫人に、神官はあたりを見渡し、驚きの表情を見せたまま、会釈をした。


「おはようございます、カリエ夫人。これはまた、何か祝い事でもおありでしたか」

「ええ。ようやく娘が帰ってきたんですよ。それでみんな、少し羽目を外してしまって」


 少し、という言葉に、神官は小さく首を傾げた。

 今の季節、早朝などはもう冬の気配が漂っている。それを、一晩外で眠るのは、さすがに頑丈な兵隊達と言えど体にいいわけがない。

 しかし、カリエ夫人はそんな神官の疑惑に満ちた眼差しもさらりと受け流し、視線を宿舎に向け手を振った。

 釣られて神官もそちらに目を向け、そしてようやく夫人に答えるように手を振る一人の女性に気が付いた。

 その女性は、銀色の真っ直ぐな髪を、緩く一本の三つ編みにして背中に垂らし、生成りのシャツと藍色のスカートと簡素なエプロンを身につけ、くるくると動き回って外で寝ている兵士達を起こしている。

 その姿を、神官は眼を細めて眺めていた。


「ああ、ジゼルさんでしたか。そういえば、行儀見習いに行っておられたんですよね」

「そうなんですよ。すっかり上品になって帰ってきましたわ」


 軽やかな笑い声をたて応対する夫人に、神官ははっと思い出したように、封書を差し出した。


「そうでした。ファーライズの聖神官殿より、こちらをお預かりしてまいりました。詳細はそちらに書かれておりますが、本日の午前のひとつ鐘の後、誓約の儀を行うとのことです。本来、誓約の儀は関係者のみで執り行うものですが、今回に関しては、ご夫妻の希望があればどなたでも立ち会いを認めるとのことです」

「まあ、ありがとうございます。必ずお伺いしますわ」


 にっこりと微笑み、カリエ夫人はその封書を両手で大切そうに胸に抱き込んだ。



「というわけでね、母さん今からちょっとご近所に行ってくるから」


 朝食の席で、嬉しそうにそう語った母に対し、娘達は揃って目を剥いていた。


「という訳でって……。え、誓約をみんなに見てもらうって事?」

「ええ。だってそうしないと、あとでいちいち説明して回るのは大変ですもの。隣のレオニーさんでしょ、雑貨屋のモニカさんでしょ、あと、パン屋のドーラさんは、絶対に呼ばないとね」


 にっこり微笑む母が、指折り数えながら挙げた名前に、娘達は唖然としていた。


「うわあ。お喋り好きの噂好きだらけ」

「こういう方々はね。呼ばないと、噂とは逆の事を広めたりもするのよ。だから、ちゃんと全員呼んでさしあげないとね」


 さて、と腰を上げた母は、あとはお願いねとだけ告げて足取り軽やかに出かけていった。


「失敗することなんか、考えてもないわね」


 ジゼルがそう告げると、オデットは当たり前でしょと肩をすくめた。


「母さんは産んだ本人だもの。不貞が有るか無いかは、一番知ってるじゃない。どんな噂も、母さん本人はそれが嘘だと知ってる。だから、自信満々なのよ」


 いつものことじゃないと、ひとつ年下の妹に諭され、思わず苦笑した。


「それよりお姉ちゃん、シリルさんは起こさなくていいの?」

「そういえば……どうしよう?」


 ソフィの問いに、ジゼルは妙に真剣な表情で悩む。

 そんな姉の姿に、妹二人は顔を見合わせ、首を傾げた。


 シリルは、副隊長の口添えで、宿舎の一室を与えられていた。

 家に泊めるのは、未婚の娘だらけの所に男を泊めるわけにはいかんと父の強固な反対に遭い、そして町の宿泊施設に行く案は、副隊長が「こんな目立つ人物を泊めたらたとえ本人がただ座っているだけでももめ事の種になりかねない」と、頑として首を縦に振らなかった。

 もめ事の種を外に出すなんてそんな、俺の仕事を増やしてくれるなということらしい。

 その言葉に素直に従ったシリルは、結局宿舎の一室に落ち着いたのだ。


 もしそこでシリルが寝ていたら、起こせる自信がジゼルにはなかった。

 外れなかった腕輪はすでに光の粉となり、壁が出ていたら、それを越える手段がない。それこそ、自然に目覚めるのを待つしか対処法がないのである。

 家に帰ってもお目覚め係の仕事があるとは思っていなかったので、今になってそれを後悔するとは思ってもみなかった。

 シリルに与えられた部屋の前で、しばし悩んだ末に、ジゼルは軽くノックをした。


「どうぞ」


 中から与えられた許可に驚き、部屋に飛び込んでみると、シリルは猫を抱えて窓辺に立っていた。

 猫は、ジゼルを見ると、嬉しそうに一声鳴き、シリルの腕をすり抜け、ジゼルの足元に駆け寄った。


「シリル様、どうして起きてらっしゃるんですかっ!」

「え……寝てないから」

「え? あ、もしかして寝台が堅かったですか?」

「いや、私は寝ようと思ったら、石畳の上でも寝るから。そうじゃなくて、寝てしまったら、お母さんの誓約の儀が終わっちゃうかなと思って」

「寝てないん、ですか……?」


 ジゼルの唖然とした表情を見て苦笑したシリルに、はっと気が付き慌てて頭を下げた。


「おはようございます。ご挨拶があとになってすみません。朝食はいかがしましょう」


 ジゼルの改まった口調に、シリルはくすくす笑ってそれを止めた。


「ここはジゼルの家だし、気を張る必要はないよ。朝食は、というか、どうやら私は、ここの訓練兵扱いされるらしいから、心配ないんじゃないかな」

「え、だったら急がないと。取り合いになりますよ?」


 首を傾げながらのんびりそう告げるシリルに、ジゼルは困惑の表情であっさり告げる。

 ここの兵士達は、体が資本とばかりに、朝からよく食べる。

 もちろん、全員に行き渡るように、朝から大量に料理は仕込むが、それでもたまに足りなくなるくらいだ。

 慌ててシリルをせかしながら、ジゼルは食堂に案内した。

 隣に並んで、シリルを見上げながら廊下を歩く。

 シリルは、興味深そうに宿舎のあちこちに視線を向けていたのだが、突然くすくすと笑いはじめた。


「どうかしたの、ジゼル。何か聞きたそうにしてるけど」

「あ、いえ、その……。腕輪の事なんですけど」

「腕輪?」

「シリル様、こちらでお休みになるなら、また、透明の壁が出てくるのかな、と思って。腕輪が無いと、壁を越えられませんよね?」


 そして、壁を越えられないと、シリルは起こせない。

 シリル自身もそれをわかっているからか、苦笑して頷いた。


「腕輪じゃないけど……これでよければ」


 そういってシリルは、自分が首から提げていた小さなペンダントをひとつ外し、ジゼルの首にかけ直した。

 そのペンダントには、小さな石がひとつと、そして指輪がつけられていた。両方とも石は翡翠で、指輪の方は、シリルが身につけている物と寸分違わないものだった。


「……本当は、指につけたい所なんだけど。昨夜、お酒を飲みながら、お父さんにさんざん釘を刺されたからね」


 その事を思い出したとばかりに、なぜか遠くを見るような眼差しになったシリルは、がっくりと肩を落とした。


「認めてくれたのかと思ったら、あくまで候補に入れただけだって……」


 ははは、と力なく笑うシリルに、ジゼルは申し訳なさそうに小さくなったのだった。




 朝食が終わり、後片付けは賄いの女性達に任せた一家とシリルは、揃って町にある水神の祠に出向いていた。

 そこにたどり着いた一家は、母を除いて全員が目を剥いた。


「……なに。今日ここで結婚式でもやるの?」

「なに言ってんの。今日はそんな予定無いわよ……」


 ソフィとオデットの、呆然とした呟きを聞きながら、ジゼルも信じられない思いでその場を見つめていた。

母が朝、はりきってどこまで宣伝して回ったのかはわからないが、祠は、街中の人が集まっているのかと思われるほどに、人で溢れていたのだ。


「母さん……?」

「あらあら、たくさん集まったわねぇ」


 晴れやかな笑みで母は祠を見つめていたが、ジゼルはその母に呆然と尋ねていた。


「どこまで、話して回ったの?」

「朝言ってた三人と、船着き場の漁師さん達と、船員さん達のいる酒場くらいよ」


 うふふ、と楽しそうに答える母に、娘三人から、信じられないという呟きが返される。


「それ、朝一番に人集りがある場所じゃない。そこで話せば、そりゃ街中に噂があっという間に流れてるわ」

「だって、ファーライズ様の誓約の儀なんて、この町ではまず見ることができないじゃない。それなら、せっかくだし、みんなに見てもらおうと思って」


 ぱちんとウィンクしてみせる母は、あきらかにこれを狙っていたとしか思えなかった。

 父は、この噂で一番辛い思いをしたのはジゼルだと言っていた。

 しかし、もっとも汚名を着せられていたのが母であることに違いはない。やってもいない不義を、さも真実であるかのように語られ続けていたのだから。


 この人集りはつまり、母の怒りに他ならない。


「さあ、みなさんに見てもらいましょうか。ありがたい、誓約の儀とやらを」


 にっこり微笑んだ母であったが、娘三人は気が付いていた。

 目が笑っていない。

 母の目は、この上なく本気で、怒りに満ちあふれていた。 



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