殻を破る時 11
王宮の蒼月の間は、代々の王妃の部屋として、この王宮でもっとも華麗にして優美な場所として知られている。
今、その部屋の主である王妃は、日課である訓練を終え、動きやすい騎士服を身に纏ったままで、二人の訪問者を迎えていた。
「相変らず、勇ましいですね、母上」
「剣というものは、日頃から鍛錬を積み重ねてこそ、いざという時の守りにもなるのです。ロラン、あなたもエルネストやシリルに守られるばかりではなく、いざという時に二人に重荷を背負わせない程度には鍛錬なさい」
「……肝に銘じます」
この王妃が、戴冠するまで王妹ディオーヌの専属近衛騎士隊長として、女性ばかりの一隊を率いていたのは、この国では知られた話である。
ベルトラン家の令嬢として産まれた王妃は、二年ほど遅れて王家に姫が産まれた時に、その運命が王家と結びついた。
彼女は、ベルトランというこの国最高の武門の令嬢として相応しく、剣を修め、王女に仕えた。そしてその姿を当時王太子であった今代に見初められ、王妹の降嫁と共に騎士の位を返上し、王家へ嫁いだのである。
今も、王宮にある限り、毎日鍛錬を欠かさぬ姿は、王宮に詰める騎士達に、この国でもっとも高貴な女性として以上に、騎士の誇りの象徴として語られている。
王妃は、王太子の後ろに控えるシリルに微笑みを向けると、先にソファに優雅に腰を下ろし、二人に着席を促した。
「報告を聞きましょう」
「……今回の襲撃は、十年ほど前に起こった、母上への襲撃事件後に台頭した家がほとんどでした。多くは、その時権威を失墜した家に代わるように、西方の領地に権勢をのばした者達です。今回の事件を機に、当時の事件に関しても洗い直していますが、直接各家の捜索を許可されたことで、進展もありました」
「そう……」
「当時、その筆頭として処罰されたブルーム家に関しても、関与したのは当時の当主であるマルセルではなく、今の当主であるその末弟のゴーチェであると断定できました。ゴーチェは、今回、クレール家を利用し、襲撃を裏で指示していました。即刻その身柄を拘束し、現在余罪に関して調査中です」
「……」
王妃は、その報告を聞き、その秀麗な顔に愁いを浮かべ、うつむいた。
「それが真実ならば、マルセルとソレーヌには、大変な苦労をかけてしまいましたね」
「当時は、我が国も東での関係悪化で混乱期にありました。その混乱につけいられる形で重要な証拠を取り逃し、今回の勝手を許す結果となり、悔やんでも悔やみきれません。マルセルには、正式な謝罪と共に、爵位の返還と、当時から今に至るまでの爵位に付随する諸所得の補償を行うように指示しました。本人の希望を聞いた上で、今後についてもできる限りの事をするよう、申し付けてあります」
王妃は、目を閉じ、しばし瞑想をするように静止すると、そのまま静かに頷き、了承した。
「……女官として勤めているソレーヌにも、何らかの形で謝罪をしなければいけませんね。それさえなければ、彼女も伯爵家の令嬢として、今頃はどこかに嫁ぎ、子を儲けていてもおかしくない年齢なのですから」
王妃の言葉に、正面に座っていた王太子は、ぴくりと眉を上げた。
ほんの僅かのその変化は、あいにく王妃に気付かれることはなかった。
「今回、迷惑をかける事になったジゼルさんにも、きちんとお詫びなさい。彼女は、ただでさえ、私のために不愉快な思いをしたのです。それをさらにお前のわがままでその身を危険に晒したとなれば、どれほど王家へ不信を抱いたのか。彼女は、王家に対する信義を持つからこそ、声を上げてくれたのです。その心を忘れてはなりません」
「わかっています」
王妃は、王太子の言葉に、小さく頷いた。そして、その視線を、ゆっくりとシリルに向けた。
「彼女は、もうガルダンへ出立しましたか? 長い間の足止めに、ご両親もきっと胸を痛めたことでしょうね」
「今日の昼に出立しました。父であるカリエ隊長が直々に迎えにまいりましたので、ご安心ください」
「そう。お父様に連れ添われたなら安心ですね。シリル、あなたにもロランのわがままで苦労をかけましたね」
「王太子殿下にお仕えする身としましては、日々の鍛錬が殿下にきちんと認められていたことを知る事ができ、望外の喜びです」
シリルは、あえてにこりと微笑んだまま、その言葉をさらりと告げた。
日頃聞けないほどの言葉の刺々しさに、シリルが今回のことでかなり不機嫌であることが王妃にもわかり、思わずくすくすと笑いが零れる。
「シリルぅ……」
王太子の表情が、困惑したように歪むのを見て、王妃は笑いを修めシリルを見据えた。
「此度の尽力に対して、褒美を取らせましょう。王妃の権限で、認められる限りのことならば構いません。何か希望はありますか?」
王妃のまっすぐな視線に、シリルはにやりと微笑んで、その耳たぶにある耳飾りを指で撫で示す。
「一週間ほどの休暇と、結界維持魔法管理者の一時的移行を望みます」
「なっ、ちょっと待てシリル! 今、エルネストもいないんだぞ。お前までいなくなったら、誰が私の近衛隊を受け持つんだ!」
「エルネストが休暇を終え、帰還するまでは待ちます。そこから一週間、いただけますか。その間に、結界維持の魔力補填を、王宮魔術師達で賄えるように、術式を編みます」
慌てる王太子と対称的に、シリルは落ち着き払っていた。
二人の対比に笑いながらも、王妃は頷き、了承した。
「いいでしょう。王妃の名において、それを許可します。……それにしても、結界維持まで他の者に任せて、どこまで行くつもりなのですか?」
王妃の問いに、シリルは晴れ晴れとした笑みを見せ、あっさりと答えた。
「ちょっと、猫の飼い主を迎えに行こうと思いまして」
そして、シリルは、素早く王妃の前から辞すると、足取りも軽やかに王宮魔術師の研究棟に向かったのだった。
馬車はガタゴトと揺れながら、三日ほどかけてガルダンの町に到着した。
軍人だけなら強行軍で移動したのだが、今回はジゼルと、なによりファーライズから迎えられている聖神官が同行している。
守護対象の人物に負担をかけるような行程を組むわけにはいかないと、若干ゆっくりとした旅となったのだ。
ジゼルが半年ぶりに見たガルダンの町は、秋の雲が空に浮かび、そこかしこで冬に向けて、内陸に売りに行くための保存食の干し魚が作られる、秋の風物詩であふれかえっていた。
潮の匂いを嗅いで、ようやく故郷に帰ってきた気持ちがわいてきたジゼルは、小高い丘に作られている砦の兵舎を目に留めて、思わず隣に座る父を呼んだ。
「父さん! 母さん達が外に出てきてる」
「そりゃあそうだ。先に知らせが走ったからな。お前がやっと帰ってきたんだ。待ちきれないだろうよ」
久しぶりに見る母の姿は変わっていなかった。艶やかに梳られた小麦色の髪をスカーフで纏め、簡素なエプロン姿で周囲を兵士達に守られながら、兵舎の庭で道を見下ろしながら立っていた。
馬車の姿を認め、年甲斐もなく大喜びで両手を振っている。その姿は、むしろなにやらふっくらとしており、つやつやしているように見える。
「相変らず元気そう。よかった」
心配をかけた自覚のあるジゼルは、母の元気な姿にほっと胸をなで下ろした。
「あれがそうそう変わるかって。自分達の子供なんだから、生きてりゃなんとかしてるって言ってたぞ」
父の言葉を、そのまま母の声で思い起こし、ジゼルは思わず苦笑した。
すべての馬車が、砦の庭に到着すると、誰が開けるよりも先にジゼルの乗った馬車の扉は、真っ先に飛びついた母の手で開けられた。
「ジゼル!」
「母さん!」
扉が開けられた馬車を飛び降り、母に抱きつく。母からは、いつも肌の手入れに使う香油の香りがして、その幼い頃から嗅ぎ慣れた香りに、思わず涙がこぼれそうになる。
「ほら、ちゃんと顔を見せて。立派なお家で、行儀見習いしてきたんですって? ますます綺麗になったじゃないの」
「母さんってば……」
自分と同じ紫の瞳が、笑顔で優しく眇められ、ジゼルの全身をじっくり見つめ、頷いた。
「うんうん。元気。よかったわ」
母がぎゅっと抱きつき、ジゼルの髪を撫でる。その母の後ろでは、妹たちが慌てたように扉から飛び出して来たのが見えた。
ちょうど兵達の夕食の仕込みで忙しい時間である。それを手伝っていたらしい妹二人ともにエプロン姿で、頭にはスカーフを巻き、髪が落ちないように整えてあった。
「お姉ちゃん!」
「おかえり姉さん!」
飛び出してきた二人に、慌てて母は飛び退き、場を譲る。
すぐさま、おもいきり末の妹に胴に飛びつかれ、ジゼルは咽せた。
「おかえり! お土産は?」
「ソフィ。半年ぶりに帰ってきた姉に向かって、まずお土産ってどういうことなの」
「ちゃんとおかえりって言ったじゃない」
相変らずの、子犬のような元気さに、ジゼルは苦笑して、父と同じ色合いの、金混じりの癖毛を撫でつけた。
「ちょっと背が伸びたわね。かわいい髪飾りを選んできたの。つけた時くらい、女の子らしくしてちょうだいね」
「それはお姉ちゃんにだけは言われたくないよ」
なにやら不満そうに顔をしかめるソフィの頭を撫でながら、その肩越しに上の妹の変わらない姿を眺める。
「オデット。変わったことはなかった?」
その質問に、母によく似た華やかな笑顔を浮かべ、上の妹は頷いた。
黒に近い焦げ茶の髪を、後ろで一本の三つ編みにした妹は、頭からスカーフを取り、それをエプロンのポケットに突っ込むと、下の妹ごと、姉を抱きしめた。
「心配したんだから。何やったのよ、姉さん」
「ええと……いろいろ?」
「人にはさんざんお転婆するなって言っておきながら、姉さんが一番一人にしたら危ないじゃないのよ。なに半年も閉じ込められてんの」
「べ、別に暴れたりそんな事はしてないもの!」
三人が互いにぎゅうと抱きしめあいながら、戯れる。
この西砦の名物三姉妹が、ようやく揃った姿に、両親をはじめ砦の兵達の表情も、一様に笑顔になった。
この三姉妹は、容姿に関しては、互いに似たところはない。
長女のジゼルは、銀の髪に紫の瞳。嫋やかで繊細な容姿は、儚さすら感じさせる。
次女のオデットは、焦げ茶の髪に緑混じりの茶色の瞳をしており、ひとつ違いの姉とは違い、妖艶と言われるほどに、女性らしい魅力に溢れた美女だった。
末娘のソフィーナは、一番両親の特徴を受け継いでおり、父に似た、金混じりの赤い癖毛に、父方の祖母に似た、明るい茶色の瞳をしていた。くるくると動く大きな瞳は幼なさを感じさせるが、その整った造作は母に瓜二つで、将来どんな美女になるかと噂されていた。
容姿はそれぞれ似たところはなくとも、この姉妹は昔から大変仲がよく、常に三人が一緒に居た。
それなのに、もっとも目立つ長女がここしばらく姿を見せず、砦の兵のみならず、町の男性達の最大の関心事となっていたのである。
久しぶりに揃った三人は、楽しそうに笑いながら、常のように寄り添っていた。
「ちゃんと礼儀作法も習ったし、ダンスだって踊れるようになったわよ」
「ええ、ずるい。私も習いたいよ。ドレスも着たの?」
「着たわよ。あ、そうだ。着たドレスをお土産でもらったの」
ビクンと妹二人の肩が揺れ、目が見開かれた。
「あと、二人のドレスが作れるようにって、布もいただいたのよ」
ぱぁっと花開くように期待に満ちた笑顔が二人に浮かぶ。
ジゼルは、その期待に応えるために、自ら馬車の荷台に梯子で上がった。
少し大きめの、持ち運びできる衣装箱に入れられたそれを取り出すために、留め金を外して大きく蓋を開く。
――そしてそっと閉じた。
なにやら一瞬、信じられないものが目に映り、ジゼルの額に汗が伝った。
そんな馬鹿なと再びそっと蓋を開け、驚愕の表情でジゼルは固まった。
布がたくさん入れられたその箱の中に、白銀の猫は居た。
贈られた布が汚れないように、虫除けの香をつけた麻布で覆ってあるのだが、その上で猫にあるまじき、お腹を上に向け油断しきって寛いだ姿で、尻尾をたまにふわりと振るいながら、気の抜ける寝息を立てて、ぐっすり眠っている。
硬直したジゼルに構うことなく、猫はうにゃうと寝言を言いながら、にいと微笑んでいた。
ジゼルは、馬車の屋根の上で、これから起こるであろう騒動を思い浮かべ、遠退きそうになる意識に必死ですがりついていた。