殻を破る時 5
会場は、すでに色の展覧会のように、華やかなドレスで彩られていた。
今日は、軍に関係のない貴族のみに限られた舞踏会だった。
軍の関係者は、貴人の警備に回っているために、酒など飲んでいる場合ではない。だから、全員が安心して酒を飲めるように、別の日に分けろというのが軍人達の主張だったのだと、フランシーヌは笑いながらジゼルに語った。
ベルトラン家は、当然のように軍の関係者が大勢おり、それこそ一族の者であっても、今日の会場には来ることが叶わない者も多い。そのため、軍の関係者のみを集めたお披露目は、また後日になるのだということだった。
ジゼルは、できるならそちらに参加したかったと、王太子に導かれて会場に向かいながらぼんやりと思っていた。
幸いなことに、緊張はしていなかった。
足が進まないということもない。
それなのに、煌びやかな会場に一歩踏み出したとたんに、目の前が真っ白になり、周囲が見えなくなった。
その理由が判明したのは、その後ようやく眼がその場の光に馴染んだ時だった。
そこには、信じられないほどの数の、変わった照明が飾られていたのだ。
ジゼルの髪に飾られていた物と同じ石が、それぞれ照明で光を反射する役目を担うようにいくつも天井に飾られ、その中央にある、一際大きな石に、以前シリルが見せてくれた、魔法の明かりがこめられているようだった。
蝋燭など比べものにならない明るさは、昼のようにその会場を照らし出し、明るく輝いている。
その照明として飾られた物が、自分の髪飾りと対となる物なのだ。
ジゼルは、その事に、表に出さないまでも、驚いていた。ここまで大がかりなものが飾られているとは、思っていなかったのである。
「さて、行くぞ」
王太子に声をかけられ、ようやく自分を取り戻したジゼルは、王太子に軽く頷いて見せて、共に一歩を踏み出した。
王太子を迎える間、会場の全員が、頭を垂れたまま、王太子とそのパートナーであるジゼルが今日の主催者でもあるベルトラン侯爵夫妻の元へたどり着くのを待つ。
その中には、もちろんバゼーヌ公爵夫妻の姿もある。二人は、ほぼ上座である王太子とジゼルの立ち位置のすぐ傍で、会場の人々と同じように頭を垂れている。
しかし、会場の中は、ジゼルにとっては圧倒的なほどに敵地だった。
ジゼルは、眼を伏せているはずの人々から、好奇の視線が向けられているのを肌で感じていた。
王太子に導かれ、人々によって作られた道を進み、ベルトラン侯爵夫妻の目前に到着すると、ジゼルは一歩下がり、バゼーヌ公爵夫妻の隣に用意されていた場所に立つと、他の人々と同じように頭を下げた。
「本日は、当家の催しに、王太子殿下のご来駕を賜り、お礼申し上げます」
侯爵夫妻も、深々と礼をして、王太子の許しを待つ。
「今日は、我が従兄弟にして忠義の臣たるエルネストの慶事に、こうして自身の言葉で祝いを述べる機会を得て、嬉しく思う」
王太子が、侯爵夫妻に頭を上げることを許し、そして会場に向けて宣言した。
「今日は、私もここに祝いを述べに来た客の一人。皆頭を上げ、今日の主役である二人を迎えようではないか」
その言葉で、会場の人々はようやく頭を上げ、王太子もジゼルの隣に移動する。
王太子の言葉を受け、会場の楽隊が音楽を流しはじめる。
そして、大広間のもっとも大きな扉が、ゆっくりと開かれた。
事前に聞いていたとおり、エルネストは夜の闇を思わせる濃紺に、銀糸の刺繍入りの、日頃はなかなか見ることがない、貴族としての装いだった。
そのエルネストに手を引かれるフランシーヌは、明け方を思わせる裾の明るいオレンジから胸元の水色にかけてのグラデーションに、銀糸の刺繍が入れられたドレスだった。
フランシーヌのドレスは、幾重にも薄絹で重ねられており、一歩進むごとに、風を受けたようにふわふわと揺れている。
主役の二人は、しっかりと寄り添いながら、足並みを揃えてまっすぐ歩く。
エルネストの日頃の歩みは、軍人らしく大変早い。それこそ、日頃のジゼルなら、小走りでようやく、普通の歩みの速さになるくらいだった。しかし、今日は、ドレスであるフランシーヌの歩みに完璧に合せられていた。
時折、エルネストは愛情に溢れる視線をフランシーヌに向け、そしてフランシーヌは、信頼の眼差しをエルネストに向けている。
その仲睦まじい姿を、この会場にいる隅々にまで見せつけながら、二人はゆっくりと、時間を掛けて侯爵夫妻とフランシーヌの義父となったオードラン伯爵の元へたどり着き、それぞれの前で一礼した。
「皆様。どうか新たに当家の一員となる花嫁に祝福を。本日は、二人の前途を祝う宴をごゆるりとお楽しみください」
侯爵が、その威風堂々たる声で宣言すると、会場から拍手が送られた。
「大丈夫か?」
王太子から声をかけられ、ジゼルは頷く。
幸せそうにエルネストに寄り添い歩くフランシーヌを見て、ジゼルは心の底から喜んだ。
あとは、この場を、自分の失敗で台無しにしないようにするだけ。
王太子に手をさしのべられ、そっと自分の手を重ねる。
このあと、まず、侯爵夫妻と今日の主役である二人、そして、客人の中で一番格の高い王太子とジゼルで、最初のダンスを踊る。
王太子とジゼルは、さらにその後、もう一曲、立て続けに踊る事になっている。
「……殿下」
「なんだ?」
「ステップは学んだのですが、優雅さに関しては、最後まで及第点をいただけませんでした。女性らしからぬステップかもしれませんが、ご容赦いただけますか?」
ジゼルの、晴れ晴れとした笑顔の告白に、王太子は一瞬目を見開き、そしてさもおかしげに笑んだ。
「心配するな。これでも王子だぞ。お前はステップにだけ気をつければいい。あとはすべて私に任せろ。この場の誰よりも優雅に舞わせてやる」
王太子の言葉に、ジゼルは微笑んだまま、頷いた。
「バゼーヌ公爵夫人も、「王太子殿下ならそう仰るから心配ありません」と仰っていました」
王太子は、一瞬虚を突かれたような表情になり、視線を素早く会場に巡らせた。
ふっと、一点に視線が止まる。そこで、叔母であるバゼーヌ公爵夫人が、小首を傾げて王太子とジゼルの姿を見守っていた。
夫人は、常と変わらず、内心はまったくわからない、完璧な淑女の笑みをうかべている。
「……さすが叔母上。あの方は、人をその気にさせる天才だ」
そう呟くと、すぐに表情を戻し、ジゼルの手を引いた。
会場の人波は、すでに中央を大きく取り巻き、周囲で三組の踊りを見守る体勢に入っていた。
人々の、痛みを感じそうなほどの注目を浴びながら、舞踏会最初のダンスは優雅に始まった。
ジゼルの舞いは、問題ないどころか、王太子の宣言どおり、優雅であり、洗練されていた。それは、ほんの数週間で身につけたとは思えないほどのものだった。
その場にいた貴族達は、皆、この、平民だと知らされている女性に、目を奪われていた。
王太子自身も、ジゼルと踊りながら、いっそ首を傾げたいほどだった。
「……なんの問題もないな。もしや、元々踊れたのか?」
「話しかけないでください。今、必死なんです」
表面上、まったく平静のまま、ジゼルは大変素っ気なく答えた。
その態度に、怒りを感じることもなく、王太子はむしろ楽しそうに、ジゼルとの会話を楽しんでいた。
「せめて笑えないか?」
「無理です。楽しくて踊っているわけではありません。間違えないだけでも精一杯です」
「多少、手を抜いてもいいんだぞ? 上手に手を抜き、相手に身を任せるのも、貴婦人の作法だぞ」
「私は貴婦人ではないんです。そんな駆け引きはできません」
きりっとした表情で答えたジゼルを見て、なおおかしそうに王太子は笑う。
その様子は、少なくとも、様子を見守る人々には、仲睦まじく見えるものだった。
それを計算してやっているわけではないが、王太子としては周囲の気配が変わったのを感じ、これはこれでよかったのかと考えた。
「ジゼル。いいことを教えてやろう」
ふっと、ジゼルの視線が王太子の方を向く。
その瞳を見つめ、王太子は微笑んだ。
「シリルは、この会場ではなく、庭にいる。後でそちらに行くといい」
王太子の言葉に、ジゼルはほんの少し、驚きが表情に表れた。
「でも……私は殿下のパートナーですよね?」
「心配ない。私はいつも、中盤には会場を抜けだしている。いつものことだし、誰も何も言わない。その時にパートナーの居所がどこかなど、誰かに知らせるまでも無い。お前の勤めは、そこまでだ。今の状態でも、十分な働きだ。よくやってくれた。想像以上だ」
「お誉めにあずかり恐縮です」
王太子の言葉に、ジゼルは踊りながら、ようやくふわりと微笑んだ。
二曲立て続けに踊り終え、王太子とジゼルはようやく中央から離れる事が出来た。
そのとたんに、王太子は周囲を囲まれ、貴族達の挨拶を受ける事になった。
まるで分断されるように人の波に押しやられたジゼルは、その傍ではなく、少し離れた位置で、その様子を見ていた。
フランシーヌは、ベルトラン侯爵夫人やエルネストと共に、挨拶で忙しそうにしており、バゼーヌ公爵夫妻も、それぞれが会場中にいる知りあいに挨拶をして回っている。その瞬間、ジゼルの周囲には、まるでそれを誘い込むかのように、側にいる人がいなくなっていた。
ジゼルは、バゼーヌ公爵夫人に学んだ、社交界での上手な身の躱し方を思い出しながら、のこのこ現われた人物達に、にっこり微笑んでいた。