はじめてのお仕事3
ジゼルの毎日は、母屋で起床後、自分の使用している部屋の片付けから始まる。
使用人のための部屋、と教えられたが、その部屋だけで自宅の居間ほどの広さがある。その部屋に設えられたふわふわの寝台から起き上がり、お仕着せに着替えて掃除をしていると、侍女長のマリーが迎えに来て、使用人専用の食堂で朝食。その後、公爵夫人の朝の支度や朝食などの手伝いをして、そのまま公爵夫人の話し相手を務めることになる。
話し相手、とは言っても、夫人はもっぱらジゼルに話をさせて、聞き手に徹していることが多い。
母の出身地の北大陸のこと、ガルダンの港で流行っていた恋歌、異国から最近入ってきた布や色粉、屋台で流行の菓子。この王都では見ること聞くことができないことを、夫人は尋ねてくるのだ。
とりとめなく、尋ねられるままジゼルが話していると、夫人は嬉しそうに相槌を打ち、ときおり質問を挟みながら、昼食の時間少し前くらいまで、会話を続ける。
これが仕事、と言われてはいるが、あきらかに使用人の仕事ではない。
しかし、それに異議を唱える権利も、ジゼルにはない。
なにせ公爵夫人が、これを仕事だと言い切っている。そして、他の使用人達からも、それに異論が出ないのだ。
ならばと、ジゼルは素直に言葉に従い、それを勤めとするしかない。
夫人は昼食後、公爵家の仕事があるので、話をするのは午前中だけのことになる。
勤めるまでは、ジゼルはこの後、ただひたすらに暇だった。暇だったので、侍従に何かやることはないかとその時点でも仕事をやらせてもらえないか頼んでみたのだが、それならばと案内されたのは図書室だった。
明らかな客人待遇に気が付いたのは、この時だった。
言われるままに本を読み、お茶の時間だからと毎回お茶とお菓子をいただいて、そして気が付いたら夕食の時間。その後は入浴そして睡眠。
自分がなんのためにここに来ることになったのか、忘れそうなほどの好待遇である。
侍従に言っても駄目ならば、自分をここに連れて来た本人にお願いするしかないだろうと、公爵夫人にお願いして、ようやくもらったのは、午後からの目覚めの見張り番。
唯一の仕事なのだから、真面目に勤めようと思うのだが、これもまた、大変暇な仕事である。
今日も夫人の話し相手の勤めを終えたジゼルは、侍女長のマリーと共に昼食をとる。彼女もまた、午後からシリルが目覚めるまで離れに詰めるのだ。シリルが目覚めるまで、飲食することは基本的にないので、ここでしっかりとっておかないと体が持たない。
流石と言おうか、公爵家の食事は、たとえ客人用でなくとも、大変美味だった。
「では、今日もお願いしますね」
微笑む侍女長のマリーに、ジゼルは気合いを入れてハイと返す。
「今日は大丈夫です。覚悟はできてます。とにかく消えれば、侍女長様を呼べばいいのですね」
「マリーでけっこうですわ。消えた場合は、すぐに知らせてくださいね。すぐにお探ししませんと、危険な場所に現れることもありますから」
「……危険な場所?」
「昨日は、このすぐ上に出てくださいましたけれど、過去には母屋の尖塔の上に現れたこともございます。尖塔の屋根は簡単には登れない構造になっておりますので、ご本人が起きてくださるまで、下でずっとお声がけをすることになりましたの」
尖塔の屋根、と聞いて、思わず窓の外に見える母屋に目を向けた。
何本か、確かに尖塔が見える。少し飛び出した構造になっているその塔は、遠目からみただけでは足がかりは見あたらず、確かに登れそうにない。そして、そこから人を一人降ろすというのは、どうやったって無理そうだった。
「……あの、どうやって、降りられたのですか?」
「起きてくださりさえすれば、シリル様ご本人が魔法を使って降りてくださいます。ただ、この国では、そこまで魔法の制御ができる方が、シリル様か、王宮魔術師長様しかおられません。王宮魔術師長様はご高齢なので、シリル様を抱えて魔法で降りるという、お力をたくさん必要とするような魔法を、お一人では行使できませんので、シリル様が登ってしまわれた場合、誰もお助けすることはできません」
ふう、とマリーはひとつため息を吐いたが、その正面でジゼルは顎を外さんばかりに口を開けたままだった。
「……魔法が使えると、空を飛べるのですか」
「誰でも、という訳ではありませんが、シリル様は飛ぶことを可能にしてらっしゃいます。だからこそ、寝起きの時に消えてしまわれるとも言えますが……」
「……そう考えると、はた迷惑なお力ですね」
「ホホホホホ……」
思わず半眼になり肩を落としたジゼルを見て、マリーは慌てたように、ただ笑ってごまかした。
よしと気合いを入れて、今日も昨日と同じ場所に立つ。
今日もシリルは、どこかの芸術品のように美しかった。
これがまた埃まみれになるのか。いや、もしかして、尖塔に上がるくらいなら、外に出ると言うことなのだし、泥まみれもあるのか。
そんな事を考えながら、ただひたすらに、目の前の彫像のような人から生気を感じる瞬間を待つ。
今日は、その瞬間は、思ったよりも早くに訪れた。
ほんの僅かに震えた睫毛を、ジゼルは気合いを入れて、まばたきもこらえながら凝視する。
―――だが、その予想に反して、今日は消えなかった。
確かに、最初の仕事の前に、「飛ぶ日もある」という説明だったのだから、飛ばない日だってあるのかも知れない。
そう思い直したジゼルは、シリルがわずかに目を開けたのを認め、慌てて頭を下げた。
「おはようございます、シリル様!」
その瞬間 ゴッ! と激しく何かがぶつかる音が鳴る。
ジゼルは、勢いよく頭を下げた瞬間、頭にものすごい衝撃を受けていた。
壁に頭突きをしたかのごとく、目の前にちかちかと光が舞う。
「……~~~!!!!!」
「なにごとですか!」
ジゼルが、そこになぜか透明な壁があることに気がついたのは、自分が頭突きをした音に反応してマリーが飛び込んできた後だった。
派手にぶつけたおでこを手で押さえながら、自然とジゼルはその透明な壁に手をついていたのだ。
「……!!!!!」
ジゼルが、目に涙を浮かべ、おでこを押さえながら、何もないはずの空間を平手でばんばん叩く様子を見て、何が起こったか察したらしいマリーは、扉の外にいたらしい他の使用人に、ため息と共に命じた。
「水と手拭を。水はできるだけ冷たいものを持ってきてちょうだい。あと、応急手当の道具を……」
その騒ぎの間、肝心のシリルはというと、目を開けたまま、なぜかぼんやりと横になったままだった。
「なぜあの音で反応がないんですか、シリル様!」
ジゼルの声には、怒りがこもっていた。それはそうだろう。この透明の壁がどこからきたのかと言われれば、もちろんこの部屋の主が、どこかに身につけている何かの魔法のせいである。それ以外、説明のしようがない。
せめてあの派手な衝撃音で起きてくれていればいいものを、シリルは目は開けているのにまったく周囲に頓着せず、ぼんやりしているままなのだ。
涙目で、与えられた濡れ手拭でおでこを冷やしながら、再びジゼルは壁をばんばん叩く。
マリーは、困ったように首を傾げながら、そんなジゼルを見守っていた。
「この壁は、どうやら音も通さないようなのです」
その言葉に、ジゼルはぴたりと動きを止めた。
「……どうすれば、良いんです?」
「尖塔に登った時と同じです。……ご本人が、目を覚ましてくださるのを待つだけです」
「つまり、この状態は、まだ目を覚ましているわけではないという事ですか」
「寝ぼけていらっしゃいますね」
ジゼルは思わずマリーと見つめ合う。
―――その後、透明な壁が消え、シリルが起きあがったのは、それから三時間ほど経過した後だった。