殻を破る時 1
離宮は、想像以上に壮麗な建築物だった。
三代前の王妃が、病気療養をするために建てたものだと説明されたが、ただそれだけのためとは到底思えないほど、細部にまで金のかかった作りになっている。
ジゼルの知る貴族の屋敷は、バゼーヌ家とベルトラン家くらいだが、そのどちらと比べても派手である。
あらゆる部分に金細工が惜しげもなく使われ、床と柱には、大理石が使われている。
ジゼルは、その柱を撫でながら、与えられた部屋を見渡し、ため息を吐いた。
とてもじゃないが、落ち着けそうになかった。
「……いっそ、使用人部屋に入りたい。その方が落ち着いていられそう」
与えられた続き部屋だけで、自宅のすべてが入りそうな広さである。
日頃、両親と二人の妹の計五人で使用する広さを、一人で使えと言われても、まったく落ち着かない。
しかし、その希望が叶えられないことは、彼女自身もちゃんと理解していた。
ここにいる間、ジゼルは、王太子のパートナーとして扱われる。それは、今回の客人の中で、もっとも位が高い王太子に続く身分として扱われることを意味している。
部屋ももちろんであるし、専用の侍女までつけられており、続き部屋は、翌日の舞踏会の時に、仕度部屋として使うためには必要なものだ。
しかし、それを頭で理解していても、心はやはり落ち着かない。
それに、ここには、猫が居なかった。
シリルの側から離れて二週間と少し。その間、ずっと側にいた猫が居ない。
それが、今のジゼルの心を大きく不安に傾けていたのだ。
「……いないのが当然なの。家に帰ればいないのが普通になるの。猫はあんなに一緒には居てくれないの」
自らに言い聞かせるように呟きながら、大理石に額を当てて、頭を冷やす。
「……白銀の猫は、普通にはいないの」
どんどん小さくなる呟きは、心の中で別の叫びになる。
「公爵家に帰る時間は、きっと無いわよね。……シリル様との約束、嘘になるのかしら」
ため息と共に零れた小さな呟きは、ただただ広い部屋に、小さく響いた。
「待ってるって、言っちゃったな」
その呟きが消え去ると同時に、部屋の外から遠慮がちに声がかけられる。
慌てて、今まで抱きついていた柱から体を離しソファに座った。
静かに開かれた扉から、お茶の道具を乗せたワゴンと共にレアが姿を現し一礼した。
レアは、こちらに来てからフランシーヌではなくジゼル付きとして、この部屋にいた。
本人は、きっとフランシーヌについていたいだろうに、文句も言わずにジゼルのそばにいる。
聞いてみたところ、レアは護衛を兼務する侍女であり、エルネストがそばにいる間は、フランシーヌに護衛は必要ないからと、ジゼルに付くことになったらしい。
護衛も兼ねているとはいえ、その侍女としての仕事は完璧で、フランシーヌが自慢するほどに、その手から入れられたお茶は美味しいのである。
申し訳ないと思いながらも、ジゼルはレアを受け入れていた。
「失礼致します。お休み前に、明日のご説明に伺いました」
「ありがとうございます。あの、お茶ですか?」
ジゼルは、眠る前にお茶を飲む習慣はない。
前日宿泊した侯爵家でも、とくに供された覚えのない品に首を傾げた。
「今日はいろいろございましたので、お嬢様は寝付けないかもしれないと、侯爵夫人から申し付けられました。暖かい薬草茶でございます。どうぞ、お召し上がりください」
レアの言葉に頷き、礼を告げると、手際よくお茶が用意された。
口を付けると、仄かに甘い香りが、口から鼻に抜け、体にまとわりつく。
その香りは、確かに心を落ち着かせた。
「明日は、午前中、婚約の儀がございます。その時間、ジゼル様はお部屋でおくつろぎくださいませ。早めにお昼をご用意いたしますので、その後、お支度致します」
「フランは、午前中から忙しいのよね」
「はい。午前の儀式後すぐに、舞踏会のお支度に入る予定です」
「じゃあ、明日、私はフランと会場以外で顔を合せる機会はないのかしら」
「いえ。舞踏会の控え室は、奥様とフランシーヌ様とご一緒のお部屋になりますよ」
それを聞き、ジゼルはほっと胸をなで下ろした。
「よかった……。その日のうちに、ちゃんとお祝いが言えそうね」
会場でうかつに口を開き、王太子に恥をかかせるわけにはいかない。
礼儀作法の教師は、ジゼルに、会場ではすべて王太子の言葉に従い、口を開く場合は最低限の言葉だけにするようにと言い聞かせていた。
その状況で、まともな祝いの言葉が口から出せると思えなかったジゼルは、会場以外で話す機会があることに安堵していた。
ジゼルの表情を見て、普段はあまり表情を変えないレアも、顔をほころばせる。
「ジゼル様。そういえば先程、シリル様がいらっしゃいました」
「え? ……あ。レアとフランの魔法、ちゃんと解けた?」
「はい。今は、フランシーヌ様のご様子を見て下さっています」
「そう……。フランの怪我は大丈夫だった? 舌を噛んだって言っていたけれど、お式には影響ない?」
「大丈夫です。そちらは、待機していたお医者様が見て下さいました。ほんの少し切る程度で、食事にも影響はないとお聞きしました」
嬉しそうにレアが微笑み、それに釣られてジゼルも微笑む。
ようやく笑みが戻ったジゼルだが、やはりふとした拍子に、表情が曇る。
その事に気付いただろうに、レアは、側に控える侍女としてそれをまったく表に出すことはない。
ジゼルは、しばしの逡巡の後、思い切ったように口を開いた。
「……あの、レアさん」
「なんでしょうか」
「今からシリル様にお会いすることはできるでしょうか」
遠慮がちに問うジゼルに、レアはまるで安心させるように静かに微笑み、頷いた。
「先程、シリル様からもご面会の申請がございました。申請が通れば、こちらにおいでになりますよ」
レアの言葉に、ジゼルは目を瞬かせた。
「申請、ですか」
「今、こちらでのジゼル様のご身分は、侯爵閣下がお預かりしている王太子殿下のパートナーです。そのため面会は、申請して旦那様からのご許可をいただかなくてはお会いできないのです」
「そうなんですか。……あの、それは私から会いたいと言っていても、必要なんでしょうか」
「いいえ。ジゼル様がお望みでしたら、今からお伝えすればすぐにでも来ていただけるはずですわ」
レアは、その時のジゼルの表情を見て、にっこりと微笑み一礼すると、足早に部屋をあとにした。
ジゼルは、一人になった部屋で、自分の腕に嵌っている腕輪を見ながら物思いに耽っていた。
『眼』となった元防御の腕輪と、簡単に抜けそうな腕輪を繁々と見つめ、その微妙な違いを見比べる。
身に付けている装飾品に、どんな魔法が込められていたのか、あのつかの間の邂逅の時には聞くことはできなかった。
砕け散った髪飾りはなんだったのか。そして、耳飾りは、あの歪みのためのものだったのか。
あの時ジゼルは、それぞれの飾りがどんな役割のものだったのか、知らないことがもどかしかった。
唯一、あの時壊れなかったこの腕輪も、見ているだけでは猫の腕輪とそれほどの違いがないように思う。
不思議なのは、あとに付けている方が、石の数が少ないことくらいだった。
シリルの、常に付けている指輪をじっくりと見る機会は意外と少ない。しかし、その造形は、新しくもらった腕輪と、とてもよく似ていた気がした。
「……防御の腕輪なら、石の数は、猫の分増えそうな気がするんだけど」
今、猫になっている石は、おそらくシリルが持っている。その部分だけ抜け落ちた石の名残を、ジゼルはそっと指で撫でた。
ようやくシリルが部屋に姿を現した時、ジゼルは立ち上がり駆け寄ろうとして、その場で立ちすくんだ。
シリルは、ジゼルが見た事もないような、大きな梟をつれて来ていたのだ。
ジゼルは、身を竦ませながら、その梟を見て、首を傾げた。
「シリル様。あの、それ……」
瞳は漆黒。羽根の色は、灰色。どこにでもいそうな、ただありえないほど大きい立派な梟だった。
梟は、なぜか、ジゼルと同じ方向に、首をぐいっと傾げて、大きな眼を見開き、ジゼルを見つめている。
「あ、ええと……」
何か言いづらそうにしながらも、シリルは手を梟に差し出した。
梟は、身を膨らませると、ひょいっとその手に身を移す。
目の前に、そっと差し出された大きな梟を、呆気にとられて見つめたジゼルは、その梟に、なぜか翼を差し出された。
「……握手、って」
シリルにそう言われ、そうっと翼を握ると、軽く上下した。
それは、相手は翼ではあるが、動作はなるほど握手だった。
「師匠の使い魔なんだ」
「……師匠、というと?」
「王宮魔術師長のヤン=ラムゼン=アランブール」
「クァーォ!」
突然鳴いた梟に驚き、びくんと体を竦ませたジゼルに、梟は再び首をぐりんと傾げた。
「女性が一人で居る部屋に、男一人を送り込んで、二人きりにするわけにはいかないって、ついてきたんだ」
なぜか顔を赤く染め、気まずそうにしながら、シリルはうつむいていた。
梟は、そんなシリルの腕から音もなく飛び立ち、部屋のソファの背もたれに優雅に舞い降りた。
ジゼルにとっては、シリルとひとつの部屋に二人きりは慣れた状況である。ただ、その時シリルは寝ているだけだ。
今は扉のすぐ近くに、レアが常に控えている。
すぐ傍に侍女がいる状況なら、ジゼルにとって二人きりとは言えないのである。
「……ひ、ひとりと言っても、その、レアさんもいますし……」
改めて、二人きりなど意識したことがなかったジゼルは、慌てて部屋の入り口を見てみると、すでにレアはいなかった。
「……あら?」
「隣の控え室にいますって、言っていたよ」
ジゼルは、レアの素早い身のこなしに、唖然とするしかなかった。