はじめてのお仕事2
「自分から働きたいだなんて、ジゼルはいい子ね」
ほんわりとした微笑みを浮かべながら、公爵夫人はジゼルにそう告げた。
「いえ。私はそもそも、公爵邸で働けるような伝手も身分もない、ただの下級騎士の娘です。それが、こうして公爵夫人のお話相手をしているだなんて、恐れ多いことです。ましてや、このお屋敷で働かせていただけるだなんて、とても光栄なことだと思います」
ジゼルの言葉に、夫人は嬉しそうに頷き、そして頼まれた仕事が、公爵家の三男である、シリルの世話だったのである。
この仕事が、とんでもなく変則的な物だとわかったのは、部屋付として案内され、侍女長に紹介されたそのすぐあとだった。
「あなたの仕事は、シリル様がお目覚めになるまで、こちらで見守りながら控えていることです」
侍女長の言葉に、ジゼルは首を傾げた。
「……ここで待つんですか?」
「ええ」
そう言われ、ひとまず返事をして、向き直ったとたんに告げられたのは、予想外の仕事内容だった。
「シリル様は、昼から夕刻の間にお目覚めになります。それまでこちらで見ていて下さい。お目覚めになった直後、突然姿を消すことがありますので、くれぐれも目を外さないように。そしてもしも姿を消された場合は、すぐに知らせて下さい」
「……はい?」
どうやら、ここで見ていなければならないのは、坊ちゃまが目覚めてすぐに使用人を必要とするからではなく、寝ぼけて行方不明になる可能性があるからということらしい。
ジゼルは、唖然としたまま、侍女長の言葉を聞いていた。
「シリル様は魔法技師です。いろいろな魔法を、道具に込めて誰もが使用できるようにするという研究をなさっておられます。その研究の成果を身につけたままお休みになっているのです。目覚めたばかりですと、ご本人のお力に反応して、うっかりそれが発動することがあるのです。それが移動魔法だと、突然どこかに飛んでいったりもします。ですから、こちらで見張っていなければいけないのです」
「あの、それ、その道具を取り上げておくことはできないのです?」
「どの道具にどんな力がこもっているのかは、魔法を込めた本人でないとわかりません。明確な攻撃の魔法を込めた道具の作成は法で禁じられているそうですから、その発動の心配はないのですが、うかつに取り上げ、それが何かの拍子に暴発すると、逆にこちらの命に関わります。あなたは魔術師ですか? せめて魔法が使えるなら、対処のしようもありますが……」
その問いに、首を猛然と振って答えた。
そもそも、見た事すらない魔法を、自分が使うなどという発想もできない。田舎育ちのジゼルには、魔法技師という職業自体、その日はじめて知るものなのだ。
初めて出会ったシリルは、眠っていた。
この部屋に案内されてきたのは昼食後だったので、もうとうに昼は過ぎているのだが、まるで深夜のごとく眠っていた。
見目麗しい母に似たらしいその顔は、神々しいほどに整っている。他では見た事のない白銀の髪は異質なものを感じさせるが、ここまで整った顔がこの色で覆われているのは、逆に神聖なものを見ているような気にさせる。
目覚めた時の瞳の色は何色かと想像するのは、この初仕事で一番の高揚感を覚えたことだった。
だが、その神々しさも、高揚感も、本人が目覚めるまでのこと。
どんな美男も、目覚めがぼろぼろだと魅力は激減するものだ。
ジゼルはその日、いきなりそれを学んだのである。
息をしているのが信じられないほど微動だにせず寝ていたその瞳が、ほんの僅かに開かれた。それに気が付いたジゼルが、侍女長に言われたとおり外に知らせようとしたその次の瞬間、ほんのまばたきの間に、そこにいたシリルは消えていた。
「……え……ええっ!?」
上掛けの膨らみもそのままに、ただ本人だけが消えている。
慌てて上掛けを捲り、手を当ててみると、その場所に確かに人がいた温もりがある。つまり、今まで見ていたのは、幻でもなんでもないという、確かな証だ。
「……ええええっ!?」
「何かありましたか!」
おそらく、初仕事を見守るために、傍の部屋に控えていたらしい侍女長が部屋に飛び込んでくるのも気が付かず、呆然と上掛けを持ったままジゼルはその侍女長を振り返った。
「あ、あの、あの、あの」
「消えましたか」
「は、はい!」
「シリル様が消えました。探しなさい!」
扉の外に向けて、侍女長がそう告げたその瞬間だった。
突然頭上で轟音が響く。
そして、重々しく何かが落ちるような音と共に、その恐ろしい音は終了した。
身が竦むような破壊音に、思わず手を取り合っていた侍女長と共に、なにごとかと恐る恐る天井を見上げると、ぱらぱらと埃が舞い落ちてきている。あきらかに、ここの天井で何かが起こった事を示すその状態に、侍女長ははっと何かに気が付いたように身を翻した。
「だれか! 天井裏に入りなさい! シリル様がそこにいるはずです!」
ジゼルは、呆然とそれを見送り、再び天井を見上げた。
「……えええ?」
ぽかんと開けた口は、その後本当に天井裏からシリルが引きずり出される瞬間まで、開いたままになっていた。
天井裏から引きずり出された埃まみれのシリルは、寝ぼけ眼の翡翠の瞳をぼんやりと外に向けている。下履き一枚のあられもない姿を埃まみれ蜘蛛の巣まみれにしているが、本人はそれにまったく頓着せず、ぼそりとつぶやいた。
「……暗かったから、夜かと思ったのに……」
なぜか残念そうなその声に、ジゼルの気が抜け、思わず膝から力も抜けた。
シリルは、天井裏の屋根ぎりぎりの場所に現れて、そのまま落ちたらしい。
あの轟音だと、天井裏の梁は酷いことになっていそうだが、怪我ひとつ見あたらない。
不思議なほど丈夫な体は、寝ていた時にはわからなかったが、下級騎士の娘として産まれ、その部下の兵士達をまとめて世話をしていたジゼルの目から見ても、兵士達と見劣りしない程度に鍛えられたものだった。
侍女長が湯浴みの支度をする間、ジゼルはシリルについた蜘蛛の巣を払っていた。その間シリルは、本当に目覚めているのかどうか不思議なほど、寝ぼけ眼のまま身動きしない。
そんなシリルが、隣で濡れ布巾を手に、せっせと顔や髪を拭っている存在に気が付いたのは、湯浴みの用意が調う寸前だったらしい。
「……だれだ?」
まったく身動きしないまま、ただそう告げられて、ジゼルは一瞬何のことかと思ったのだが、それが自分を誰何する声だと気付き、頭を下げた。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。本日から、こちらで勤めることになりました、ジゼル=カリエと申します」
「……ジゼル……?」
「はい」
その段階になって、ようやく、その寝ぼけ眼がこちらを見ていた事に気が付いたジゼルは、にこりと微笑んだ。
「……銀色は、珍しいな」
その視線が自分の髪に向いているのに気付き、ジゼルは、「あなたほどではありません」という言葉をぐっと呑込み、返答した。
「母が、北大陸の出身なのです。私は、西のガルダン港に生家がございます。ガルダンは、大陸の玄関口。移民も多いので、私のような他の大陸の色を持った者も大勢いるのです」
「……紫水晶も珍しい」
翡翠も珍しいという言葉も再び呑込み、さらに微笑んだ。
「北大陸では、よくある色ですよ。母も同じ色なのです」
「……そうか」
やはり、あまり覇気を感じない返答だった。
その直後、湯浴み部屋にシリルの姿が消えたとたん、どっと疲れを感じてへたり込んだジゼルは、駄目で元々、配置換えを願い出てみようかな、と思う程度に、精神的疲労を感じつつ初めての侍女仕事をひとつ終わらせたのだった。