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瞳の戒め 6

 ジゼルは、夜、離れに帰り、ぼんやりとしたまま、シリルの寝室に足を踏み入れていた。

 今日もシリルは、ここで眠ることはない。これから、しばらくの間は城で寝起きするためだと聞かされた。

 ジゼルも、母屋で部屋を用意してくれると言われたが、あえて断り、ここに帰ってきた。

 今日一日で知らされたことが多すぎて、静かな場所でこの混乱を治めたかったのだ。

 明日からは、ジゼルも、侍女としての仕事は一切せずに、家庭教師が付きっきりで、二週間ほどを過ごすことになる。

 そして、それが終わると、ジゼルはベルトラン家に移動し、宴の当日を待つ。

 ジゼルの身柄が、今まで公爵家にあったことは、公然の秘密らしく、秘密であったからには、ちゃんと事前に姿を見せておく必要があると言うことらしい。


 慌ただしい明日からの出来事への不安もある。

 それでも、それを引き受けたのは自分だ。


 あの時、王太子の話を聞いたあの瞬間、ジゼルは自分がシリルを微塵も疑っていないことに気が付いたのだ。


 あの人が、自分を守ると言ったなら、それは守られる。

 あの人が、自分を守るために動いているなら、自分は守られる。


 命を狙われていることに対する恐怖はあった。

 あの日受けた悪意の視線を、何倍も受けるかもしれないと思った。

 それなのに、あれを聞いた瞬間、ストンと、大丈夫だと思ってしまった。

 

 この離れに住む、変わり者の魔法使いは、ジゼルの心の中に、しっかり居場所を作っていたのだ。

 あの白銀と翡翠が、ジゼルの心の中から消えることは、もう無い。

 ジゼルに填められた腕輪が、もう違和感なく馴染んだように、ジゼルの世界にはあの色がある。

 ジゼルは、それを自覚したのだ。

 

 シリルの寝台は、静かに主の帰りを待っていた。

 ジゼルは、その寝台に、埃が掛からないように白い布を掛けると、頭を下げた。


「お休みなさいませ」


 静かに扉を閉め、ジゼルが立ち去ると、寝室は静けさに包まれた。





 ――それは、ずいぶんとはっきりとした夢だった。


 ジゼルは、シリルが小さかった時の姿など知らない。

 シリルが、公爵夫人と同じ亜麻色と琥珀色だった時代など知らない。

 だから、夢の中のシリルは、小さくても白銀と翡翠だった。


 小さなシリルは、膝を抱えて泣いていた。

 とても細く、病的なほどに真っ白な姿は、ジゼルの知る子供とは大きくかけ離れていて、とても頼りなく見えた。

 周囲になにもない状況が、なおさらその姿を小さく見せているようで、見ていてとても不安を覚える。

 どうして泣いているのか気になり、そっと一歩を踏み出した時、シリルはふと何かに気付いたように、顔を上げた。

 ジゼルに視線を向けると、翡翠の目を零れんばかりに大きく開き、そして、慌てたように膝をついてジゼルににじり寄る。

 それなのに、あと少しのところでなぜかその体を止めてしまい、表情をくしゃりと泣き顔に変えた。

 口が動いているのに、何を言っているのかわからなかった。


 まるで、二人の間に、透明の壁があるように、向こうからの音は聞こえなかった。

 ジゼルが唇を読めたなら、今、シリルがなぜ泣いているのかわかるのに、それがわからないのがもどかしかった。 


 ジゼルは、一歩、また一歩と、シリルに近づく。

 その一歩ごとに、シリルは少しずつ、涙を止めた。

 もう、手を伸ばせばすぐに触れられる。そこまで近づいた時、シリルは、すがるような目で、そっと手を伸ばした。


 そしてジゼルは、迷わずその手を取った。


 シリルはその瞬間、驚いたように目を見開き、そして、泣きはらして目元を赤くしたまま、ふわりと微笑む。

 そして口を開き……。



「にぃーぅ」



 ――がばりと起き上がったジゼルは、慌てて、窓から零れる月明かりだけしかない部屋に視線を巡らせた。

 寝台の枕元に、今日一日姿を見せなかった猫が、その白銀の毛皮をほんのり光らせて、ちょこんと座っていた。

 しかし、猫は、突然起き上がったジゼルに驚いたのか、尻尾を膨らませて硬直していたが、慌てたように寝台から飛び降り、逃げようとした。


「待って、猫ちゃん!」


 声をかけても足を止めず、足音も立てないまま、猫はドアノブに飛びついた。


「……シリル様!」


 ありえないことに、ビクンと硬直した猫は、前足でしがみついていたドアノブから、受け身も取らずに落下した。

 本物の猫ならば、どんな状況であろうと、受け身を取る行動をしただろうに、猫はその時、ジゼルが未だかつて見た事がないほど鈍くさく、ぼとんと落ちた。


「……にぃ」


 しょんぼりと項垂れ、力なく鳴いた猫を心配し、慌てて寝台から降り、駆け寄ったジゼルは、猫を抱き上げ、寝台につれて行った。


「……シリル様なんですね?」

「にぅ……」


 それが返事なのかどうかはわからないが、ジゼルは猫が今の落下で怪我をしていないか、猫を寝台の上に降ろしてあちこち体をなでさすり確認した。


「どこも痛くないですか」


 声をかけたジゼルに、猫はそろそろと視線を上げ、再び硬直した。


「うみぁー!」


 突然鳴いて、びょんと跳ねた。

 なにごとかと見守るジゼルの傍から猫は離れ、次に姿を見せた時に、何かをずるずると引き摺ってきていた。

 四本足で引き摺るには、ずいぶん長くかさばる布で、あまりに大変そうなのでそれを取りに行くと、猫は今度はくるりとジゼルと反対を向いて、お座りをした。

 

 猫が引き摺ってきていたのは、厚手のガウンだった。


 今の季節に着るには少し厚いのだが、それを見た瞬間、ジゼルは自分の姿を自覚した。

 今は、夏の終わりで、衣替えはまだもう少し先なのだ。

 ジゼルが身に纏っていたのは、すこし薄手の夜着だった。

 夜の闇の中でも見通す目を持った猫、いや、シリルの前で着ているには、少々都合の悪い代物である。


「……み、みましたね?」

「にぅ……みゃーぅ」


 座っていた猫が、丸まって顔を隠している。耳をぺったりと寝かせ、一応反省している風に見えた。

 ジゼルはキッと顔を上げ、拳を握りながらも宣言した。


「……今回は許します!」

「にう」


 許さざるをえなかった。なにせ、ジゼル自身が、気が付いていなかったのだ。シリルがガウンを持ってこなければ、そのままずっとこの姿を晒していたことになる。

 慌ててガウンを着て、改めてジゼルは、猫を抱き上げた。


「……今は道具を作ってらっしゃるんですよね。夜ですし」


 道具を作るのは、夜の方が向いている。

 シリルが紡ぎ出す魔法の糸は繊細で、扱いが難しいのだ。

 夜の闇の中、静かで、他の人々が活動しない時間が、シリルの仕事の時間だった。

 今、月が中天にあるのを窓の外に見て、ジゼルは猫の頭を撫でた。


「お仕事、おつかれさまです。猫ちゃんと繋がってて、お仕事は大丈夫なんですか?」

「……なぁーう」


 夢の中では、壁があるかのように音が伝わらなくて言葉がわからなかったが、今は猫であるためにさっぱり何が言いたいのかわからない。

 ジゼルは苦笑しながら呟いた。


「明日から、言葉遣いも行儀作法の先生が教えて下さるんですけど、猫語はさすがに教えてくれる教師もいそうにないですね」


 猫はそれを聞いて、耳をぴくんと揺らすと、心配そうにジゼルの表情を見上げた。


「……殿下のパートナー、お引き受けすることにしました。もう、殿下からお聞きになりましたか?」

「にぅ」

「明日から、さっそく特訓です。前みたいな一夜漬けで、殿下に恥をかかせるわけにはいきませんから。礼儀作法に、言葉遣い。あと、ダンスもやるんだそうですよ。それも二種類。たった二週間で、できるのかしら」


 口調と裏腹に、ジゼルの表情は穏やかで、くすくす笑っていた。

 不思議そうに見上げてくる猫の視線に、ジゼルは微笑みで答えていた。


「何を言われても、笑って受け流す方法も教えていただけるそうですよ。公爵夫人が仰ってました。どうやっても相手の悪意は変えられないなら、感情を向けるだけ無駄だから、上手に受け流す方法を教えて下さるって」


 猫の、肌触りの良い、柔らかな毛皮を撫でると、笑顔も声も穏やかになる。

 しなやかな体は、今はジゼルを気遣ってか、体を捻って不安そうにジゼルを見上げていた。


「……シリル様、信じます」


 ジゼルの言葉に、猫は驚いたように目を見張った。


「シリル様は、嘘などつかない。何者からも守って下さるのだと、信じます。それで恐怖はなくなりました。だから、不安なのは、慣れないドレスの着こなしくらいですと言えるくらい、二週間で精一杯、お役目を果たせるように力を尽くします」

「……にぅ」


 ジゼルは、じっと見上げてくる猫を、そっと抱き上げた。

 その頭を頬に当て、きゅっと抱きしめた。


「お仕事がんばって下さいね。……私のお部屋はここにあります。だからここで、お帰りをお待ちしていますから」

「にぃ」


 猫の額に、ジゼルがそっと口付けると、猫は、そのお返しに、ジゼルの頬をぺろりと舐めた。



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