瞳の戒め 5
帰宅した公爵夫人は、いつもとは違い、その表情に疲れを見せていた。
「話し合いの結果は、あなたへ事のはじめからきちんと説明することと、あなたの了承無しに話を進めないことで決着しました。このあと、王宮から、あなたに事の次第を説明するための人員が派遣されます」
「私の了承ですか?」
「ええ。もちろん、断ることも可能です。それは私の名において、保証します」
力強い言葉で宣言すると、公爵夫人はジゼルを励ますように微笑んだ。
しかし、ジゼルは、それでもなお不安そうに首を傾げた。
「しかし、王太子殿下が関わりあるという事は、王家からのお話なのではありませんか? それをお断りすることは、公爵夫人にも、何かご負担になるようなことがあるのでは……」
「そんな心配は必要ありませんよ。元々、わたくしたちの都合に、あなたを巻き込んだようなものなのですから。……わたくしたち、というより、王家の都合と言うべきでしょうか。そのことも、ちゃんと説明してもらいますし、その場にはわたくしも立ち会いますから、安心なさいね」
「……はい、ありがとうございます」
ぎこちない笑みを浮かべたジゼルを、公爵夫人はそっと抱きしめて慰めた。
結局、公爵夫人の帰りを待っていた男爵夫人も招待され、ジゼルも同席しての晩餐中、日頃見られないほど慌てた様子の侍従長により、客人の訪れは告げられた。
その侍従長に続くようにその場に姿を現した人物を見て、ロクサーヌは慌てて席を立ち、最高位の礼をとり、公爵夫人はその人に駆け寄り、抱きついた。
その人は、色の抜けた長い白髪を後ろで一つにまとめ、紺一色に金糸の飾り刺繍が控えめに施されたローブを身に纏った姿をしていた。衣装だけならば、高位の文官と同じものであるのに、その青灰色の視線の強さとにじみ出る威厳は、通常の文官とは相容れないものだった。
ジゼルは、呆然とその光景を見ていたのだが、背の高い人物が公爵夫人の頬に口付けるのを見て、慌てて立ち上がった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま、姫」
それは、この公爵家の当主、エルヴェ=コンスタン=ブラン=バゼーヌだった。
ジゼルの住んでいた街でも、絵姿などで伝えられた、長年国王を支える国の重鎮である。
若い頃はさぞもてたことだろう細面には、長年の重責を担ってきた苦労を思わせる皺が刻まれていたが、それ以上にまだまだ気力の尽きぬ強さが漲っていた。
宰相は、抱きつく妻の手をそっと剥がし、優雅にその手に口付けた。
「そのお姿の旦那様は、ずいぶん久しぶりに見ましたわ。どうなさったの?」
宰相は、その問いに苦笑しながら、首を傾げた妻の頬に、ふたたび軽く口付けた。
「抜け出すのに、宰相の礼服のままでは目立って仕方がないからね。もっとも、私は目くらましだ。本命は、こちらだよ」
そう言って向けられた視線の先に、ひっそりと立つもう一人を見て、さすがの公爵夫人も目を見開いた。
「まぁ……ロラン殿下」
王宮警備隊の紺色の衣装を身に纏った王太子は、声をかけられ、ようやく部屋に足を踏み入れた。
「突然の来訪を許してほしい。説明をするなら、当事者本人が来なければ始まらない。それに、今回の事に関しては、人を介しては、逆にジゼル嬢は断り辛くなるだろう。だから、宰相に頼み込んで、私が直接足を運んだ」
「おかげで私は、久しぶりの帰宅が叶った」
苦笑して小首を傾げた宰相に、公爵夫人は純粋な喜びを表した笑みを浮かべ、二人を席に促した。
「すぐに食事を用意させますわ。どうぞゆっくりなさってくださいませ」
「ありがとう。だが、食事はいい。先程王宮で食べてきた。お茶をもらえるか」
「まあ、お茶でよろしいのですか? お酒もすぐにご用意させますが」
「ああ。どうせこのあと、説明が終われば城に帰らなければならないからな。王太子が朝、部屋に居ないなどとなったら、その騒ぎを思い浮かべるだけでゾッとする」
おどけたように肩をすくめた宰相は、意識したようにその雰囲気を変化させた。
その視線は、ジゼルに向けられていた。
先程まで感じた厳しい視線はなく、目の端に柔らかさすらあった。
慌てて再び頭を下げたジゼルの頭に、なぜかしみじみとした声がかけられた。
「君がジゼルか。末の息子が面倒を掛ける。そんなにかしこまることはない。君もここで食事を取っていたのだろう。構わないから楽にするといい」
「は、はい……。ありがとうございます」
頭を上げたジゼルは、宰相の視線をその時初めて、はっきりと正面から受ける事になった。
しかし感じていた威圧感などまったくなく、むしろその笑みに親しみと安らぎすら覚え、緊張がようやくほどけていくのを感じていた。
「元々の原因は、まあ、私の結婚問題だ」
食後のお茶が用意された後、気まずそうにそう切りだした王太子は、ふうとため息を吐くと、苦笑した。
「……母上に、私の思い人について匂わせたところ、あの舞踏会が開かれることになった」
「……思い人、ですか」
「私としては、母に察してもらいたかった所なんだが……彼女は没落した伯爵家の令嬢でね。今は、城で王妃専任の女官をしている。母はどうも、相手に関してはわかっていなかったようで、私の思い人が身分が低いという事だけを察して、身分にかかわらず妃を迎え入れられる下地を作ろうとしてくださったらしい。実際、あの会場に当人がいれば、選ぶこともできたしそのまま妃候補にすることも可能だったのだが、肝心の人は女官として裏方で働いていてね。それも叶わなかった」
「……その方は、王妃には迎えられないのですか?」
「今の状態では、かなり難しい。元伯爵家の令嬢ではあるが、彼女には貴族の後ろ盾もなく、父は罪を犯し失脚したことになっているため、他の貴族の助力も請えない。領地も手放しているし、今は、たとえ私が望んだところで、彼女も首を縦に振ってはくれないだろう」
彼女は頑固者でね、と言った王太子の表情には、その相手に対する思いが込められていた。
その様子から、それが嘘でないことは伺えた。
「それで、あの舞踏会になったわけだが、ここで君の問題が絡んだ。私の思い人が、身分が低いらしい、と言う噂が先にあり、あの場で、誰の眼にも止まるほど容姿が際立ち、さらに王妃に直接面会した君がいた。結果、私の思い人が、君だと思われた」
「……はい?」
一瞬、言われたことの意味を理解しかねた。
ジゼルが、疑問も露わな視線を向けると、さもありなんと王太子は頷いた。
「その銀色は、確かに目立つ。私もシリルも、そして宰相も位置が遠すぎて気が付いてはいなかったが、それでも会場にいた半数の貴族は、その珍しい髪の色で、君を記憶したらしい。そして、庶民の、後ろ盾のない王妃候補だと思われた。それで、今のうちに君を片付けようとした貴族達がいた。おかげで、問題が複雑になったんだ」
ぽかんと聞くだけになったジゼルに、王太子が頭を下げた。
「これに関しては、はっきりさせていなかった私が全面的に悪い。迷惑を掛けた」
「え、いえ……そんな、頭を上げてください」
「君は、君が関わった貴族達だけではなく、王太子妃候補と目されている令嬢を持つ家からも狙われることになった。君の保護を請け負っているバゼーヌ家と、君の身の安全を図るよう命ぜられたベルトラン家、両方の調査で、舞踏会の件以外の、複数の家の関わりが明るみに出て、原因を探ったところ、そういうことだったらしい」
苦笑した王太子は、繁々とジゼルの髪を見つめ、再びため息を吐いた。
「あの舞踏会のあと、妙に私に妃について打診するものが増えた。名前を尋ねられるなどはわからないでもないが、妙に具体的に、婚約の日付けを問われたりした時点でまさかと思い、思い人に会いに行ってみたら、なんと彼女の口から、おめでとうございますと告げられた。それでようやく、私も事態がおかしな方向に向かったことに気が付いたんだ」
王太子の言葉に、同意するように宰相も頷いた。
「私の方にも、同じような質問が多かった。おかげで陛下から、自分が知らない間にお前が決めたのかと尋ねられる羽目になった」
「まあ、お兄様は相変らずですわね」
公爵夫人が、なにやら憤慨したように呟く。
ジゼルは、それを戸惑いながら見つめ、そして首を傾げた。
「……私が狙われていた理由は理解しました。それが、今回の舞踏会で王太子殿下のパートナーになる事と、どう関わりがあるのでしょうか。今のお話ですと、私は王太子妃候補として勘違いされているんですよね。今回、再び王太子殿下と並んでいては、その勘違いを肯定するようなものではありませんか?」
「……君を狙っていた相手は、大体特定した。しかし、その中で、もっともまずいのを取り逃してな」
「……え」
「事は深刻でね。今回、たまたま君を公爵夫人が保護していたから相手は手出しができなかったが、これが他の場所で保護していたならば、間違いなく命はなかっただろう。関わったものは多数捕縛したが、そのどれもが下っ端で、上まで辿ることができなかった。唯一まともに捕まえたのは、君の実家でもある西の砦に入りこんだ賊だった。西の兵達は、見事にその賊を捕らえ、上手く情報を引き出してくれた。そこでようやく、その貴族の関与が明るみになった」
溜息が出そうな話だった。ジゼルにとっては、遠い世界の出来事にも聞こえた。
自分がそこに関わりがあるというのが信じられないほど、事は複雑だったのだ。
王太子は、苦悩を滲ませた表情で、説明を重ねていた。
「だが、それだけだと、まだその貴族を捕らえるには証拠が少なすぎる。……現在、相手は行動を控えているようで、なかなか尻尾を出さない。だが、これを取り逃すと、君をいつまでたっても自由に出来ないし、このままでは、その貴族は野放しになり、結局、後々王家の徒となる。できるなら、ここできっちりと片をつけたい。それで、君の力を借りたい」
「……つまり、もう一度、手出しさせる状況を作る。そういうことでしょうか」
「その通りだ。危険は重々承知している。もちろん、君の安全は、なにより優先して守る。無理を承知で頼みたい。ベルトラン家の宴で、私のパートナーを、勤めてもらえないだろうか」
ジゼルは、真剣な眼差しの王太子を見ながら、あの日の王妃陛下の面影を見ていた。
王妃陛下に対して、畏れの気持ちがあったからか、あの時は思わなかったが、思えばあの日、王妃陛下の眼差しも、今の王太子の眼差しと変わらなかったように思ったのだ。
「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「一つと言わず、何なりと」
「私がこれを受けたことによって、ベルトラン侯爵家の婚約披露に差し障りはありませんか」
「……それは、婚約披露の妨害に関してか?」
「はい。侯爵家に嫁ぐ友人に、迷惑を掛けるのは本意ではありません。これで、その宴に障りがあるというならば、私はお引き受けできません」
ジゼルの断言に、王太子は微笑みを浮かべ、頷いた。
「心配ない。これはむしろ、ベルトラン家からの提案でもある。あの家は、君に対する害をすべて取り除くよう、母から命を受けた。しかし、現在に至るまで、それは叶わぬままだ。次こそ必ずと、今から万端の警備体制を敷けるよう、周到に用意をしている。それにエルネストは、なにがあっても婚約披露は取りやめないだろう。あれだけ執着した花嫁だ。婚約披露が延期されたから結婚も延期などと言ったら、それこそ、邪魔をしたその貴族の家に単身で突入しかねない」
その場にいた、ジゼル以外の全員が頷いた。
「それから、たとえ君がこれを受けなくとも大丈夫だ。その場合、君は私とは関係ない旨を婚約披露の宴で公表し、ついでに私の本命を引っ張り出すまでだ」
「それだと、その方が危険になるのでは」
「……だからこそ、君に頼みたい。だが、勘違いをしないで欲しい。彼女の身を危険にさらしたくないからという理由ではなく、君の身の安全は、何があっても守られるという自信があるからこその選択なのだ」
その言葉の意味が測りかね、ジゼルは首を傾げた。
「私は、君のことは知らずとも、シリルのことはよく知っている。あれは、産まれた時から私の傍にいた、大切な友だ。そのシリルが、全力をもって君を守ると宣言した。何があろうと、針一本たりとも君には近づけさせないと言い切った。だからこそ、私は君の身の安全を信じ、この策を承認した」
王太子の言葉で、ジゼルの中に驚きが広がった。
「今、シリルは、その為の魔導具を作るため、王宮の研究室に籠もっている。会場に設置するものから、君が身につける装飾品まで、今まさに他の王宮魔術師が顔色を無くすほど、大量に作成している。今なら、デザインはどうとでもなるだろう。希望があるなら、今のうちに伝えておくといい」
「あの、それは、殿下の思い人が身につけても問題はないのでは……」
「大ありだ。シリルは、”君が”身につけるために、君に合せた装飾品を作るんだ。他の者が身につけても、その効力は半減する。それでは、万全とは言いきれない。それに、会場に設置するものは、シリル自身が当日起動させるためのものだ。君の隣でパートナーを務めながら、その維持をさせるのは難しい。どちらも、君が私のパートナーであることを想定したものなんだ」
ジゼルは、その時、自分の心の中に沸き上がったものがなんなのか、その瞬間はっきりと自覚した。
そして、次の瞬間、それは表情に表れていた。
ジゼルは、正面の王太子が驚くほど穏やかな表情を浮かべ、そして微笑んだ。
「……王太子殿下のパートナーのお役目、私のような拙いものでよろしければ、喜んでお引き受け致します。公爵夫人にはご迷惑かとは思いますが、それに相応しいように、私にご指導をお願いできますでしょうか」
「……ジゼル、ええ、もちろんですよ」
公爵夫人は、一瞬言葉に詰まり、それでも微笑んで頷いた。
王太子は、そのジゼルに向かって、静かに頭を下げた。




