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瞳の戒め 2

 王太子は、顔を両手で覆ったまま、なんとか体を起こした。

 その指の隙間から流れている血を、マリーが清潔な布で拭う。


「……何が起こった?」


 なんとか、最初の衝撃から復活した王太子がはじめに尋ねたのは、自分がぶつかった何かについてだった。


「あれは、シリル様の魔法の道具から放たれている防御の壁でございます」

「ああ、あれか……。寝ている時も発動するのか」

「シリル様がお目覚めの間は、ちゃんと周囲の状況に合わせて発動するものなのですが、寝ている間はどうも、常時発動しているご様子です。申し訳ございません」


 動かしていた手を止め、頭を下げながらマリーが告げると、王太子は相変らず顔を押さえたまま頷いた。


「お前のせいではないのだから、詫びる必要はない、マリー」


 ようやく手が外されたのだが、見目麗しい顔の下半分が、真っ赤に染まっている。

 ジゼルは、さすがにそれを見ていられず、柔らかい布を水に濡らして、軽く絞った。


「失礼します」


 王太子の鼻から下を、そっと押さえるように血を拭う。

 なんとかシャツに血が飛び散るのは防げたようだが、血を拭っても赤くなったままの鼻は痛々しかった。

 心配そうに様子を窺うジゼルを、その時王太子はようやく眼に止めたらしい。


「……銀色。お前がジゼルか」


「え、あ、は……はい。初めてお目もじ仕ります。ジゼル=カリエと申します」

「そうか。……確かに、どうしてこれをあの会場で見つけられなかったのか不思議だな」


 シリルと同じことを、やはり王太子も感じたのか、首を傾げながらジゼルの髪を繁々と見つめていた。

 しかし、あの煌びやかな空間で、さらに鬘や宝石で飾り立てた貴婦人達でひしめき合っていた舞踏会で、たかが髪だけで一個人を見分けられるはずもない。

 ジゼルは、シリルに説明したことを再び王太子に同じように説明した。


「あの、舞踏会でのことでしたら、広い会場の入り口付近の端におりましたので。シリル様は、殿下と一緒に、私のいました場所とは会場で一番離れた場所にいらっしゃったとお聞きしました。他の煌びやかな方々に埋もれては、喩え私のこの髪が、この国ではなかなか見られない物だとしても、お目に掛ける機会はなかったと思います」

「シリルも同じことを言っていた。しかし……なるほど」


 何かを納得したように何度も頷く王太子の視線がなにやら居心地が悪く、ジゼルは汚れた布をマリーに手渡し、立ち上がった。


「マリーさん、シリル様をお起こししますね」

「……そうですね、お願いします」


 先程、派手にぶつかった壁をするりと抜けるジゼルの姿に、王太子は目を見開いた。

 そっと手を伸ばし、そこに間違いなく壁があることを確認して、再び首を傾げた。


「……なるほど。あれだけが、特別なんだな」

「はい。彼女だけが、シリル様にこの壁を越えることを許されております」

「そうか……」


 その時、頭を下げたマリーや、すでに壁を越えていたジゼルにも気付かせることなく、王太子は一瞬、眉間に皺を寄せ、そしてすぐに表情を消した。



「シリル様」


 今日も、シリルは、仰向けで呼吸しているのが不思議に思えるほど静かに寝入っている。

 ジゼルは毎回、起床の確認のために顔をのぞき込む度に、手をかざして呼吸まで確認してしまう。

 今日も微かな呼気を確認して、思わず胸をなで下ろす。


「シリル様。起きてください。お客様がいらしてますよ」


 ぴくりとも動かない睫毛に、ジゼルは上掛けの上から軽く体を叩く。エルネストがやったような、一気に覚醒する方法はさすがに使えないので、少しずつ刺激を与えていくしかない。

 叩いても駄目なら、ゆっくり揺すり、それでも駄目なら力一杯揺するのだが、今日は叩いただけで、微かに睫毛が震えたので、そこで手を止めた。


「シリル様、おはようございます」


 上掛けを取るために、シリルの右肩付近に手を伸ばしたジゼルは、すっと延びてきたシリルの左手を見て、首を傾げた。


「シリル様?」


 次の瞬間、ジゼルの体はぐるりと回転していた。


「きゃっ!」


 あまりに一瞬のことで、巻き込まれていたジゼル自身は、いったいなにがどうなったのか判断できなかったが、壁の外にいたマリーと王太子にはよく見えた。


 シリルの左手によって、ジゼルの左腕は勢いよく引かれ、それによってバランスを崩した体は寝ているシリルの上に背中から落ち、そのまま抱きとめられ、背中から抱きつかれた状態で、くるりと上掛けに巻き込まれ、寝台の上に横になっていたのだ。

 唖然としたままその一連の動きを見ていたマリーは、はっと気が付き王太子を促した。


「殿下、大変失礼しました。隣室にお茶をご用意いたしますので、シリル様がお目覚めになるまで、あちらでお待ちくださいませ!」

「……え?」

「さあ、まいりましょう!」


 いくらなんでも、このままこの事態を客に、ましてや王太子に見せるわけにはいかない。不敬だのなんだのと言っていられなくなったマリーは、さあさあさあと王太子を急き立て、あわてて部屋を退出していった。


「シリル様!」

「……だれ」

「ジゼルですよ、起きてください!」


 シリルの顔が、ちょうど首筋に埋まっている状態で、話しかけられるとくすぐったいやら何やらで、顔を真っ赤にしながらジゼルは必死で体を捻っていた。


「……客、だれ」

「王太子殿下です。ロラン殿下がいらしています! ちょ、シリル様、どこ触ってるんですか!」

「……おなか?」

「誰もそんな事聞いてませんよ! くすぐったいからやめてください!」


 この人は、寝ぼけているが、すでに起きている。

 ジゼルはそれを悟り、とにかく腕から逃げるために体を捻った。

 しっかりと胴と肩に巻き付いた腕は、ジゼルが知る兵士達のものとは違い、ほっそりとして見えるのに、その拘束力はやはり男性のもので、どうやっても敵わなかった。

 さらに、シリルの左手は、知らないうちにジゼルの暴れる手をしっかりと握り、ますます振りほどけなくなってくる。


「起きてくださいシリル様。殿下はこのお部屋にいらしてるんですよ。壁にぶつかって鼻血出しちゃったんですよ。どうするんですか~!」


 ほとんど身動きとれなくなったジゼルは、必死に説得を試みるが、一向にシリルに変化はみられなかった。

 むしろ、ますます肩に顔を埋められ、なんだかわからないが泣きたくなってくる。


「シリル様!」

「……なんか、いい匂い」

「私が使っているのは、石鹸もお湯に入ってる香草も、シリル様と同じものですよ。同じもので洗っているんですから、同じ匂いです!」

「……」


 シリルは、髪に顔を埋めるだけで、返事をしない。

 ジゼルは、戒めを振りほどこうと暴れるが、一向に効果が無く、そしてついにぶち切れた。


「……いい加減に……起きてください!」


 唯一、拘束を免れていた頭が、勢いよく背後に襲いかかった。

 ごつん、という鈍い音が、結界の中だけで響いた。



 隣室に姿を現したシリルは、下履き姿の上に、簡単にガウンを羽織っただけだった。

 ふらりと椅子に座ったシリルを見て、王太子は首を傾げた。


「……なんで額を押さえてるんだ?」

「……そっちだって、鼻を押さえてるだろうに」

「これはお前にやられたんだぞ?」

「……勝手にぶつかったくせに、人のせいにするなよ」

「じゃあその頭は?」


 その質問に、シリルはしばらく沈黙した。


「……自業自得」


 なにやら難しい表情のままでそう告げたシリルに、王太子は肩をすくめて見せたのだった。



 シリルは、治癒術師が来るのを待たずに王太子の傷を癒すと、あっさりと自分の額の痛みも取り、さっさと身支度を終わらせると出かけていった。

 それを見送るジゼルの頭には、現在痛みもなにもない。


 ただし、猫がしっかりとしがみついている。


 目を覚ましたシリルが真っ先に行ったのは、ジゼルの頭に猫を乗せることだった。

 なぜか猫を頭に乗せていると、ぶつけた頭の痛みが綺麗に消え去ったのだ。


「……ジゼルに直接魔法はかけられないから、猫を通して治癒術を掛けた。しばらくそこに乗せておくといいよ」


 そう言われたのだが、その姿を王太子が見て、苦しそうに顔を歪めている。どうやら、笑いをこらえるのが大変なほど面白い姿になっているらしいという事がそれだけで判断できた。

 無理矢理起こした罰なのかと思ったのだが、痛みは本当に引いていくので、外すに外せない。


 両肩に足をしっかりと踏ん張り、ジゼルの頭にしがみついている猫は、機嫌がよさそうにごろごろと鳴きながら、頭の上に顎を置き、尻尾を振っている。


 ジゼルから見ることができない猫は、その時、蕩けるような至福の表情を浮かべ、満足そうにジゼルの頭にしがみついていたのだ。


 それを見て、吹き出しそうになった王太子の襟ぐりを掴んで引き摺るように、シリルは出かけていったのだった。



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