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白銀の糸 10

 ジゼルは、抱きしめているフランシーヌから、微かな震えを感じていた。

 案内してきた執事がそっと扉を閉め、その場を去る足音が消えても、フランシーヌは抱きついた姿勢のまま、動かなかった。


「……ごめんなさい」


 ようやく聞こえた小さな涙声は、その身体の震えの理由を告げていた。


「ごめんね、ジゼル……。あの後、あなたが危険なことになるなんて思わなかったの。私があの場を下がれば、騒ぎは収まると……そう思ったの……ごめん、ごめんね」

「フラン……」

「何度も……手紙を出したいって……お願いしたの。でも、あなたは、身を隠しているからと……なにも教えてもらえなくて……」


 そっと肩を押さえ、フランシーヌの顔をのぞき込む。

 彼女は、あの日の気丈な笑顔が幻だったかのように、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。


「フラン、違うの」


 慌てたジゼルは、持っていたスカーフで、フランシーヌの涙を拭う。綺麗に化粧されていたはずの顔が、涙で崩れかけていた。

 少し考えれば、わかることだった。

 フランシーヌは、足を怪我して去った。

 彼女の周囲の人々は、彼女にはあの場にいい思い出が無いとわかっている。

 改めて思い出させるような話はせずに、結論だけ説明したのかもしれない。

 だから、フランシーヌは、広間を去った後に、あの場でいったいなにがあったのか、わからないままだったのだ。


「あのね、フラン。あの場は、ちゃんとおさまったの。あなたのおかげで、貴族の興味も他に移って、他の子達はそのまま会場にいられたの。ただ、私が我慢できなかっただけ」


 すがるような視線に、ジゼルは苦笑を浮かべて、少しだけ首を傾げた。


「大切な友達が、後ろ指指されて笑われて、それが我慢できなかった。だから、王妃陛下に、それを訴えただけ。私自身、そんな危険があったんだって事を、ついこの前、聞かされたばっかりなのよ。びっくりしちゃった」

「ジゼル……」

「私が今、お世話になっているところは、フランも知ってるのよね?」


 手紙のやり取りをしてはいるが、毎回封筒には宛名だけで、宛先は書かれていたことがなかった。貴族同士のやり取りは、それぞれ家の人間が、その目的地まで届けるために、宛先などは書かれない。それならば詳しい場所は聞いていない可能性もある。

 それを案じて尋ねたのだが、フランシーヌはちゃんと知っていたようで、こくんと頷いた。


「はじめお世話になる時ね、私、王妃様に失礼なことを言ったから、その罰でつれてこられたんだと思ってたの。行儀見習いだって聞いて馬車に乗せられたから、そういうことなんだと思ってて。でも、その後、お茶の時間が決められているだけで、他は何もする必要が無くて、毎日美味しいご飯をもらって、お茶を飲んで、家だと食べることもないような甘いお菓子をいただいて……。あんまり暇だから、逆に困って、お仕事をもらったのよ」


 できるだけ明るく、おどけて言うと、フランシーヌは鼻をすすりながらも、顔を上げた。


「辛いなんて、思うこともなかった。怖い思いなんて、何一つしなかった。だから……私の方こそ、ごめんね。あなたにそんなに心配をかけてるなんて、思ってもなかったの。こんなにあなたを泣かせているなんて、思いもしなかった。……せめてあなたにだけでも、私は元気だって知らせるべきだったのに。手紙も出すって、約束してたのに。本当にごめんなさい」


 ジゼルが謝罪すると、フランシーヌはしゃくり上げつつも、首を振った。


「……だから、泣かないで、フラン。私、今日はあなたにお祝いを言いに来たのよ。ごめんなさいはこれでお互い終わりにしましょう。ね?」

「ジゼル……」

「婚約おめでとう、フラン」


 笑顔でそう告げたジゼルに、うつむいたフランシーヌはしばらく目を閉じていたが、手袋をはめた手でほんの少し目の下を拭い、顔を上げた。

 そこには、あの日よりも自然な、フランシーヌの微笑みがあった。


「……ありがとう」


 ようやく見られたフランシーヌの笑顔に、ジゼルも安堵した。

 そしてお互い、ようやく会えた友人を、抱きしめあった。



「ごめんなさい、お客様を立たせたままで。どうぞ座って」


 フランが、ようやく涙をおさめ、ジゼルを、お茶のセットが用意されたテーブルに案内する。

 そして、その時ようやくジゼルは、自分の腕にいたはずのものを思い出した。

 慌てて足元を見ると、猫は大人しくジゼルの足元で座っていた。

 どうやら、フランシーヌが抱きついてきた時に、下に逃げていたらしい。

 向けられたジゼルの視線に、どうかしたのかと猫が視線で問う。


「あら……猫?」


 ジゼルの視線に、フランシーヌも気が付いたのか、首を傾げていた。


「あ、あの。来る時に、あちらの猫がついて来ちゃって……」


 慌てて、足元にいた猫を再び抱き上げた。

 ジゼルの胸元に抱き上げられた猫を、フランシーヌがのぞき込む。


「まあ……すごく綺麗な猫ね」

「フラン、猫は大丈夫?」


 その様子で嫌ってはいない事はわかるが、一応尋ねる。その問いに、フランは笑顔で頷いた。


「うちも、ネズミ除けでずっと飼っていたの。でも、こんな綺麗な色の猫は、初めて見たわ。すごいのね。貴族の方は、飼う猫も違うのかしら」


 フランシーヌの純粋な言葉に、ジゼルはうっと詰まった。この綺麗な色は、自分の主人であるシリルの色で、魔法でどうにかされた猫らしいとは、さすがに言えない。

 答えられないジゼルは、笑ってごまかした。


「あ、ごめんなさい。お茶の用意をするわね。本当は、慣れている侍女が入れてくれた方が美味しいのだけど……二人で、気兼ねなく話がしたかったから、しばらく二人にして欲しいってお願いしてあるの」


 フランシーヌのその気遣いに、ジゼルは礼を言って、用意された椅子に座り、猫を膝に降ろした。

 猫は、特にそわそわすることもなく、大人しくそこにおさまっている。

 どうやら、馬車の中でのお願いをしっかり聞いてくれるつもりらしい。

 その聞き分けのよすぎる姿に、いまさらながらに嫌な予感がひしひしとする。

 猫の背中を撫でながら、ひとまずその事を忘れるべく、部屋の中に視線を向けた。


 そして、それと目が合った。


 やけに、存在感を主張する物が、そこにどんと置かれていたのである。


「……熊の、ぬいぐるみ?」


 ぬいぐるみ、というには、少々困惑するサイズだった。なにせ、床に置かれた状態で、ジゼルの臍のあたりまで高さがあるのだ。

 愛嬌のある表情をしているが、その大きさだけで逆に作用するのか、若干の恐怖を感じさせる。

 白で塗られた家具で揃えられた部屋に、その焦げ茶色の熊は、あまりにも存在を主張しすぎていた。


「それ、エルネスト様からいただいたの」


 頬を染めたフランシーヌの姿に、その名前をどこで聞いたのか思いだした。

 このベルトラン侯爵家の継嗣の名前である。


「今日は、別の部屋に移動させたかったのだけど、とても重いから、一人で動かせなくて。気になる?」


 すごく気になる。

 なんとなく、熊に見張られている気がする。


 そう言いたかったが、ジゼルはその言葉を呑込んだ。

 フランシーヌが婚約者にもらったという熊に、そんなけちをつけたくはなかったのだ。


「すごく……いえ、とても立派な熊ね」

「私も、そんな大きなぬいぐるみを初めて見たの。侍女達は二人がかりで動かすのだけど、エルネスト様はお一人で抱えられるのよ」

「そんなに重いの? ぬいぐるみだし、中は綿なんだからそんなに重くないはずでしょう?」

「そうなんだけど……何か、特別な物を詰めてるみたいなの」


 そこまで言われると、さすがに気になった。

 ジゼルは立ち上がると、猫を椅子に置いて、ぬいぐるみに歩み寄った。


「触ってもいい?」

「ええ、どうぞ。倒すと危ないから、気をつけてね?」


 フランシーヌの了承をもらい、熊の背後に回ったジゼルは、その胴に手をかけ、ぐっと力を入れた。

 どんなに力を入れても、僅かしか上がらない。この胴に、錘でも入れているように動かなかった。


「……動かない」

「でしょう?」

「それで、エルネスト様は、これを一人で抱えてらっしゃるの?」

「ええ。とても軽々と持ってらして、そこに置いたのよ」


 フランシーヌは、お茶を蒸らしながら、くすりと笑った。


「エルネスト様、少しその熊に似てらっしゃるの」

「……この熊に?」


 愛嬌があるのに怖くて存在感のある熊に似ている貴公子。

 残念ながら、ジゼルの想像力は、この熊に騎士の服を着せる程度にしか働かなかった。

 しばらく熊の前でその表情を見ながら唸っている間にお茶が入れられ、ジゼルは再び、思考を切り替えることになった。


 二人で、今までのことをたくさん話した。

 フランシーヌとエルネストの馴れ初めや、怪我をしてここで世話になっていた間の話。そしてジゼルが、公爵夫人の人柄や、初めのひと月、ずっと本を読んでいた話など、数ヶ月分の話題は、まったく尽きることはなかった。

 その間猫は、大変大人しく、ジゼルの膝の上でまるで話に耳を傾けるようにして大人しくしていた。

 その様子に、フランシーヌは感嘆の声を上げた。


「すごく頭のいい子ね。とても大人しいし」

「ええ……」

「あの、抱かせてもらってもいい?」


 おずおずと尋ねてきたフランシーヌに、ジゼルは一瞬押し黙った。

 ちらりと視線を向けると、猫はそのジゼルの顔を見て、静かに立ち上がり、そして床に飛び降りた。

 猫はフランシーヌへ歩み寄り、軽い動作でその膝に飛び乗ると、初めからそこが居場所だったように、くるりと丸まり、フランシーヌに撫でやすいように背中を向けた。


「まあ、本当に頭のいい子だわ。まるで人の言葉がわかるみたい」

「そ、そうね……」


 ジゼルの頭の中で、警鐘が打ち鳴らされた。

 なぜか、とても嫌な予感がする。

 やはりこの猫がなんなのか、もっとしっかりとシリルと話し合っておけばよかったと今更ながらに猛烈に反省した。

 フランシーヌの膝の上で、背中を撫でられた猫は、喉を鳴らしつつ、大人しく目を閉じている。

 こうしていると猫のようだが、どうにも違和感が拭えなくなってきていた。


 しかし、ジゼルの感じていた違和感は、意外な形で解決することになった。


 突然、部屋にノックの音が響き、フランシーヌの返事がなされるやいなや、その扉が開かれた。

 そこに立っていたのは、熊とは似ても似つかない美丈夫だった。


「……エルネスト様。今日は一日お仕事ではありませんでしたか?」

「今日はジゼル嬢が来ると聞いたので、昼で切り上げてきた。あなたと出会わせてくれた恩人なのだから、ぜひ礼をと思ってな」


 背の高さは、シリルとさほど変わらないが、威圧感はそれこそ天と地ほど違う。

 厳しい眼差しは、笑顔が想像できそうもないほど冷たく見え、紫黒の髪と紺の瞳という重い色合いは、その厳めしい表情に、なお威圧感を与えていた。

 これを、熊のぬいぐるみに似て見えると言い切るフランシーヌは、どこを見てそう言ったのだろうかと、ジゼルは不思議でならなかった。

 しいて言えば、あの熊から、愛嬌をすべて取っ払えば、この人になるのかもしれない。


 しかし、ジゼルは、この人の雰囲気に、とても覚えがあった。

 ジゼルにとって、もっとも身近な男性は、砦の兵士達。つまり、軍人である。

 この人の雰囲気は、まさに軍人のそれだったのだ。


 ジゼルは唖然としたまま、エルネストが扉を潜り、歩み寄るのを見つめていた。

 その歩みが、妙に不自然な位置でぴたりと止まる。

 エルネストの視線が一点に向かっていることに気が付いたのは、フランシーヌが穏やかな声で、「あら?」と呟いた時だった。


 猫は、フランシーヌの膝の上で、尻尾を倍に膨らませ、あきらかに驚愕の表情で固まっていた。

 エルネストは、婚約者の膝の上で、慌てて立ち上がった姿のまま硬直した猫を凝視していたのである。

 一人と一匹の間には、一触即発の緊張感があった。

 ジゼルとフランシーヌは、いったい何事なのかと、お互いに視線を向けて首を傾げたのだった。


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