白銀の糸 8
シリルは、ジゼルの涙がおさまるまで、ずっと傍にいた。
涙が止まらなかったジゼルに、胸元にあったスカーフを与えたまま、見守っていたシリルは、渡したスカーフで涙を拭ったジゼルが顔を上げた事で、ようやく安堵の表情をうかべた。
「……すみませんでした」
「いや、いいよ」
ジゼルは、手に持ったスカーフを返そうとして、それがすでに涙を吸収し、胸元に返るべきではない状態である事に気付き、再びそっと手を下げた。
「申し訳ありません。このスカーフは、きちんと洗ってお返ししますので」
「気にする事はないよ。あと、そろそろ夕食の用意をしてもらえるかな」
「はい、わかりました。……あ」
ジゼルはその時、シリルのスカーフとともに手にしていた物を思い出した。
「あの、シリル様にお尋ねしたい事があるのですが」
「ん? ……じゃあ、とりあえず夕食の時にでも聞くよ。これ以上遅くなると、ジゼルも休めなくなるだろう?」
「はい、ありがとうございます」
ジゼルは、素直に礼を言うと、手にしていたフランシーヌからの手紙を再びポケットにしまい、シリルの夕食を用意するために、この離れにある調理場に足早に向かったのだった。
離れで用意される食事は、基本的に母屋で出されるものと同じである。
ジゼルがここに住むようになって、配膳の仕事もやるようにと頼まれたのは、つい数日前の事である。
公爵家の人々が口にする物を、自分のような臨時雇用の使用人がやっていいものか、ずいぶん悩んだのだが、マリーが許可を出しているという事は、公爵夫人が許可を出したのと同じことだからと押し切られたのだ。
少し前まで、夕食の配膳は、マリーや、長年この公爵家に仕えていた侍女達の仕事だった。
起きる時間によって、食事の時間が大幅に変わるシリルの食事を、ここで寝起きできるジゼルができるようになれば、どんなに遅くなった時にも対応できる。
ジゼルは、手早く説明どおりに温めと盛りつけを行うと、シリルの部屋に夕食を乗せたワゴンを運んだ。
「それで、聞きたい事ってなにかな?」
一通り食事が終わり、ワインを飲みながらシリルが尋ねると、ジゼルは慌てて、エプロンのポケットにしまっていた手紙を取り出した。
「ええと、手紙で、会いたいと書かれていていたのですけど、貴族の方に会うのに、どうすればいいのかと……」
「……服の問題?」
「いえ、違い……ませんね。服だって、このままというわけにも……」
思わず我が身を顧みる。
確かに、公爵家の側付きのお仕着せは、作りも布も上質な物で、ジゼルが実家でよそいきにしていた服よりもよほど高級品である。そのまま貴族の前に出ても恥ずかしくない作りではあるのだが、これはあくまで使用人の服である。そのまま外出し、友人を訪ねていい服ではないだろう。
こちらに世話になる時、普段着はいくつか用意してもらっていたのだが、それはあくまで室内着であり、人を訪ねる時に身につける物ではない。
もし、フランシーヌを訪ねるなら、外出着をあつらえるなり借りるなりしなくてはいけない事に思い至り、悩みはじめたジゼルの様子に、シリルは首を傾げた。
「……服じゃなければ、何だったのかな?」
「ええと、会いたいからって、いきなりお家に尋ねるような事はできませんよね。でも、私みたいな身分のない者が、どうやったら貴族の方に会えるのかと思って」
「ああ、そういう心配だったのか。まあ、基本的には、この日に会いたいというのをあちらの家に手紙で問い合わせて、時間を取ってもらうんだけど。ベルトラン侯爵家なら、庭が繋がってるから、そこからも行けるよ」
「え?」
「庭からいってみる?」
にっこり笑って首を傾げたシリルに、ジゼルは慌てて首を振った。
「いえいえいえっ。シリル様のように、昔からあちらのお家の方々とお付き合いがあるならまだしも、私みたいな使用人が庭から突然現れたら、それは侵入者と変わりません」
勢いよく言い切り、あれ、と首を傾げる。
「でも、庭が繋がっているって、それは大丈夫なんですか。なんのために、わざわざ王宮から派遣された門番さんが居るのかわからないじゃないですか」
この屋敷にいる門番は、王宮から派遣された、特別な職務の人々である。公爵家の王位継承権を持つ人々を守るために、その人達はわざわざそこにいるのに、壁の抜け穴からひょいひょい出ていいものなのか疑問に思ったのだ。
言い辛そうなシリルに、ジゼルの視線が突き刺さる。
口よりも物を言うその視線に負けたシリルは、視線をそらせつつ白状した。
「子供の頃に、門を越えるのがめんどくさいからと、エルネストと二人揃って小さな垣根の穴を通って行き来していたら、その木が枯れて、道ができてしまって……」
「直さなかったんですか?」
「……父に見つかってお互いものすごく怒られたけど、それぞれ今の代では、父同士も仲が良いから、まあいいかと言う事になってそのままになった。お互い、次代に家督が譲られた時点で、改めてどうするかは考える事になっている」
「じゃあ、今はそのままなんですか……」
「エルネストは、普通に門を越えずにそちらを通ってくるよ。だから、ジゼルがそこを通っても怒られる事はないと思うけど」
首を傾げたシリルに、再び勢いよく首を振って、ジゼルは答えた。
「だめです。私は、この家の者ではないんですから……」
「じゃあ、やっぱり手紙で問い合わせるのが一番だね。でも、それなら急がないと、彼女の時間が空かなくなるよ」
「そうなのですか?」
「婚約披露の宴のために、今はもう、用意で時間を取られてると思うよ。開催が迫れば迫るほど、主役の花嫁は忙しくなるはずだから」
「それならなおさら、面会の申し込みなんかしたら、ご迷惑じゃないですか?」
「あちらが先に会いたいと書いてきているなら、大丈夫だと思うよ」
シリルは笑顔でそう告げると、そのままジゼルが手紙を書く為の紙を用意しはじめた。
そのまま、シリルに見守られながら、ジゼルはフランシーヌへ返事をしたためたのだった。
翌日、公爵夫人に許可をもらい、その手紙を送ると、フランシーヌからは、再びその日のうちに返事が来た。
ジゼルは、一応シリルが出かける予定のない、確実に日中は寝ていそうな日に面会の希望を出したのだが、フランシーヌからは、その日一日、時間を取るので、昼食を共にしたいという返事をもらえたのだ。
「その日は、お休みをいただいてもよろしいでしょうか」
公爵夫人にそう告げると、夫人は一も二もなく頷いた。
「あなたの警護は責任を持って行うので是非にと、私宛にも侯爵夫人から書状が届きました。安心して、行っておいでなさい」
「ありがとうございます!」
頭を下げたジゼルを、微笑ましそうに見つめる公爵夫人は、マリーに視線で何かを命じると、ジゼルに改めて言い聞かせた。
「お隣とはいえ、その門までの距離はずいぶんありますから、絶対に一人で外を出歩いてはいけませんよ。王宮から派遣されている騎士が、門から門まであなたを警護しますから、その紋章を覚えてお行きなさいね。それ以外の者に、ついて行ってはいけませんよ」
「はい」
しっかり頷いたジゼルに、侯爵夫人は満足そうな笑みを返した。
「それから、侯爵夫人からあなた宛に贈り物が届けられていますよ」
「贈り物?」
マリーが扉の外に何かを命じると、部屋に三人の侍女が、それぞれ箱を抱えて入って来た。次々にその箱が開けられ、目の前に取り出されたのは、服とそれに合せた靴やバッグ、それと帽子だった。
ジゼルの瞳に合わせたらしい薄紫の外出着は、体に合わせてみると、普通の女性達よりも若干背の高いジゼルの体にぴったりで、あきらかにジゼルの為に仕立てられたとわかる物だった。
「これ……」
「あの夜会の日、あなたのドレスを誂えたのは侯爵夫人でしたでしょう? その時に採寸した寸法で、あなたの外出着を用意してくださったようです。こちらでも用意をしていたのですが、せっかく贈っていただいたのですから、当日はこれを着てお行きなさい」
にっこりと微笑みながら告げられた言葉に、ジゼルは言葉もなかった。
こちらが考える事など、貴婦人達にはお見通しだったのだ。
「……ありがとう、ございます」
声を詰まらせたジゼルに、公爵夫人はなぜか残念そうにため息を吐いた。
「本当は、わたくしも、あなたを着飾るのを楽しみにしていましたの。でも、今回は侯爵夫人に譲ってさしあげる事にしますわ。ですが……次に出かけるお約束をした時には、わたくしが用意しますからね?」
その夫人の言葉に、ジゼルはとにかく頷くしかなかったのである。
「こんなにしていただいて、本当にありがとうございます。どうやってこのご恩をお返しすればいいのかわかりませんが……」
「まあ、そんな事、考えなくてもいいのですよ。わたくしも侯爵夫人も、お互い子供は男の子しかいませんでしたから、こういう機会でもなければ、女の子を着飾る事もできませんもの。おかげさまで、とても楽しんでいますわ」
ころころと、本当に楽しそうに笑う公爵夫人を見て、ジゼルは深く深く頭を下げたのだった。
そして当日。
ジセルは、マリーに手伝ってもらいながら、身支度を調えた。
侯爵夫人から贈られた真新しい外出着を身に纏い、帽子から靴まで一式身につけたジゼルは、以前侯爵家で教えられた行儀作法を思い出しながら、姿見で自らの姿を確認していた。
「とてもお似合いですよ」
笑顔のマリーにお墨付きをもらい、思わず笑みがこぼれる。
離れを出る前、いつものようにシリルの寝室に顔を出し、当然まだ寝ているシリルに、ぺこりと頭を下げた。
「行ってまいります」
ここを離れる時の、いつもどおりの挨拶をし、ジゼルは離れを出たのだった。