白銀の糸 7
その日、王宮から帰ってきたシリルに、ジゼルはその日の寝起きに起こったことを報告していた。
自分が木の上にいたことはふれずに、できる限り見たままを報告し、若干肩を落としながら、立ったまま考え込むシリルの横顔を見つめていた。
「……結局、飛んでいたのは、結界が理由というわけではなかったんでしょうか」
「いや、あれはあれで、頻繁に飛んでいた理由だったよ。実際、結界にはひずみが起こっていたわけだし」
「では、今日は、やはりあの猫が原因ですか」
「……あの場所には、何も残ってなかったんだよね?」
「はい」
あの、不思議な現象を見ても、ジゼルは猫の存在を信じていた。
今日も、あの場所にいたシリルを使用人達が離れに運んだ後、改めてその場に赴き、猫を探したのだ。
しかし、結局また、その存在を示すような物はなく、毛の一本も見つからなかった。
猫の上に出てきたシリルが、ジゼルの視界から猫を隠した後、幻のように消えたとしか思えない状況だった。
「……あの猫が、シリル様を呼び寄せたように思うのですが、そのような事ができる魔法はあるのですか?」
「……」
その質問に、シリルは完全に沈黙し、眉間に皺を寄せていた。
考える様子を見せ始めたシリルに、それを邪魔しないようにと口を噤んだジゼルは、少しうつむき加減で、シリルの考えが纏まるのを待っていた。
それから、早いような、長いような沈黙が続いていたのだが、ふと視線を上げると、なぜかシリルはジゼルに視線を向けていた。
「……どうかしましたか?」
「……そもそも、なんで猫かなと思って」
その、意外な言葉にジゼルは目を見張る。
「私は、あまり猫の生態には詳しくないんだ。この歳になるまで、猫が傍にいたことがないから。この屋敷では一度も猫は飼ったことがないし、周囲に飼っている人物も居なかった。魔術を習いに学院に留学している間も、見たのは使い魔の授業で見せてもらった一度きりだと思う。その私が、誰が見ても猫だと思える生き物を、元になる物も無しに夢うつつで出せるとは思えないんだ。ジゼルから見て、それは生きた猫だと確信できたんだよね。だからなおさらわからない」
「魔法使いが、使い魔がどうのこうのと話されてましたけど、それで皆さん猫を使うんじゃないんですか?」
「猫を使い魔にする人がいるのも事実だけど、私の周囲は、どちらかというと鳥を使い魔にしている人が多かったんだ。そもそも、師匠が鳥だと、その弟子も鳥になることが多い。そして私の師匠の使い魔は、梟なんだ……」
「それで周囲は鳥ばかりだったと……」
ジゼルは、完全に首を傾げているシリルを見ながら、はじめに猫を見つけた日に触れた感触を思い出していた。
間違いなく、ジゼルの手の下に、生き物の温もりがあった。その柔らかな毛皮を感じたし、しなやかな体の拍動も感じていたと思う。
ジゼルの手の下にいたのは、その時点で疑う余地もなく、猫だった。
その事を告げると、シリルは何度も何度も唸りながら、結局出した結論は、「師に相談する」だった。
「……やっぱり、その点が謎すぎて、思考が先にいかないな。今度、王宮で仕事の日に、師匠に尋ねてみることにするよ」
「わかりました」
シリルにわからないものが、ジゼルにわかるはずもない。
ジゼルにできるのは、その時起きていたことを、できるだけそのままにシリルに伝えるのみだ。
結局、猫に関しては、また後日になり、再び現れた時は、また捕獲するという事でその話は終わったのである。
「そういえば、さっきから気になっていたんだけど、その手紙どうしたの?」
突然シリルに尋ねられ、首を傾げたジゼルは、そういえばと自分のエプロンのポケットに入れてあったフランシーヌからの手紙を取り出した。
「その紋章、見た事がない。誰の紋章かと思って」
「これは、友人からの手紙なんです。その、今度、彼女が貴族の方に嫁ぐ事になりまして」
「へぇ。ジゼルの友達ということは、その子は平民だよね。……あれ、なんだか似たような話を聞いたような気がする」
「シリル様は、ベルトラン侯爵家のエルネスト様をご存じですか」
「ああ、うん、なにせ隣だし。私達は王太子殿下とも同じ年で、さらに従兄弟だからと、揃って学友として選ばれたんだ。産まれた時からだから、長い付き合いで……。あれ、じゃあ、ジゼルの友達って、もしかして子グマちゃん?」
「……子グマ……?」
その言葉が、フランシーヌを指しているのは理解したが、その愛称らしきものが子グマであることに違和感を覚える。
フランシーヌは、ジゼルと同じ十七だが、子グマと形容されるほど幼くは見えない。むしろ、ジゼルよりもしっかりとした、落ち着きのある大人の女性である。
ジゼルの怪訝な表情に気付いたのか、シリルは慌てて言い直した。
「名前は、フランシーヌだったかな。彼女、友達だったの?」
「はい……。五ヶ月ほど前の舞踏会を縁に、知り合った友人です」
「ああ、あの」
「あの」の部分が、妙に強調されていたように思ったジゼルは、ふと気が付いた。
「……もしかして、シリル様も、あの舞踏会に参加されていらしたんですか?」
考える必要もない。うっかり忘れがちだが、この人は公爵家の三男で、本人も伯の位を持つ、正統の貴族である。王妃陛下主催の舞踏会に、参加していないわけがなかった。
案の上、シリルは当然だとばかりに頷いたのである。
「エルネストがフランシーヌに一目惚れしたという舞踏会なら、確かに参加していたよ。王太子と私とエルネストは、あれには絶対に参加するように王妃陛下に言われていたから。……ジゼルも参加してたの?」
「はあ、まあ、参加というか、途中で退場……」
後半をゴニョゴニョとごまかしたジゼルに気付かなかったシリルは、首を傾げつつ、思い出したことを口に出した。
「そういえば、あれには、いつも参加しない層が招かれているとか王妃陛下も仰ってたけど、それ?」
「はい、それです」
頷いたジセルの頭に、シリルの指がかけられる。前髪を指で掬い、さらさらと流れ落ちていく銀色をじっと見つめていた。
「この銀なら、ひと目見たら気付いたと思うのに、まったく気付かなかったな……。どこにいたの?」
「ええと……ま、窓際……です」
「フランシーヌの傍?」
「はい……」
シリルが、完全に沈黙し、妙に気まずい空気が流れる。
ジゼルの視線は、その沈黙に耐えきれず、次第に下に降りていく。最終的に、シリルの足元を見つめることになったジゼルの頭上に、くっと笑いをこらえるシリルの声が降りかかった。
「もしかして、王妃陛下に噛みついた平民って、ジゼルのことなのか」
体が竦むのはさすがに押さえられなかった。一瞬で硬直したジゼルは、下げた視線の先で、シリルの体が細かく震えているのにあわせて、コートの裾が僅かに揺れているのをただ見つめていた。
「なんかわかる。すごくわかる」
くすくすと笑いはじめたシリルは、それを隠すこともしなかった。
「あの後、その人は、王妃陛下が保護して身を隠したと聞いたけど、まさかここにいるとは思ってなかった」
「公爵夫人は、私のことをシリル様に何も伝えてらっしゃらなかったのですか?」
「気に入ったから連れて来たとしか言わなかったよ。あの人ならそれもよくあることだし、不思議にも思わなかった」
シリルの、細く白い、しかし男性らしく骨張った手が、ジゼルの頭に軽く乗せられ、なぜかそのまま撫でられた。
「そうか、あれ、ジゼルだったのか。いや、おかげで殿下がすごく感謝してたよ」
「……はい?」
話がどこにどう繋がったのかわからず、思わずジゼルが顔を上げると、シリルは目を眇め、微笑みをうかべていた。
「あの舞踏会、簡単に言うと、殿下のお見合いだったんだ。だけど、あの騒ぎでそれがうやむやになって、それなのに王妃陛下はご機嫌で、咎められずにすんだって、すごく嬉しそうにしてた」
「王妃陛下は……ご機嫌?」
「ああ、民からの、支配階級に対する率直な意見が聞けたのならば、あの舞踏会は開く価値あるものだったと仰せだったよ」
「……お怒りでは、無かったのですか?」
「むしろ、逆だよ。とてもご機嫌でいらしたよ」
微笑むシリルの言葉に、体中から力が抜けた気がした。
保護された経緯は、先に公爵夫人に聞いてわかっていたが、あの日あの時、ジゼルは王妃陛下を見上げることすら恐ろしくてできなかった。その表情も伺えず、声だけでは、その感情など読み取ることなどできなかった。
ジゼルは、今ようやく、自分を守ってくれたのは王妃陛下であり、ここに来ることになったのは、罰を受けるためではなかったのだと理解できた気がした。
あの時、目の前にいた三人の貴婦人が、自分を守るために心を砕いてくれたことを実感できたのだ。
「えっ、ジゼルっ?」
大きく見開かれていたジゼルの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
その涙に大いに慌てたシリルは、どうしていいかわからずにしばらくおろおろと周囲の人影を探したが、自分しかいない事を改めて納得すると、恐る恐るジゼルの目元に手を伸ばす。
その涙を拭う仕草は、あの日の公爵夫人と同じもの。
だがその翡翠の瞳には、公爵夫人のような凛としたものではなく、ただただジゼルを案じる心だけが溢れていた。