白銀の糸 6
その日午前中は、貴族宛の書簡の書き方を学ぶことになった。
公爵夫人から、心得と文章の定型を学び、そして誰に読まれてもいいように、相手に不利になる事、そして相手の家によってそれぞれ違う禁句を入れないように注意する。
たった一枚の手紙を書くために、昼食の時間もすべて費やし、公爵夫人のこれならばという許可をもらえた時には、すでにシリルの寝起きを見張る時間だった。
「これはちゃんと届けておきますからね」
封をしたばかりの手紙を公爵夫人に預け、慌てて離れに向かった。
シリルは、出かけた時と寸分違わぬ姿でまだ寝入っており、ほっとしながらいつもの役目に就く。
今日は、午後に王宮で王太子に会う予定が入っている。
おそらくもうすぐシリルに動きがあるだろう。
そろそろこの役目にも慣れてきた。シリルが、どういう時に、どんな時間に動き始めるのかも、自然と把握できるようになった。
こちらが起こすことはなくても、シリルは起きなければいけないとわかっている時は、ちゃんと自分で目覚めるのだ。
寝起きは悪くても、自分で目覚める分、もしかしたら妹たちよりましなのかもしれないなと思いながら、ジゼルはその寝顔をいつものように眺め、自然とこぼれる笑みに気付くことなく、その時を待っていた。
あと少しでシリルが目覚める、という時間になり、ジゼルはふと、シリルの寝台の向こう側に見えるものに気が付いた。
テラスの出入り口にはめ込まれた硝子から、外にちらりと、白銀が見えた。
思わず、寝台の上を確認する。
シリルの目は、ぴくりとも動いていない。だが、外の白銀は、まるでこちらが見えているように、こちらを向いてお座りしている。
ふわりふわりと尻尾を揺らし、なぜ出てこないのかと不思議そうに首を傾げている。
シリルが、捕まえておくようにと言っていたのを思いだし、しかしもうすぐ目覚めるシリルを放置もできず、しばらく逡巡したジゼルは、マリーを呼んだ。
「マリーさん」
「……はい、どうかなさいましたか?」
マリーは、シリルが消えなくなった後も、扉の外でシリルの目覚めを待っている。寝ぼけたシリルが起き上がった後、完全に目覚めるよりも前に、身支度を始めるためだ。
それは流石に、侍女仕事に慣れたマリーではないとできない作業なので、ジゼルはシリルが起きた後は、部屋を整える作業を任されている。
つまり、今、シリルがいつ起きてもおかしくない状況で、ここを離れて良いのはジゼルなのだ。
「猫が居るんです。捕まえに行ってもいいでしょうか」
「猫といいますと、あの白銀の毛色の?」
「ええ、外にいるようなんです。シリル様のご命令がありますので、捕まえてきても良いでしょうか」
ジゼルの言葉に、マリーはしばらく考えると、頷いた。
「あの猫はあなたに懐いていましたし、その方が良いですね。お願いできますか」
「はい、行ってきます」
そしてジゼルは、そのままシリルの部屋のテラスから、外に駆けだした。
猫は、少し離れた場所からそれを見て、嫋やかに立ち上がると、くるりと背を向け、にゃーおと鳴いた。
少し離れては待ち、そしてジゼルをからかうように尻尾を揺らす。
捕まえようと腕を伸ばすとするりと避けて、駆けていく。
「もう、遊んでる場合じゃないの。良い子にしてちょうだい」
「なぁーう」
猫は、楽しそうにまるでジゼルに返事をするように一声鳴くと、身軽に駆け出す。
自由気ままに遊んでいるように見えるのだが、それでも、ジゼルを引き離そうとはしていないようで、ついていかないと止まってジゼルを呼ぶように甘い声で鳴くのだ。
「何がしたいのよ、もう」
困惑を顔に浮かべたまま、ジゼルはひたすらそれを追いかけた。
しばらく、そんな、ジゼルだけが必死の追いかけっこをしていたのだが、ようやく猫が木の根元で止まったのを見て、ほうと溜息を吐いた。
「さて、もう逃がさないわよ?」
「なーうっ」
その状況になっても、なにやら楽しそうな猫は、ジゼルの姿を見ると、そのまま背後の木に登っていった。
「あ、こらっ、危ないでしょう!」
太い枝に登って、ジゼルを見ながら猫はまた鳴いた。
「まさか、降りられない……?」
大きな丸い目を開き、猫はジゼルを凝視していた。
尻尾は緩やかに揺れているため、怯えているわけではなさそうだが、そこに丸まってしまった猫は、一向に降りてきそうになかった。
しばらくそれを唖然として見上げていたジゼルだが、覚悟を決めたように頷くと、改めて猫に視線を向けた。
「そこで良い子にしてなさいね」
そして、スカートを少したくし上げ、ベルトに固定すると、果敢にジゼルは木に登りはじめた。
「……こんな姿、ここじゃあ誰に見られても怒られちゃうじゃない、もう」
一見、ジゼルは、その外見から、それこそどこかの貴族の令嬢かと思うほどおしとやかで大人しそうに見える。
しかし、それは、大人しく立っている間だけだと、実家で世話をしている父の部下達はこぞって笑うだろう。
ジゼルの実家は、男達で溢れた砦の宿舎である。
それゆえに、幼い頃から、砦に勤めるたくさんの騎士や兵士を兄として、そして遊び相手として育ってきた。
いまは流石に男の子の遊びに付き合うようなことはないが、砦にいる兵士達は、基本的に少女の遊びには付き合ってくれず、結果としてジゼルは、男の子のやる木登りから素潜りなど、一通りのことをできるようになり、それは同年代の少年達を凌ぐほどの腕前だったのだ。
目の前の木は、枝振りもしっかりしており、たとえスカートでもジゼルにとってはそれほど登るのに苦労をしないものだった。
かつての経験を思い出し、身軽に大木に登っていき、枝に足をかけ、その身を枝の上まで引き上げると、そっと猫に手を伸ばした。
「ほら、おいで。もう逃げちゃ駄目よ?」
猫は、なぜか驚いたようにジゼルをみて目を丸くしていた。
あきらかに、驚いていた。
猫も驚くとぽかんと口を開けるのだなと、ジゼルは猫を迎えるための姿勢で、そんな余計なことを考えていた。
そして、それが油断に繋がった。
猫は、そんなジゼルの目の前で、差し出した手をするりと抜けて、ひょいと木から飛び降りたのだ。
「あぶない!」
そしてジゼルは、信じられない事を目撃することになってしまった。
空中で、猫が一度、くるりと宙返りをした。
そのとたん、その場がぐにゃりと歪み、そこからぽんと音がしそうなほど軽く、新たな白銀が現れたのだ。
眠ったままのシリルは、その歪んだ場所から吐き出されると、しばらく空中にとどまっていたが、歪みが消えた瞬間、地面にふわりと落ちていく。
その場には、すでに猫の影もなく、残っているのは、まだ眠っているはずのシリルのみ。
その一連の事態を、ジゼルは先程の猫とまったく同じ表情で、木の上から目撃したのである。
これで判明したのは、あの猫が、間違いなく寝ているシリルと何らかの繋がりがあるということだった。
そして、またシリルが寝起きに消えるようになったという、あまりありがたくない事実だった。
屋敷の方から、マリーや他の侍女達が、慌てたようにシリルを呼ぶ声がする。
ジゼルは木の上で、頭を抱えてそれを聞く事になったのである。
その日の夕方、ジゼルの元に、昼に送った手紙の返事が届けられた。
流石に送り先が隣家ということで、往復でも他に送る時からは信じられないほどに返事は早かった。
上品な蝋封は、可憐な花の紋章が押されており、彼女がすでに貴族の令嬢であることがひしひしと感じられる。
貴族となったフランシーヌ宛に送る手紙は、たとえ本人が親しい友人だと告げていても、初めての名前である限り、まず侍従達が危険がないかの確認のために開けるのだと公爵夫人からは教えられた。
だが、侍女であるジゼル宛の手紙はその限りではないのか、預かってきてくれた侍従から、直接手渡された。
蝋封もそのままに、ジゼルの手に渡された手紙には、フランシーヌの人柄を思わせる文字で、居場所のわからなかったジゼルをただひたすらに心配する言葉と、そして、会いたいという、切々とした言葉が綴られていた。