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白銀の糸 5

 今日もシリルは眠っている。


 朝の作業を終え、母屋に移動する前にシリルの寝室に顔を出したジゼルは、シリルがまだ熟睡中であることを確認しながら、昨夜のことを思い出していた。


 最後のあの瞬間、ジゼルの頭の中は、ほぼ真っ白になっていた。

 おかげで、マリーが声をかけてくるまで、うっかりシリルにされるがままに抱きしめられていたのだ。

 どういう意味でシリルがあの言葉を口にしたのかはわからないが、それでも、自分を求められたことは、正直なところ、嬉しかった。

 だが、ジゼルは、その言葉に答えようがない。

 ジゼルも、十七という、結婚の迫る年頃である。十九でぎりぎり、二十を越えたら行き遅れと言われるため、親も本腰を入れて相手を探す年頃である。

 あの舞踏会を終え、家に帰れば、相手は決まっていないが花嫁衣装を用意しておこうかという話も上がっていた。

 今は、手紙も外出も許されていない身だが、いつかそれが許され、さらに父親から、結婚が決まったと知らせが来れば、ここを辞さなければいけないのだ。

 父親は娘を行き遅れにしないために、どんなに遅くとも、十九までには相手を決めてくれることだろう。

 なにせ、ジゼルの下には、まだ二人も妹がいるのだ。上が決まってないうちから、下が嫁に行くことはあまりない。ジゼルがぐずぐずしていては、妹たちも揃って行き遅れてしまう。

 ジゼルは、そう遠くないうちに、ここを去らなければならない。

 ここにいてと求められても、それに本心から答える言葉を、ジゼルは口には出せない。

 穏やかに眠るシリルの顔を見つめ、ジゼルは微笑した。


「……おやすみなさいませ、シリル様」


 頭を下げ、できるだけ音を立てないように部屋を去ると、足早に、母屋に向かった。



「ジゼル。何か愁い事でもありましたか?」


 公爵夫人に、そう声をかけられるまで、ジゼルは自分が何度もため息を吐いていることにも気付いていなかった。


「いえ、あの、愁い事……というわけでは無いんですけど」

「あなたの元気がないと、なんだか寂しいわ。何かあるのなら、いつでも相談してくださいね」

「はい……」


 素直に返事をしてカップに口をつけるジゼルに、公爵夫人は常になく、気遣わしそうにジゼルを見つめていた。


「……そうだわ、ジゼル」


 突然、ぽんと手を叩いた公爵夫人に、ジゼルは首を傾げた。


「つい先日、ベルトラン侯爵家に、慶事があったのですよ」

「ベルトラン侯爵家に……」


 かつての舞踏会を思いだし、ジセルの表情が不意に緩む。

 あの舞踏会では、結局楽しむことはなかったが、その参加する前、ベルトラン侯爵家で同年代の少女達が揃って作法指導を受けていた時間は、ジゼルにとってなにより代え難い、楽しい思い出だった。

 娘がいない侯爵夫妻は、侯爵家を訪れた少女達を大変可愛がってくれて、はじめて貴族の生活を垣間見たのだ。

 あの夫妻が見せてくれた世界は、少女達が夢見る、絵本のお姫様の世界だった。

 その侯爵家の慶事となれば、ジゼルにとっても心の底から喜ばしい出来事だった。


「どのような事でしょうか」

「ベルトラン侯爵家の長子エルネストが、ようやく花嫁を迎えることになったのです。近日中に、婚約披露の宴が開催されるそうですよ」

「まあ……。それはきっと、ご夫妻ともお喜びですね。お二人とも、お嬢様が欲しかったと仰ってましたし」

「ええ。ベルトラン侯爵夫人も、常々、女の子を産むまでがんばればよかった。男ばかりはつまらないと仰ってましたしね。おかげで、あの方も今、大変充実した、忙しい毎日をお過ごしのようですよ」


 微笑むジゼルに、公爵夫人は目を眇めた。


「……ジゼル。そのお相手は、誰だと思いますか?」


 その質問に、ジゼルは虚を突かれたようにカップを持ち上げていた手を止めた。

 誰、と問われても、ジゼルには侯爵家と縁づくような貴族には心当たりがない。

 そもそも、知っている貴族はこのバゼーヌ公爵家とベルトラン侯爵家の一部の人物のみである。

 バゼーヌ公爵家も、ベルトラン侯爵家と同じように子供は男性が三人で、どこかに嫁ぐような令嬢はいない。

 あと心当たりと言えば、ジゼルに向かって扇を振り上げたあの令嬢くらいだが、名前もわからない相手を誰と問われるのもおかしい。

 質問は、あきらかにジゼルがよく知る人物だからこそ出されたものだろう。


「……心当たりがありません。どちらのご令嬢なのでしょうか?」

「フランシーヌ=ベルニエです」


 ジゼルは、危うく手にしたカップを落としそうになった。

 その名を忘れることなどありえない。

 そして、その名前が今出てくることがありえない。

 それは、あの舞踏会を縁にして友情を結んだ、大切な友人の名前だった。


「舞踏会の日。あなたを守り、痛みで動かせぬ足を引きずりながら、それでも笑顔で会場を立ち去ったあのフランシーヌが、侯爵家の継嗣の許嫁として、ベルトラン侯爵家に迎えられたのですよ」

「……フランが……どうして。彼女は、貴族ではないはずですが……」


 貴族の相手。しかもそれが侯爵家となれば、王族を迎えることも可能な大貴族である。当然、その家に、平民が嫁ぐことなどありえない。

 それは、貴族でなくともわかる常識である。

 しかし、それを聞いた公爵夫人は、本心を見せぬ笑みをジゼルに向け、言い放った。


「エルネストが、彼女に一目惚れをしたのですよ。身分など、やろうと思えばどうとでもなるのです。現にエルネストは、たった二週間でそれを解消する手はずをすべて整え、フランシーヌを自ら迎えに行ったのですから」


 公爵夫人は、楽しそうに口元を扇で隠して笑っている。


「彼女は、あの後、怪我の療養のために、ベルトラン侯爵家にいたのです。捻挫が思っていたよりも酷くて、完治するのにふた月もかかったのですよ。そしていよいよ帰るという日に、エルネストは彼女に求婚したのです」


 ついに、こらえきれないとばかりに笑い声がこぼれはじめた公爵夫人は、唖然としたままのジゼルを見つめていた。


「傑作ですよ。彼女はね、最初、エルネストからの求婚を、受け入れなかったのです。その身分差を説き、『私を愛人にするおつもりならば、先に正妻をお迎えになるのが正道かと存じます』と言って、あっさりと家に帰って行ったそうですよ」


 公爵夫人は、珍しいほどに、声を出して笑っていた。そんな姿を初めて見たジゼルは、もう、話に驚いているのか、公爵夫人の姿に驚いているのかわからない。

 ただただ、唖然として、相槌も入れられないままに話を聞いていた。


「そのあとのエルネストは、それこそ抜け殻のようになっていたそうです。はじめて心から愛し、求めた十も年下の女性に、自分は愛人にしかなれないので、正妻を迎えるようにと諭されて、常日頃、家族より友人よりなにより仕事が大事というあの方が、その大事な仕事も手に付かず、呆然としていたそうですからね」


 控えめで、大人しそうに見えたフランシーヌが告げたという言葉も驚くが、それだけ言われてさらに抜け殻になった人物が、再び自ら求婚に赴いたというその行動力にも驚く。

 むしろ、よくもう一度求婚に行けたものだと感心した。


「……よく、復活しましたね」

「元々頭の回転が早い方ですからね。そういう所は、王妃陛下とよく似ていらっしゃるわ」

「……王妃陛下、ですか?」


 意味がわからず呆然としているジゼルをすっかり置き去りにしながら、公爵夫人はとても楽しそうだった。


「王妃陛下は、ベルトラン侯爵家のご出身なのですよ。現侯爵は、王妃陛下の兄君です。エルネストは、王妃陛下にとっては、甥にあたるのですよ」


 ジゼルは、唖然としたまま、もう何も言えなくなった。


「身分というのは、一見確かに障害に見えますが、越えようもあります。エルネストは、まず、彼女の後見を王妃陛下にお願いし、その了承を取り付けると、そのままとある伯爵家に赴き、「王妃陛下が後見する女性」を養女にするよう、伯爵に求めたのです。その伯爵家も、やはり令嬢がいない家で、その後侯爵家に嫁ぐ予定があると聞き、一も二もなく、彼女を受け入れたのです。つまり、フランシーヌは、ただのベルニエ小隊長の娘ではなく、王妃陛下の後見を受け、伯爵家の養女として、侯爵家に嫁ぐのですよ。ですから、もう身分について、誰も口には出せません。もしそれでも身分のことで彼女を攻撃するようなことがあれば、それは王妃陛下に対しての言葉になるのですから。身分にこだわる者ならば、なおさらそれを口にできないでしょう」


 パチン、と、軽い音を立てて扇が閉じられ、その下にあった公爵夫人の薄く笑む唇が現れる。

 公爵夫人は、笑いを治め、紅茶を一口含む。

 だが、珍しいほど感情の表れた公爵夫人の笑みは、その口元から消えなかった。

 そのまま、笑みを浮かべた唇が、紅茶で潤され再び開かれた。


「身分差の問題を無しにして、すべての準備を整えた上で、エルネストはフランシーヌに改めて求婚し、ようやく結婚を了承してもらったそうです。つい先日、彼女が侯爵家に入ったと、夫人からお知らせをいただいたのです」

「……そう、ですか……」


 話の内容と公爵夫人の様子に驚くあまり、返事もどこか上の空だったジゼルは、それでもその内容が頭に入ると、その表情は一変した。


「……フランが、侯爵家にいるのですか?」

「ええ。本来なら、養女に迎えられた伯爵家で結婚を待つところなのですが、侯爵家の方々がどうしても待ちきれないからと、彼女の為に、侯爵家のひと棟を特別に用意したそうですよ」

「すごい、ですね」

「それでね、ジゼル」


 小首を傾げた公爵夫人は、先程の感情露わな笑みから、いつもどおりの微笑みに表情を変えていた。


「フランシーヌに、お手紙を書きませんか?」

「……え? 手紙を出してもよろしいのですか?」


 今まで、家にすら送るのを禁じられていたはずなのにとジゼルが問うと、公爵夫人はその表情に苦いものを含んだ笑みを浮かべた。


「今までは、あなたの所在を知らせるような行動は、身の安全を図るために禁じていたのですが、そろそろ五ヶ月になりますし、近辺なら、あなたに護衛をつける条件で、外出も許されるでしょう。ベルトラン侯爵家は、実はバゼーヌ家と隣り合わせなのです。流石に隣家に書簡を送ることくらい、お許しいただけますよ」

「身の安全、ですか?」

「ええ。あの日、あなた方に手を上げた令嬢と、その令嬢を煽った数人は、その後一ヶ月の謹慎と、今年いっぱい、ご両親を含め、王妃陛下が主催するあらゆる行事への参加を禁じる処分を受けたのです。その事を逆恨みして、あなたを捜す複数の家があったのです。ですから、あなたを我が家で預かることにしたのですよ」


 はじめて告げられた事実に、ジゼルは驚愕していた。

 自分の行動が、そこまでの事態を引き起こしていると、想像していなかったのだ。

 動揺したジゼルに、公爵夫人は気遣うように手をさしのべ、励ますように手をそっと包んだ。


「あなたの事を、フランシーヌはずっと案じていたそうです。自分があの場を去ったばかりに、あなた一人を矢面に立たせてしまったと、ずっと後悔しているのだそうです。花嫁の愁いを晴らすために是非と、侯爵夫人からも懇願されました。彼女に、手紙を出してあげてくれますか?」


 ジゼルはそれを聞き、ぎこちなくはあったが笑みを浮かべ、是非と頷いた。

 その表情を見て、公爵夫人は、ようやく安堵した表情を浮かべ、手元にあった呼び鈴を手に取り、侍従を呼び出したのだった。


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