白銀の糸 4
その場所は、自らの指の先すら見えない、真の闇に満ちていた。
背後から、廊下に飾られた燭台の明かりが届いているはずなのに、それすら遮られたように光は見えない。
シリルは、そこにジゼルを入れると、なんでもないようにそのまま扉を閉めた。
それも、ジゼルには見ることができず、音だけで判断するしかない。
「シリル様、いらっしゃるんですか?」
「もちろんだよ」
「見えません」
「少し待ってね。今のうちに調節するから」
その言葉と共に、ジゼルの左手に、手が添えられる。そのまま、持ち上げられ、キィン、と小さな澄んだ音がその闇の中で響いた。
何度も響くその音に合わせて、少しずつ腕輪が熱を帯びる。
「はい、おしまい」
音が止み、その熱が収まると、シリルが簡単にそう告げた。
あまりのあっけなさに、気が抜けるほどだった。
「今ので、終わりなんですか?」
「ああ、終わりだよ」
そっと右手で左手の腕輪を探る。そこには、もうすっかり馴染んだ、いつもどおりの金属の手触りを感じる。
「……何がどう変化したのかわかりませんが」
「両方の呪文を少し調整しただけだから、見た目も感触も変わらない」
「こんなに、何も見えないところで、調整ってできるんですか?」
首を傾げたジゼルだったが、その頬に当たる人の感触に驚き、思わず身を引いた。
「私には、見えてるから。今のジゼルの顔もよく見える」
「え……え?」
「魔法使いの目には、常に光があるんだよ。その光を見るために、皆目が変わる。陽の光は、その目には強すぎる力の塊にしか見えないから、陽の光は苦手になるんだ」
「そう、なんですか?」
ジゼルがそう呟くように告げると、突然シリルはくすくす笑った。
「ものすごく、申し訳なさそうな顔をしているけれど、別に朝起きられないのはそれが理由ではないし、夜しか生きられないというわけでもないから、大丈夫だよ。ジゼルが布団を奪っていっても、問題はないから」
今朝の強引な手法は、流石に駄目だと思っていたから、なおさら申し訳なく思っていた。その事を見透かしたようなシリルの言葉に驚き、ジゼルの顔に血が巡る。
今見えているならきっと、真っ赤になっているに違いないと思ったら案の上だった。
「すごく赤くなった」
くすくすと笑う声だけが部屋に響く。
「ずるいですよ、シリル様。こちらは何も見えないから、シリル様の笑いが止まらないそのお口を塞ぐこともできないじゃないですか」
「じゃあ、見てみるかい?」
「え?」
「見えるようにできるよ。試してみるかい?」
シリルの気軽な言葉に、ジゼルは一瞬押し黙る。
「……また何か、あとになって取り返しが付かないことになりませんか」
「ん?」
「腕輪みたいに、いざつけてみたらとれないとか……」
「ああ、それはないよ。目に一時的に、膜をつける感じかな」
「本当に、大丈夫です?」
「うん」
ジゼルの警戒心露わな様子に、またシリルは笑う。
くすくすと笑いながら、ジセルの傍に歩み寄る。
「ちょっとごめんね」
そう言うと、ジゼルの体をくるりと半回転させた。そのまま、お腹を抱きかかえられ、ジゼルはひゅっと息を飲んだ。
お腹と両手に、シリルの指先が軽く触れるように線を描く。
「目を閉じて」
自分が目を開いているのもわからない暗闇の中だが、言われたとおり素直に目を閉じる。
「……本当に、素直だな。母さんが気に入るはずだよ」
「はい?」
目に、シリルの手のひらを感じる。ほんの少し、その熱を感じたとたんに、目蓋の裏に、光を感じた。
「できたよ。目を開けてごらん」
すでに、先程の闇が信じられないほど、明るく感じる。目蓋を閉じているのに、光を感じているのだ。
恐る恐る目を開けると、先程までは確かに闇の中だったのに、そこかしこに白銀の光で覆われた糸が見えた。
「……糸?」
それに触れようと、そっと手を伸ばすと、その糸は、まるで手が起こした風に踊るように、ふわりと逃げた。
そして、手をさしのべたジゼルは、我が身の変化に驚愕した。
自分自身の体が、仄かに光って見えるのだ。それが、周囲に光をもたらしている。
「シリル様……体が光ってます」
「うん。それが、紡ぐ前の純粋な魔力。ジゼルの色は……紫」
「……それは、瞳の色では」
「普通、紡ぐ前の魔力というのは、あまり表に色として現れない。だけど、ごく稀に、その色が瞳に出る人がいる」
「私の目が、それだと仰るんですか?」
「そう」
「紫水晶、って、そんなに珍しいのですか? 母も、同じ色なんですよ?」
「……ジゼルの銀も、紫水晶も、魔除けの色なんだ」
「……え?」
「ジゼルの色は、その銀も紫水晶も、魔除けになる色だ。人が、魔除けを完全な形で揃えて持っているのが、珍しい」
「魔除け、というと、魔法の効果が得られないのですか?」
「だったら、その腕輪もいらなかったなあ。そういうものじゃなくてね。……見た方が早いか」
そう言うが早いか、シリルはジゼルの背後から手を伸ばし、先程見た白銀の糸を掌から大量に湧き出させた。
「ジゼル、腕を前に伸ばしてごらん」
背後から、しっかり抱きかかえられたまま、耳元で告げられ、一瞬そのくすぐったさに身動ぎしながらも、言われたとおりに腕を伸ばす。
やはり先程と同じように、その大量の光る糸は、ジゼルの腕を避けるように、ふわりと移動した。
「普通、その糸は、そんなふうに動く物じゃないんだ」
シリルが、ジゼルの体の横から腕を伸ばし、その糸に手を入れると、ジゼルの時のように動いたりはせず、糸は全て手をすり抜けた。
「どうして、私の時は動くんですか」
「糸がジゼルを避けているから。これが魔除けの効果。ジゼルの魔力が、糸を逃がしているんだ。だから、ジゼルは魔法が使えない。魔法を使おうにも、糸が大人しくしないだろうからね」
ジゼルは、目の前の糸を見て、そして自分の手を見つめた。
初めて見るその光を、呆然と眺めていると、シリルの指が、突然細かく動き始める。
その動きに合せたように、糸達は正しく整列し、まるで踊るように円環を描く。
以前に見た、魔術式がその糸で描かれ、そして小さく纏まっていく。
シリルが掌を上に向けた時、そこに小さな光る珠があった。
「……いまのが、魔法ですか」
「そう。これは、明かりの魔法。魔法というのは、こうやって発動しているんだ。この糸で、魔術式を織る。魔術式の複雑な線を描くためには、糸は細ければ細いほど良い。魔術師は、上級になればなるほど、この糸が細くなる。そして織り上げる魔術は、より繊細で強力になる。上質な織物は、その糸の質によって決まるだろう。魔法も、実は同じなんだ」
シリルは、まだ伸ばしたままだったジゼルの手を取り、そこに明かりの魔法をころりと移す。
シリルの糸と同じ色で瞬くその珠は、もうジゼルを避けることなく、大人しく手に収まった。
「糸が動くと、魔法は使えない。術式は、ほんの少しずれただけで、効果が出ない。だから、魔法を使う者は、ジゼルを見ると、身構える。そしてできるだけ、側に近寄らない。それが、魔除けの効果かな」
仄かな明かりの中で、そう告げたシリルは、苦笑している。
「……それはつまり、シリル様にとって、私は傍にいると都合が悪いという事でしょうか?」
恐る恐る背後を見るジゼルに、シリルは一瞬笑顔を消していた。だが、すぐに柔らかく微笑む。
「……私が小さな頃、ジゼルの色が欲しかった」
シリルは、懐かしむような、後悔しているような、複雑な笑顔で、ジゼルを見つめていた。
「以前も言ったかも知れないけど、小さい頃、私の力は暴走してばかりでね。そのせいで、一年の半分以上、寝たきりで過ごしていた。僅かな感情のぶれで、魔力が爆発的に放出されるから、その度に倒れていたんだ。魔除けの銀と紫水晶の装飾品を、小さい頃は大量につけていたけれど、魔力が暴走する度に、それらはあっという間に砕け散った。あの頃に、ジゼルが傍にいたら、そんな事にはならなかったんだろうな」
シリルの告白で、ジゼルははじめて、マリー達が必死になって消えたシリルを捜していた理由が理解できた気がした。
マリーの記憶の中では、飛んでいったシリルは、そのまま寝込むほどに弱っている。
乳母も勤めたというマリーが、魔法が暴走したシリルを心配するのは、その記憶があれば当然のことだったのだ。
シリルの手が、ジゼルの髪にそっと添えられた。部屋中を探索しやすいようにと三つ編みにまとめられている髪が、そっと持ち上がる。
「流石にそんな事態に私が傍にいても、お役にはたてないので……」
「織られていない魔力は、ジゼルにはすべて効果がないよ」
「……そうなんですか?」
「透明の壁が、ジゼルに作用しているのは、それがすでに指輪に織り込まれている魔法だから。今さっき、私が見せた明かりの魔法も、小さくて簡単な物だからできたんだよ。大きな魔法は、僅かな揺らぎで失敗するから、使えない」
それまで、ぼんやりとシリルの話を聞いていたジゼルは、シリルの言葉を改めて自分の中で整理している過程である事に気が付き、慌てて振り向こうとした。
しかし、いまだにシリルの手はジゼルのお腹に当てられたままで、体の向きは変えられなかった。
体勢を変えることを諦めたジゼルは、ひとまず顔だけをシリルの方に向けた。
「……あの、もし、お仕事の障りになるようなら、公爵夫人にちゃんと申し上げて場所を変えていただきます」
「必要ないよ」
「でも……私がいては、魔法を使うお仕事ではご迷惑になるのではないですか?」
「……ここにいて。そうすれば、私は、自分がまだ人なんだと思えるから」
「……え?」
ジゼルの三つ編みをまとめていた髪留めが、シリルの手によって取り去られた。
ジゼルの髪は、シリルの手からこぼれ落ちながら、その場に満ちる白銀の糸に溶け込む事無く、その場にふわりと広がる。
その髪に顔を埋め、シリルは、部屋の外からマリーが声をかけるまで、身動ぎしなかった。
そして、それ以上何も告げることはなかった。