白銀の糸 3
「シリル様、寝ちゃ駄目です! せっかく目が醒めたのだから、起きてください!」
勢いよく剥ぎ取った上掛けの中で、シリルはいつもとは違って、枕を抱え、足を縮めて丸まっていた。
「……どうしたんです?」
いつも、彫像のように真っ直ぐで、本当に生きているのか不安になるほど静かに寝ているシリルらしくない姿に、思わずジゼルは首を傾げた。
「いや、なんとなく、良い夢を見ていた気がするんだ」
「はい?」
「寝直せばもう一回見られる。大丈夫。うん」
「いや、だから、寝ないでください。一度起きてしまえば、寝入りに見るのはただの妄想です。それは夢じゃありません。ささ、起きましょう」
上掛けを奪おうとするシリルに、とりあえず背後にそれを隠してジゼルは対抗する。
「昼から起きてたって、いいことはないよ。魔力は安定しないし、眩しいし、仕事にならないし。それくらいならもう一回寝て、夜に起きた方がいいじゃないか」
「いや、たまにはお日様に当たりましょう。じゃなくて、お聞きしたいことがあるんです」
「お日様は、王宮で会議の時に、よりにもよって朝日を否応なく浴びてるから。……聞きたいこと?」
「はい。この……あら?」
ようやくしがみついていた枕から顔を上げたシリルに、ジゼルは猫を見せようと足元に視線を向けた。
つい先程まで、どこに行くにも付いてきていた猫は、姿を消していた。
ようやくその事に気付き、ジゼルは首を傾げた。
「あの、猫が居たんです」
「猫?」
「はい。シリル様の御髪の色と同じ毛色で、瞳の色も同じ雄猫だったんです」
ついさっきまで、自分が撫でていたその猫を探して視線を彷徨わせ、背後を見てジゼルは再び驚いた。
マリーが、空中を叩きながら、口をぱくぱくさせていたのだ。
「あら、あの、シリル様、壁が出てます」
ジゼルに言われ、シリルが起き上がる。
マリーの姿を認めて、シリルは自分の左手の指を見た。そこには、ジゼルが付けられた腕輪と、対になる指輪がはまっている。
「……調整した方がいいか?」
どうやら暴走らしいと理解したジゼルは、自分の左手をにこやかに差し出した。
「……それは調整しなくても大丈夫」
にっこりと微笑まれ、ジゼルはがっくり肩を落とした。
「もしかしたら、私の腕輪があるから、変なことになってるかも知れませんよ? 調整するというなら、両方あった方がいいのではありませんか?」
「もしそうだとしても、外さずにできるから」
あくまでジゼルの腕輪を外す気はないらしい。
意気消沈しつつも、ひとまず今の問題は、あの猫がなんだったのかを知ることだった。あれが新たな症状だとしたら、少なくともその理由は究明しなくてはいけない。
ジゼルにとっては可愛いだけで困らないような気がしないではないが、シリルの負担になっているかもしれないのだ。
「シリル様。猫の心当たり、ありませんか?」
「……私の髪と眼の色をした猫、ね。うーん」
シリルは、しばらく腕を組んで考えていたが、思いつくこともなかったようで、困惑を浮かべたまま、ジゼルに視線を向けた。
「その猫は、私が起きるまでここにいたのかな」
「はい。ずっと私が撫でてましたよ」
「起きた瞬間は?」
「いたはずです。シリル様がたてられた音に驚いて私が振り向くまで、確かに撫でていましたし。ご起床の寸前、少し警戒したような素振りはあったのですけど……。たしかに手に感触はあったと思います」
シリルはその腕を上げ、空中に人差し指で何かを描くように指を滑らせた。
「……繋がってもいない。心当たりはないなぁ」
「繋がる?」
「使い魔といって、魔力で小動物を縛り、自分の手足のように使う術はある。だけど、私は特定の使い魔を持っていないしなぁ。猫なら、大きいから、その感覚もわかるはずなんだけど」
「つい先程まで部屋に居たんですから、まだ屋内のどこかには居ると思いますけど……」
「髪と同じ色ということは、魔力が何らかの影響を与えている可能性はある……か。腕輪かなぁ」
頭を掻きながら、シリルは首を傾げてジゼルの腕輪を見つめた。
「次にその猫がいたら、捕まえておいて。目が醒めてもいたということは、幻ではないだろうから、捕まえる事もできるだろう」
「かしこまりました。……それにしても、魔法って、便利なようで不便ですね」
少なくとも、こんなに不備がある物は、安心して使えない。正直にそれを告げると、シリルは苦笑した。
「なにせ、私しか使えなかった技術だし。まだまだ、研究段階の代物だからね。自分で身につけているのも、ある意味自分の体を使った実験でもあるから」
「……そんな実験中の物を、私にも付けているんですか……?」
ジゼルの冷たい視線にたじろぎながらも、シリルはそれについて否定しなかった。
「ひとまず、今日の夜にでも調整するから、夕食後、少しだけ付き合ってくれるかな」
そのシリルからの願いに、ジゼルはにっこり微笑んだ。
「……外して持っていっていただければ」
「それはなしで」
シリルが、なにがなんでもそれを外してはくれないことはよくわかった。
「じゃあそれまで寝る」
話は終わったとばかりに、シリルは、ジゼルが気付かないうちに奪いとっていた上掛けに潜り込み、再びパタンと寝台に倒れ込む。
ジゼルが再びそれを勢いよく剥ぎ取り、シリルを転がした後、奪った上掛けと枕を手に持ってその部屋から逃走するまで、マリーは結局、壁の外で唖然としたまま眺めているしかなかった。
結局シリルはその後無事に起床した。
そして、久しぶりに昼に起きていると聞きつけた公爵夫人に呼び出され、侍従達によって連行されていった。
肩を落としながら、足を引きずるように歩いて行くシリルは、まるで売られていく子牛のようだった。
「いませんね」
「どこに行ったんでしょうね……」
シリルが母屋に向かった後、離れの各部屋を探しても、あれだけまとわりついていた猫は見つからなかった。
猫の毛一本も見つからない状況に、しっかり撫でてその感触を楽しんだジゼルまで、あれは幻だったのかと疑うことになった。
「……ただいま」
夕方になり、公爵夫人に呼ばれていたシリルが、なぜかよろよろと足元覚束なく帰って来た時、マリーとジゼルは、いままで立ちすくんでいた入り口で、二人揃って唖然としたままシリルを見つめていた。
「……どうかしたのか?」
「……どうしましょう」
マリーは、口元に手をやると、失礼しますといって猛然と母屋方面に歩いて行った。
おそらく、人の目が無くなったら、駆けだしただろう。
普段は、厳しく使用人達の行動を律する立場の侍女長だが、おそらく今は、そんな事を言っていられない。
「……ジゼル?」
「……お夕食の用意ができていません」
「え?」
「屋内にいるはずの猫が、屋根裏まで探したのに見つかりませんでした。ここにいる使用人総出で探していたんですけど……」
総出とはいえ、ここには母屋からの通いで来る侍女二人とマリー。そしてここを専任にしているジゼルだけである。
四人では、すべてを隙間までくまなく探していると、大変な時間が必要だったのだ。
二人ひと組で各部屋を探し回っていたのだが、結局全員、それにかかりきりになってしまった。
「なるほど。それで夕食が用意できなかったと……」
「おそらく、マリーさんが母屋で用意してくださると思います。しばらくお待ちいただけますか」
シリルの起きる時間は予測できない。そのため、朝食の時間も定められない。さらに、夕食の時間も母屋とはかけ離れた深夜になるため、本来ならここに調理人を一人置くべきなのだが、それは他ならぬ調理人達の言葉で実現しなかった。
深夜に夕食をとるシリルに合せると、調理人も陽が落ちて真っ暗な中、調理することになってしまう。それでは結局、公爵家の方々に召し上がっていただくような物はできませんと調理人達は訴えたのだ。それくらいなら、母屋でまとめて作り、こちらで仕上げるだけにした方が良いと、熱意のこもった説得を受け、侍従長は折れたのだ。
そのため、離れの食事は、母屋から調理した物をもらってきて、侍女達が仕上げている。
だが、その侍女達を統率しているマリーが忘れていれば、残念なことに食事は用意されないのである。
「申し訳ありません」
頭を下げたジゼルに、苦笑したシリルは構わないとその頭を上げさせた。
「じゃあ、夕食の支度ができるまで、少し時間もできたし、調節でもするか。ちょっと付き合ってくれるかな」
手招きされ、ジゼルははじめて、シリルの仕事部屋に足を踏み入れたのだった。




