船の守り手 前編
その日、日頃から賑やかな西砦の隊長宅は、勤務外だった隊員達も押しかけて一段と騒然としていた。
隊長であるレノーが、二週間ほどの王都への出張を終え、今日帰宅したのである。
この出張と同時に、王都へ職人修行に旅立った三女ソフィーナの事。
そしてなにより、つい二ヶ月ほど前、産まれたばかりのジゼルの子供の話。
西砦に勤める兵達にとって、二人は妹同然であり、レノーとティーアにとっては初孫の話であり、全員がその話を待ちわびていたのだ。
荷解きも後回しに、全員が満面の笑みで、それらの土産話を聞くために隊長宅の居間でレノーを取り囲んでいたのである。
「双子だからとは聞いていたが、小さかったぞ」
こんなの。と手で形作るそれに、その場の全員が白い目を向けた。
「……レノー。それじゃあ、猫の仔じゃないの」
額を押さえてティーアが言えば、その場の全員が頷いた。
レノーの手は、大きな体に見合う、立派な手である。ごつくて固くて大きいその手で、全力で撫でられたら頭がもげると最初に言い放ったのはソフィーナだったが、娘三人、全員揃って頷いていたのは、ジゼルが家を出るまで頻繁に繰り返された笑い話であった。
その大きな手が形作るそれは、確かに十分大きいとは思うが、誰がどう見ても、人間の赤ん坊を示すような大きさではなかった。
「父さん。つい一年前、産まれたばっかりのアルドを見たじゃないの。しっかりしてよ。アルドだって、産まれた時は小さいって言われてたじゃない」
腰に手を当てたオデットが、憤然と父とその腹に目を向けた。
レノーは、しばし自分の手を見つめ、そして視線を腹に向ける。そこには、騎士服を小さな手でしっかりと握りしめ、幸せそうに気の抜けるような寝息を立てて、カリエ家待望の長男アルドがお昼寝中であった。
ただでさえ存在感が大きい父の初めての長期不在に、アルドは混乱したらしい。
いない父を探して、泣きながら家中を這い回り、夜は夜泣きでほとんど眠らず、日頃剛毅でおおらかなティーアが、小さい体を追いかけながらもうダメだと力尽きて倒れそうになるほどに大暴れした。
アルド自身も、不安と疲労が積み重なっていたのだろう。帰ってきた父の姿を見て大喜びすると、そのまますがりつき、しばらくご機嫌で笑っていたかと思うと、突然糸が切れたように昼寝を始めたのである。
そんなわけで、いつもなら家に一歩入った瞬間脱ぎ捨てる制服を、ストールすら外せないまま、上着を脱ぐに脱げずに窮屈そうに今も身に纏っている。
動きにくい体ながら、できるだけ揺らさないように手を動かし、膝に乗せている息子の頭をそっと撫で、レノーはその手を再び形作った。
「……こんなもんか?」
「それを私に聞いてどうするの」
ティーアは苦笑しながら、夫の形作った孫の大きさに、眼を細める。
その手は一応、人の赤ん坊としておかしくない大きさになっていた。
「まあ、とにかく、小さかった。だがまあ、元気だったぞ。二人とも、泣き声が大きくてな」
上機嫌のレノーは、腹にいる息子に目を向けながら、初孫のことを嬉しそうに語った。
「片方は、産まれた時のジゼルそっくりだったぞ」
その言葉に、全員の視線は、アルドに向けられた。
アルドは、ガルダンの街の人々に、『神様の悪戯の成果』だの、『奇跡の証人』だのと言われていた。
始めにその事に気付いたのは、ソフィーナだった。
「アルドって、爪の形が私とおそろいなんだよ」
産まれて半年ほどのアルドの前で突然そんな事を言い出したソフィーナの言葉で、改めてアルドの容姿をその場の全員がじっくりと観察したのである。
髪は母の小麦色。瞳は父の茶色。普通の家庭ならば、両親の色を備えているのはよくある話である。
しかし、ここからが、奇跡の所以である。
両手足の爪の形や指の形は三女ソフィーナ。この地の特徴がよく出た、ほんの少し赤味の差した乳白色の肌色は、次女オデット。
そして……その顔は、ジゼルにそっくりなのである。
ジゼルの顔をひと目でも見た事があるならば、すぐにそれと分かるほどに、子供のころのジゼルに瓜二つなのだ。
あれほど、レノーと親子の縁を疑われたジゼルに、瓜二つ。しかも、一家全員のなにかしらの特徴を少しずつ受け継いだ容姿は、それこそあの日の奇跡を思い起こさせた。
絶対に、神様が何かしたんだと、ソフィーナは言い切った。
ティーアも、あの日、わざわざわかりやすい奇跡を見せてくれたファーライズの御業が、ここに出てもおかしくないわよねと納得したのである。
「……じゃあ、アルドが大きくなった時、その子ともそっくりになるのかしらね」
「なるだろうなあ」
中身は分からんがな。そう言って豪快に笑う父の腹で、それでも眠ったままのアルドが、ふにゃりと笑い顔になっていた。
さすがに長々と全員が狭い居間に固まっているわけにはいかない。
あとは夕食時という事で解散を命ぜられ、隊員達は荷物の片付けといつもの見回りに出発した。
隊長が出張から帰ったばかりだからといって、仕事は待ってはくれないのである。
レノーも、少なくとも、不在だった期間の報告を受け、中央からの決定を隊員に伝えるまで、今日の仕事は終わらない。
ブレーズを従えて部屋をあとにしたレノーを見送った母娘は、まだぐっすりと眠ったままのアルドを見て、どちらともなくくすくす笑う。
「ほんと、現金な子ねえ。お父さんを見た途端に泣き止むなんて。間違いなくうちの子ね」
「よその子なら、父さんの影を見た瞬間に硬直して、顔を見れば泣き出すのに、何度見ても不思議だわ」
「あら、うちの子は、レノーを怖がって泣く事は無かったのよ。ソフィもだけど、ジゼルやオデットだって、お父さんを見たら抱っこをせがんでたんだから」
楽しそうな母の言葉を聞いたオデットは、しばらく決まりが悪そうにもじもじしていたが、ふうと息を吐くと、母の腕から弟を抱き取った。
「母さん、しばらくまともに寝てないでしょう? アルドもしばらくはいい子で寝てそうだし、一緒に昼寝しておけば?」
「あら、いいわよ。寝てるならなおのこと、今のうちに洗濯物を取り込まないと」
「そんな事、私一人でも出来るわよ。夜はどうせ、宴会になるでしょ。今のうちに寝てないと、母さんも、もたないでしょ」
ほらほらと母を寝室に追い立てて、弟を母の寝台に乗せたオデットは、そのまま有無を言わせず扉を閉めた。
足取りも軽く、鼻歌を歌いながら洗濯物を取り込み、リネン置き場で片付ける。
この砦に住む兵達は、基本的に自分達の衣服は自分達で洗濯を行うが、共有部分の物に関しては、ティーアやオデットの仕事だった。
本来、隊長夫人であれば、砦の一切の切り盛りなどすることはない。夫人はあくまで隊長の妻と言うだけであり、砦の管理は国や軍が行うことである。当然、そこで働く人員を雇うのが当たり前であり、このように隊長の夫人がその管理に口を出していることの方が珍しいのである。
ただ、この砦では、少々事情が異なっていた。
代々この地の隊長は、中央からの派遣騎士だった。派遣期間の決まっている隊長達には、海の上を自在に動き回り、その行動を読み辛い海賊達の相手は少々荷が重すぎたらしく、結局この地に慣れたレノーが前線を一手に引き受けることで、ある弊害が起こるようになったのだ。
レノーは目立つ。遠目からでもひと目でそれと分かるほど目立つ。海賊達は、当然のようにレノーを目の敵にするようになったのだ。
レノーがティーアと結婚した当初、他の家庭持ちの兵達と同じように、二人は外に家を構えていた。しかし、ティーアや子供達が街にいては、それこそその場所に海賊を呼び込む餌になりかねない。
そう判断したのは、レノーが隊長を引き受ける前に派遣されてきていた隊長だった。前隊長は、ティーアが砦の管理をすることと引き替えに、砦に住み、その守護をするという契約を、レノーに対して持ちかけた。
一個人に、国から派遣されている騎士が行うものとしては、ある意味破格の申し出でもある。それだけ、レノーの腕が評価されていた証でもあった。
ティーアがここの砦に住み、そして子供達も母の仕事を手伝う。この砦ではそれが通常の風景である。レノーが隊長である限り、そして、ティーアや娘達が海賊に狙われている限り、それは変わることがない。
そして、オデットにとっても、嫁にでも行かない限り、この砦を出る事など、ありえないことだった。
「……うわ、なんすかこの豪華な推薦状。勘弁してくださいよ」
「しょうがねえだろう。あっちが勝手に書いちまったんだから」
聞き間違えるなどありえない二人の声が聞こえてきたのは、三回目の取り込みを終え、畳んだリネンを兵舎に運ぶために砦の廊下を歩いている時だった。
「宰相と将軍の連名って、なんの嫌がらせです。てことはなんですか、叙任式、もしかしてこの人らが立会人ですか」
「文句は行って直接ベルトランの親父さんに言え。他のに一筆頼んでる最中に、顔出して口出して紙を勝手に持ってって、気が付いたらそうなってたんだからよ。そもそもなんでいっつも、軍舎の宴会に宰相までしれっと混じってんだよ……。その場でさらさらっと書かれちまって、止める間もなかったわ」
「どうせその場の全員がべろっべろに酔っ払ってる時に頼んでたんでしょうが。うわぁ。どうすんだよこれ……」
オデットは、その場に足が縫い止められたように、動くことができなかった。
父とブレーズの会話は、オデットの耳に、一言一言が信じられないほどはっきりと聞こえていた。
――ブレーズの、騎士叙任。
ブレーズは今、この砦の副隊長だ。しかし、身分で言えば、彼はレノーの従者である。
騎士となる者は、騎士の傍で数年の従者の経験が必要とされている。それで言えば、ブレーズはもう、十年近くその経験を積んでいた。
いつか、騎士になるのだろうとは思っていた。
しかし、いざその時が来てみれば、覚悟をしていたはずのオデットは、想像以上の衝撃を受けている。
ずっとここにいると思っていた。ずっと父の傍にブレーズは居るのだと思っていた。
この砦には、騎士見習いの前段階として、従軍訓練を受けるため少年兵達も訪れる。彼らは、数年の経験の後、騎士となるために王都へ帰還する。
その後、騎士達は、王都で任に当たることになる。
ここはあくまで兵士の駐屯地であり、騎士が派遣される場所ではない。たとえ派遣されたとしても、監査などの役割で、常時騎士が駐屯するような場所ではないのだ。
オデットの前から、ブレーズがいなくなる日が、来てしまった。
そんな突然の事態は、今まで心の中にあった、オデットの確固たる居場所を、あっさりと消してしまっていた。
混乱と、なにより心の痛みによって、オデットの中から急速に感情が遠ざかっていた。