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これからの日常 3

 その硬直が解けたのは、エルネストの方が先だった。

 エルネストは、すぐ傍に立つ妻に、目でその真偽を問いかけた。


「私もついさきほど、聞いたばかりです」


 フランシーヌは、微笑みながらそう返し、未だ硬直が解けないシリルに視線を向けた。

 あまりに動かないシリルに、不安そうにジゼルは手を伸ばす。

 それが触れたか触れないかの時、シリルはようやく息を吹き返したように、その手を動かした。

 そっと、壊れ物にでも触れるように、シリルはジゼルの、まだ薄い腹に手を伸ばしていた。


「……まだ、お腹は大きくなりませんよ」


 ジゼルが苦笑してそう言うと、シリルはその手をぴたりと止め、そして呆然とした様子のままジゼルの顔を見たのである。


「……医師に診せたわけではありません。ノルが、そう言っています。ただ、兆候は少し前からありましたから……」


 シリルは、一言も話さなかった。

 しばらくじっと、ジゼルの体を見つめたあと、突然、背中と膝裏に腕を挿し入れ、ひょいと抱き上げた。

 突然の事で、今度はジゼルが驚きで硬直した。


「おい、シリル!」


 長年の付き合いから、嫌な予感に襲われたエルネストは、とっさにシリルを制止しようとしたが、その声はまったく届かなかったらしい。

 シリルは、ふわりと浮き上がると、音もなく開いた窓から、ジゼルを抱き上げたまま、飛び出したのである。

 あっという間の出来事で、フランシーヌは呆然と見送り、そしてエルネストは、右手でせっかく整えてある髪をくしゃりと掴むと、はあ、と大きくため息を吐いた。


「あの……」


 突然、扉からかけられた声に、二人の肩が跳ね上がる。

 そこには、会場入り口でジゼルが声をかけた女官が申し訳なさそうに立っており、その場にいた二人に静かに礼をした後、王族の入場が始まったことを知らせたのである。


「フラン。バゼーヌ公爵夫妻に知らせてくれ」

「何をでしょう?」

「……シリルとジゼルが、挨拶前に王宮を出たことをだ」

「もう一つの事はよろしいのですか?」

「それは今、ここで言うべき事ではないだろう。理由を問われたら、ジゼルの体調不良で、シリルが動転して飛び出したと言っておけばいい。……嘘ではないしな」


 エルネストは、肩をすくめてそう言うと、自らも身を翻した。


「ジークはどうなさるのですか?」

「……公爵家のお二人よりも、めんどくさい方々の所に行く」

「めんどくさい、ですか」

「王家の方々にも説明しなければならないだろう。王妃陛下の元へ知らせに行ってくる」


 肩をすくめたエルネストに、フランシーヌは頷いて見せると、エルネストが先程乱した髪を背伸びして少し整え、二人並んでその小部屋を後にしたのだった。



「シグルド、はい、あーんして」


 ソフィーナは、一口大に切り分けたリンゴを手にしていた。

 シグルドの食事やおやつは、時間になると母屋から侍女達が運んできてくれるので、皿のまま置いておけば食べるからとジゼルには言われていた。

 しかし、動物が人の手から食べ物を口に運ぶのは、互いの信頼の証である。ソフィーナはどうしても、シグルドに手ずから食べさせてみたかったのである。

 最初に手のひらに載せて差し出してみたところ、シグルドは嬉しそうにそこからリンゴを上手に食べた。

 気をよくして、今度は指で摘んだものを、直接シグルドの口に差し出したのである。

 あーんと言われ、ぱかっと口を開けたシグルドに、ソフィーナは食べやすいように指を口に挿し入れる。 

 どうやら、シグルドもソフィーナに傷をつけないように気をつけているらしく、ソフィーナに歯を当てないように、シグルドは上手に前歯でかじり取ったのである。

 指先をぺろりと舐められ、ソフィーナは大喜びで、シグルドをなでまわした。


「上手にできたね。じゃあ、もう一個」


 褒められて嬉しいのか、ぱたぱた尻尾を振りながら、シグルドは大人しくソフィーナがリンゴを差し出すのを待ち、その指先を凝視していた。


「はい、あーん!」


 再び差し出されたリンゴに口を開いたその瞬間、シグルドは何かに気付いたようにぴたりと動きを止め、口を閉じた。


「あれ、どうしたの?」


 シグルドが、玄関扉に視線を向けたことを訝しみ、ソフィーナもそちらに目を向けた。

 大変馴染みのある衝突音と共に、扉が内に向かって吹っ飛ぶ。それを慌ててシグルドを腕に抱きかかえながら見ていたソフィーナは、その衝撃がおさまった時、そこに立っていた人物を見て、目を剥いた。


「シリルさん……と、お姉ちゃん?」


 扉を蹴り開けたらしいシリルの腕に、しっかりと抱き上げられていた姉の姿に、ソフィーナは首を傾げた。


「夜まで帰れないって言ってたのに、どうしたの?」

「え、ええと……」


 困ったように引き攣った笑みを浮かべるジゼルは、ちらりと自分を抱きかかえたままのシリルに視線を向けた。

 しかし、シリルは、それを意に介せずにすたすたと一直線に奥に足を向けた。

 玄関扉は吹っ飛ぶことになったが、寝室の扉はシリルが近付くと音もなく開き、部屋の主達を静かに迎え入れた。

 シリルは、腕に抱えたままだったジゼルを寝台に降ろすと、自分はその背後に回り、恐る恐るといった様子で、後ろからジゼルの腹の上に両手をかざしたのである。

 姿を見ているだけならば、背後から抱きしめているように見える。

 しかし、中に抱え込まれたジゼルは、シリルの腕がとても慎重に自分に触れないようにしていることに気が付いた。


「シリル様、あの……」


 意図を尋ねたくて口を開いたジゼルは、シリルがぼそりと呟いた言葉でぴたりとそれを止めた。 


「……わからない」


 今、どんな表情で、シリルがそれを呟いたのかはわからない。しかし、その声は、不安と戸惑いを感じる声で、ジゼルは唖然としていたのである。

 しかし、そんなシリルに、予想外の場所から答えが与えられたのだった。


「当たり前だよ。それが普通だよ」


 寝室の入り口に、シグルドを抱いて立っていたソフィーナは、呆然としていたシリルに、にっこりと陰りのない笑顔を見せていた。

 ソフィーナの言葉に、ゆるゆると頭を上げたシリルは、どこかぼんやりと、ソフィーナの言葉を繰り返す。


「……普通」

「そうだよ。わからないのが普通なの。お父さんに子供がいるってわかるのは、お母さんのお腹が膨らんできた時だよ。それまでは、お医者さんかお母さんに言われるか、よっぽど悪阻がひどいお母さんじゃないとわかんないものだって、うちの母さんが言ってたよ。うちの父さんも、母さんが神様の前で言うまで気付いてなかったって、後で言ってた」


 ぼんやりと、普通という言葉を繰り返すシリルに、ソフィーナは笑顔で言い切ったのである。


「大丈夫だよ。お腹が大きくなってくれば、どんなに信じられなくてもわかるようになる。シリルさんに見えなくても、ちゃんとお腹で赤ちゃんは育つよ。女の人の体は、そうできてるから」


 その時のシリルの顔は、ジゼルにはわからなかった。

 おそらく、ソフィーナにも見えていなかっただろう。

 シリルは、ジゼルの腹に当てていた手を外し、それをジゼルの肩に回すと、ぎゅっと抱きしめながら、肩に顔を埋めていたのである。


「そうか……これが……普通、なんだ……」


 その、微かに震える声は、あまりに小さかった。


「……ありがとう……ジゼル」


 シリルの顔が埋められた肩口が、次第にしっとりと湿気を帯び、冷たくなっていくのを、ジゼルは抱きしめられた腕の温もりとの対比ではっきりと感じながら、それでも、されるがままに腕に居続けたのだった。



 ――月が満ちるに従って、ジゼルのお腹は大きくなった。


 悪意ある噂が全くないという事はなかったが、それでも、バゼーヌ公爵家とベルトラン侯爵家、そしてなにより王宮に滞在していた聖神官により、不貞がありえないことを証明され、それはすぐに消えることになった。

 大きなお腹を抱えて王太子婚礼の儀に出席することになったジゼルとフランシーヌを見た王妃は、にっこり微笑みながら、これで次の世代も安泰ですねと、二人に祝いの言葉と共に祝福を贈ったのである。


 そして月満ちて、先に産気づいたのは、ジゼルだった。

 しかし、そのジゼルの見舞いにきていたフランシーヌが、なんとその場で陣痛を訴え、大慌てで家に連れ戻されることとなった。


 両家でほぼ同時に出産が始まり、慌ただしくあの抜け穴から人が行き来する中、慌ただしい客人が、産屋のある離れの扉を叩いたのである。


「どちらが産まれた!」


 赤金の髪を振り乱したロラン王太子が、飛び込んでくるやいなやそう叫ぶ。

 玄関に、臨時に設えられたらしい応接セットには、難しい表情をした男性陣が、その慌ただしい登場に眉根を寄せた。

 その物々しい顔ぶれに、王太子は、思わず息を飲み後ずさる。

 バゼーヌ公爵と、第三聖神官、そしてなぜか、自分の孫も産まれるというのにどんと居座るベルトラン侯爵。

 その面々が、一人を覗いて、射殺さんばかりの視線を向けてきたのである。

 これで逃げ腰にならないのなら、おそらく国軍のあらゆる面々にその度胸を賞賛されるだろう。


「まだですよ」


 お茶を含みながら、他の人物とは違い、笑顔で王太子を出迎えた第三聖神官は、小さく肩をすくめ、入ってきたばかりの王太子に、状況を説明した。


「先程、一人目は産声が聞こえましたが、性別はまだ知らされていません」

「……一人目?」

「おや、ご存じありませんでしたか。こちらは双子なのですよ」


 にっこり微笑んだままだが、この聖神官はいつでも基本的に笑っている。飄々として、とらえどころのないこの聖神官を苦手としている王太子は、その笑顔を警戒しながら、この場にもっともいなければならない人物を目で探す。


「……どうしてシリルがいないんですか。そしてシリルがいないのに、どうして侯爵がこちらに?」


 その問いに、侯爵は難しい表情で、足を組み直した。


「うちも始まってしまったのですよ。嫁が、どうしてもこちらが気になる、これでは安心して産めないと泣きながら訴えるので、妻にこちらを任されたのです」


 どうやら侯爵は、あちらの産屋を追い出されてきたらしい。

 父親であるエルネストは、当然あちらを離れられない。そしてお産に立ち会う侯爵夫人も当然あちらで待機している。そしてエルネストの弟二人は騎士なので、当然のように一人はバゼーヌの門で、そしてもう一人は王宮で勤めに励んでいるのである。

 現在、王宮近衛隊の隊長二人が、同時に妻の出産のため臨時休暇中なので、他の騎士達は厳戒態勢を敷き、職務に挑んでいるのである。

 ある意味緊急事態なのだが、近衛隊の全員が、休みの間はなんとしてもここは自分達が守ると、力強く留守を請け負ってくれたのである。


「シリルは、使い魔達が落ち着かないため、外に出ました」


 公爵が、首を小さく振って王太子に告げるには、どうやら使い魔達の耳がよすぎたため、ジゼルがいきむ声が丸聞こえになっているらしい。

 それに怯え、鳴き始めた二匹を宥めるために、外に出たらしい。


 王太子は、この場で重々しい空気の中待つ気になれず、シリルの姿を探して庭に出た。

 その姿は、とてもあっさりと見つかった。

 庭の噴水の傍で、今はほぼ大人の狼の大きさに育っているシグルドを腕にしっかりと抱き、頭にリスを、膝にノルを乗せ、背を丸めて座っていた。


「おい?」


 声をかけてみると、シリルはのろのろと顔を上げる。

 それと同時に、怯えて耳をぺたりと倒している三匹も、王太子に視線を向けた。

 八つの目に射すくめられ、ここでも後ずさる羽目になった王太子は、顔をひきつらせながらもその傍に座り込む。   

 一人と三匹は、たまにビクンと震えながら、傍に座る王太子の行動を逐一視線で追っている。

 その、あまりにもそっくりな様子に、ロランはこんな時なのに、思わず吹き出した。


「そんなに怯えなくても大丈夫だろう。双子だとは知らなかったが、一人は産まれたと聞いたぞ。性別はまだ中の方々にも知らされてなかったようだが……」

「……男だよ。ここにいても、シグルドとノルは、屋内の音を拾うんだ」

「おお、そうか! めでたいな」


 軽く肩を叩くと、シリルはがっくりと肩を落とし、ため息を吐いた。


「なんなんだいったい。なんでそんなに暗い表情なんだ」

「……ジゼル、苦しそうだし……。それに、お腹にいる子は、どちらかはわからないけど、私と同じくらいの魔力を持ってるらしいから」

「……なんだと!?」

「聖神官殿が見た限り、そうだろうって。ジゼル自身の、魔除けの力が強すぎて、聖神官殿もよく見えないらしくて、どちらかはわからないってことだったけど……」

「うちにくれ!」


 身を乗り出したロランの頭を、シリルは即座に遠慮無く叩き落とした。


「ちょ、おま……一応俺は、お前の主君……」

「ベルトラン侯爵も、同じことを言った。今産まれようとしてるうちの孫と性別が違うなら、うちにくれって」

「なんだと。それが魔力持ちなら、王家を先にしてもらうぞ」

「お前の所は、まだ影も形もないだろう」

「いや、影と形はさっきわかったところだ。どちらかは産まれるはずだ。だからうちにくれ」


 突然のその告白に、シリルは唖然としたまま、呟いた。


「おめでとう?」

「……もっと喜べ。ようやくお前の耳から、それを外す目処がたったんだぞ」


 そう言われて、シリルは自分の耳元に手をやった。

 そこでは、ずっと昔、自らが覚悟を決めて作り出した、結界に繋がる耳飾りが揺れていた。


「……そうか……うん」


 ほんの僅かだが、微笑みを見せたシリルに、ロランも笑顔を見せた。


「だから、お前の魔力持ちの子はうちにくれ」

「やだ」


 穏やかな笑みで、きっぱり言い切ったシリルの耳に、先に聞こえていた産声に重なるように、小さな産声が聞こえてきた。


「うにゃう」

「わうん」


 二匹は、違う鳴き声で、同じ言葉をシリルに伝える。


『女の子』


 シリルはそれを聞いて、ただ穏やかに、微笑んだ。



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