これからの日常 2
この半年、シリルはずっと慌ただしいままだった。
ゆっくり出来たのは、それこそジゼルの実家に行っていたあの一週間と、こちらに帰ってきた翌々日から、無理矢理エルネストが作り出してくれた三日間の休暇の間だけだった。
そのあとは、盗賊討伐に駆り出され、その後始末まで終われば、今度は王太子の結婚に伴う行事にひたすらかかり切りになっていたのである。
ジゼルの変化に、はじめに気が付いたのはノルだった。
『匂いが変わったの』と、彼女は小さく首を傾げてジゼルに告げた。
匂いの変化なら、狼であるシグルドはもっと敏感にわかるけれど、シグルドはまだ産まれてそれほど経っておらず、その匂いを嗅いだことがないから知らないのだとも教えてくれた。
そしてリスは、生き物ではないからわからない。
リスは、外から聞く音と目で見た情報しか理解しないのである。生きるために最低限の触覚と嗅覚はあるようだが、それは実は、猫ほど敏感なものではないらしい。
ジゼルはそれをノルに知らされ、密かに胸をなで下ろした。
ジゼルは、それを教えてくれたノルに、シリルには伝わってないことを確認した上で、口止めをした。
ノルはしばらく悩んでいたが、最終的にこくりと頷いた。
彼女は、リスほど人の感情について詳しいわけではない。それでも、ジゼルの何かを感じたのだろう。沈黙していることを約束したのである。
そしていよいよ、王太子の婚約の儀当日となった。
王太子ロランの婚約の儀と、その後の祝宴は、フランシーヌとジゼルが初めて体験したあの宴から、ちょうど一年目に当たる日に執り行われていた。
あの日、貴族の令嬢によって会場から追い出されたフランシーヌは、侯爵家嫡子エルネストの妻として。そして、王妃陛下に直接その苦況を訴えたジゼルは、王宮魔術師シリルの妻として、再び会場であるこの王宮の大広間に立っている。
ここには、彼女たちを平民出身であることを理由に蔑む者は、もう一人もいない。
二人は今日、王太子の婚約者ソレーヌの親しい友として、夫とは別の、特別にソレーヌが自ら用意した招待状によって招かれている。
王妃陛下の後ろ盾を得て、さらに二人共に、王太子の信頼する側近を夫に持つとあっては、高位貴族にも表立って二人をあざける者などはいなかった。
ソレーヌには、共に学ぶ者がいた方がよいという理由から、バゼーヌ家でジゼルが机を並べて共に学ぶことになり、さらにはこれも勉強だからと、やれ茶会だ宴だと公爵夫人が連れ歩き、気が付いたらジゼルにも、このような華やかな場で、挨拶をしなければならない相手というものが増えていた。
煌びやかな会場には、無数の明かりが灯され、それが魔法技師でもあるシリル=ラムゼンの作であることを知らない者はこの場に一人もいない。
その妻が、この国では他にない銀と紫水晶の色を持つ事も知れ渡っている。
見知らぬ人々にも挨拶され、ご夫君によろしくという言葉ににこやかに挨拶を返しながら人垣をすり抜け、あの日にも立っていた会場の隅に足を運ぶ。
そこには、思いがけない先客がおり、ジゼルはにこりと微笑んだ。
「フラン、ここにいたの?」
「ジゼル、おつかれさま。ご挨拶はもう終わったの?」
あの日と同じ場所で、やはり凛とした立ち姿で飲み物を手にしていたフランシーヌは、ジゼルの姿を見て、嬉しそうに微笑む。
「一通りは。エルネスト様は、一緒じゃなかったの?」
「ええ。エルネスト様は、一応王宮警備の責任者だから。会場には後から入るからと、私をここまで送ってきてくださってから、詰め所に行かれたの」
「あら、そうだったの? でも、シリル様も、今日は王太子殿下の宴だからって、ここ二週間ほどまったく帰ってこられなかったんだけど……」
フランシーヌも、シリルが王太子の近衛隊長であることは知っている。
ジゼルの不思議そうな視線と、言いたいことを察したフランシーヌは、苦笑して肩をすくめた。
「エルネスト様は、立派な軍人なの。立派すぎる方だから、逆にこのような華やかな席は、苦手なのよ。本当は、私も一緒に入場を遅らせようとしていたみたいなのだけど、お義母様の一喝で、妥協してくださったの」
「……たしかに、私が知ってる軍人は、みんな華やかな場所がとても苦手だわ」
エルネストが、ぎりぎりまで会場入りを遅らせた理由を知り、ジゼルも苦笑した。
ジゼルが思い描いた軍人が誰なのかを悟ったフランシーヌは、そう言えばと話を変えた。
「妹さんが遊びにきているって聞いたのだけど、ご実家のお母様、ご出産は終えられたの?」
「ええ。弟らしいの。父さんがすごい喜びようだったって。今度は、黒でも金でも銀でもなかった。母さんと同じ、小麦色の髪に、父さんと同じ茶色の瞳だったそうなの」
ジゼルがそう告げると、フランシーヌは我が事のように喜びを露わにした。
「まあ! おめでとう、ジゼル。初めての男の子なら、お父様喜ばれたでしょうね。跡取りになるのかしら」
「ありがとう。すごい喜びようだったそうよ。でも跡取りは、妹の婚約者がいるから、母さんは好きな事をやればいいと思っているみたい」
「あら、そうなの」
「父さんの子だから兵士として強くなれるというわけでもないから、ですって」
妙に現実的な母の手紙に、ジゼルは苦笑するしかなかった。
「でも、それを期待する人はきっと沢山いるわよ。ベルトランのお義父様とか、オードランのお義父様とか、東砦の父とか……」
「……今から、弟の将来が心配になりそうな、錚々たる顔ぶれね」
全員が全員、名の知られた立派な軍人達である。まだ見ぬ弟が、その期待に押しつぶされないような、精神的な強さを持っていることを心から願った。
二人和やかに会話していても、周囲からはなんの敵意も向けられない。
騒々しさはあるし、もちろん敵意はなくとも、家同士の付き合いから、それほど好意的な関係ではない貴族もこの場にはいる。
しかし、あの日感じた居心地の悪さは、一切その場にはなかったのである。
一年の違いは、二人に大きな変化をもたらしたことを、実感せざるを得なかった。それはフランシーヌもだったらしい。
「……なんだか、たった一年なのに、もう何年も前の事だったみたいなの」
フランシーヌは、あの日出ていった庭に目を向けながら、しみじみと呟いた。
「一年前に、この庭で初めて出会った、その名前も顔も、ここでどんなお役目にあるのかも知らなかったエルネスト様が、今は私の夫なのが、未だに信じられない感じがするの」
「それを言うなら、私は出会いもしてないわ。会場の端と端に別れていた人が夫なのよ。もっと信じられないわ」
一年前、その場所で立っているだけでやっとだった二人は、笑いながらそんな会話を出来るまでになっていた。
「……フラン、もしかして、体調悪い?」
しばらくその場所でフランシーヌと二人で会話をしていて、ジゼルはふと気が付いた。
フランシーヌは飲み物を手にしているが、それにほとんど口をつけていなかった。
よくよく見ると、その飲み物も、ほんの僅かに果汁で香り付けされただけの水であり、この場では出ているはずのない物である。
それに、ドレスにも目に見える違いがあった。
フランシーヌは、コルセットを締めていなかったのである。
締める必要のない形のドレスではあるが、現在の主流のデザインではない。彼女の義母であるベルトラン侯爵夫人が、それを着るのを許しているのは、少し不思議に思えたのだ。
「無理してない? よく見たら、顔色もよくないわ」
そのジゼルの質問に、フランシーヌは一瞬目を見開き、そしてほんの僅かに顔を朱に染めた。
扇で口元を隠し、恥ずかしそうに俯いたフランシーヌは、彼女にしては珍しいほどに小さな声で、大丈夫と返した。
「……病気ではないの」
そのフランシーヌの様子に、ジゼルは友人の身に起きた変化を察したのである。
「……子供が?」
「ええ。今日も、王家の方々にご挨拶が終わったら、すぐにお暇をするつもりだったの」
ジゼルは、目の前で微笑むフランシーヌの前で、驚きの表情のまま固まっていた。
その姿を見つめていたフランシーヌは、あら、と呟いた。
フランシーヌは、ジゼルに、己と同じ変化を見いだしたのだ。
「ジゼル、もしかして、あなたも……?」
フランシーヌは、喜びをその顔に浮かべたが、その瞬間、ジゼルはフランシーヌの腕をひき、出入り口近くに立つ女官に声をかけた。
「申し訳ありません。二人とも体調が悪く、控えの小部屋で少し休ませていただきたいのです。王族の方々のご入場が始まったら、声をかけてくださいませんか」
女官は、その二人の女性のことをよく知っていた。あっさりと了承し、近くの扉を指し示した。
「わかりました。どうぞ、あちらの小部屋でお休みください。あと半時ほどは、お時間がございますので」
「ありがとうございます」
簡単に礼を告げ、ジゼルはフランシーヌと共に、その小部屋に滑り込んだ。
「……ジゼル、どうしたの?」
「あの会場だと、シリル様に伝わるかもしれないと思って……」
天井にいくつも取りつけられた明かりは、以前フランシーヌの婚約披露の時も見たものだった。
あの道具は、ジゼルがいない場合も、人の動きをつぶさにシリルに伝えていた。
そして、音は届けはしないが、記録はしてあると聞いている。
ジゼルの、焦燥に駆られている様子に、フランシーヌは違和感を感じていた。
「もしかして、シリル様にはまだ内緒にしてあるの? 二週間ご帰宅がなくても、あなたは使い魔経由でシリル様に話を伝えられるわよね?」
そもそも、その話を聞けば、シリルは必ず喜ぶし、うっかりすると仕事をほったらかして家に文字通り飛んで帰るだろう。
フランシーヌは、ジゼルがそれを心配したのかと思ったが、それにしてはその表情が気になった。
「……何か、心配事があるの?」
「……かったの」
「え?」
「こんな、すぐにできると、思ってなかった。覚悟、出来てなかったの」
ジゼルは、下唇を噛みしめ、今にも泣きそうな表情だった。
「この子は、魔術師の子供なの。二千人に、二人しかできないような、魔術師の子供。普通には、出来ないと言われているのよ? そんな人の、子供なの」
フランシーヌは、不安で揺れるジゼルの瞳を見つめ、ジゼルが何に怯えているのかを察した。
「……この子も、父親を疑われることになるの」
ジゼルの言葉に、フランシーヌは息を飲んだ。
「しかも、出来た時期を考えてみたら……ちょうど、シリル様が盗賊の討伐で、あまり帰ってこなかった時期なの」
我が子にも自分と同じ思いをさせることになる。それを、ジゼルは畏れていた。
自分は、その身の潔白を知っている。しかし、外から見れば、限りなく疑わしい。まさに、母と同じだった。
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙もそのままに、ジゼルはしゃくり上げながら、ようやく心の内に溜っていた不安を吐き出していた。
「たとえシリル様に似ている子ができたとしても、疑われるかもしれない。妹だって、親戚に似てたのよ。だけど疑われたの。親戚の伯父さんの子だって、言われたの」
「ジゼル、落ち着いて……」
「どうしよう、フラン。私は、母さんみたいに、強くいられる自信がないの……」
顔を手で覆い、泣き出したジゼルに、フランシーヌはどう言えばいいのか、わからなかった。
ひとまず、立ったまま話すのはお互いよくないと、ジゼルを椅子に導き、座らせた。
そして、覚悟を決めたように一つ頷くと、フランシーヌはジゼルの肩をしっかりと抱きしめたのである。
「ジゼル、私はあなたのご家族を、お父様しか知らない。だから、お母様のことは、何も言えないわ。だけどシリル様のことは、実際お会いしているし、エルネスト様やお義父様お義母様からのお話も聞いているから、知っている。だから、言うわね。……いつ、シリル様が、あなたから目を離したというの?」
「……え?」
「あなたの傍には、常にあの人の使い魔がいる。その目を、どうやって出し抜けるの? この世にそんな相手がいるなら、それこそ私は目の前に連れて来てほしい」
顔を覆っていた手を外し、涙で汚れた顔を上げたジゼルは、目の前の、真剣な表情のフランシーヌを、ぽかんと見つめていた。
「あなたが不貞を仕掛けたければ、外ではあなたを警護しているバゼーヌの警護騎士の目を出し抜かなくてはいけない。それがなくても、バゼーヌ家の中にいる人については、すべて警護騎士が把握している。その為にあの人達はあそこにいるのだから、不審な人物を招けばすぐにわかるし、シリル様にも伝わるはずよ。しかも、その警護騎士の目をかいくぐったとしても、あれだけあなたに執着しているシリル様から目を奪い、さらにその事を気付かせないように、あなたは不貞を働かなくてはならない。実際問題、どうやればそんな事が可能だというの?」
「フラン……」
「あの家にいる使用人達は、警護騎士達も含め、みんなシリル様の恐ろしさを知っている。その目が、常時あなたを見ていることもわかっている。あの人達は、たとえ何があろうと、シリル様を怒らせるようなことはしない。そうなると相手は、もうバゼーヌ公爵自身くらいしか残らない。そして公爵は、シリル様以上に家に帰らない方よね。しかも、今もディオーヌ様とは仲睦まじいことは誰もが知っている事。こうなると逆に、あなたのお腹にいる子の父親候補は、シリル様しか残らないのだけど、他にいったいどこの誰が、父親候補になれるの?」
フランシーヌは、それだけ言い切ると、ぎゅっとジゼルを抱きしめて、頭を撫でた。
「大丈夫よ。魔術師二千人にも、二人は子供ができたのでしょう。その二人の子は、それだけ稀にもかかわらず、その魔術師の子供だと認められたのよ。だったら、あなたの子も同じことだわ。……大丈夫よ、ジゼル。あなたの夫は、”あの”シリル=ラムゼン。あなたの夫を、信じなさい」
ジゼルは、フランシーヌが、知らないはずの母と同じ言葉をくれたのを、信じられない思いで受け止めていた。
「……フラン、信じてくれる?」
「もちろんよ。疑いもしなかったわ」
「シリル様も?」
「当たり前じゃない。それこそ、疑う余地もないんじゃないかしら」
「……うん」
ようやく、涙を浮かべた複雑な表情ながらも、微笑みを見せたジゼルに、フランシーヌはにっこりと笑って見せた。
「フラン! 大丈夫か!」
「ジゼル! 何があったの」
二人の夫が、その小部屋に駆け込んできたのは、話も一段落し、ジゼルの涙がようやくおさまった時だった。
二人の長身の男が、われ先にと小部屋に飛び込んでくる様は、緊急事態を知らせる鐘よりも慌ただしい物だった。
しかも今日は、二人揃って、近衛隊長の礼服を身に纏っているのである。物々しさに、きっと周囲の人々は驚いたに違いなかった。
「エルネスト様。ご心配をおかけしました」
ジゼルを抱いていた手を離し、立ち上がってエルネストを出迎えたフランは、にっこり笑って、エルネストに歩み寄る。
その横をすり抜けたシリルは、まだ椅子に呆然と座ったままだったジゼルの前に膝をつき、心配そうにその頬に手を当てた。
「ジゼル、どうしたの」
あきらかに涙の跡が残るジゼルの顔に、シリルの方が泣きそうな表情になる。
その表情を見て、ジゼルは、ふっと力が抜けた気がした。
これでどのような反応をされても受け入れる覚悟が、今ようやくできた気がしたのである。
「シリル様。……子供が、できました」
ジゼルがそう告げた瞬間、シリルの身ならず、エルネストまで、その場で凍りついたように動きを止めたのだった。