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祝福の賛歌 17

 ぺたぺたと、柔らかい何かが頬を叩く感触で、ジゼルの意識は急速に覚醒した。

 小さな、少し冷たく感じる湿った何かが、ぺとりと頬に寄せられ、ぼんやりと目をひらく。


「まぁう」


 甘い声で、心配そうに『ママ』と呼んだのは、ノルだった。

 鼻先を、ジゼルの頬に時折擦りつけ、少しざらりとしたその舌で、ぺろりと舐める。それを繰り返して、ジゼルを起こそうとしていたらしい。

 真っ白のシーツから浮かび上がるようなノルの黒い毛皮は、寝ぼけた目にもよく見えた。


「ノル……」

「うなぁう」


 ノルが、首を廻らせその視線を寝台から遠くに向けた。

 その視線を辿ったジゼルは、その瞬間がばりと身を起こした。


「ま、マリーさん!?」

「おはようございます、ジゼルさん」


 どうやら、マリーはジゼルが目覚めるのを待っていたらしい。いつも、自分が立っていた定位置に、静かにたたずむマリーの姿に、ジゼルは一気に目が醒めた。


「お、起こしてくださってよかったのに」


 慌てふためくジゼルを、優しい眼差しで見守りながら、マリーは静かに首を振った。


「昨夜はきっと眠れなかったでしょうから、もしまだお休みのようなら、そのままお目覚めを待つようにと公爵夫人に申し付けられましたの」


 公爵夫人、とマリーの口から出た瞬間、びしっと背中が伸びた。


「公爵夫人は、お戻りだったのですか」

「今朝方、お戻りになられましたよ。ジゼルさんがお目覚めになったら、奥様の元へご案内するようにとの事です。お食事は、あちらでご用意いたしますので、今はひとまずお支度しましょう」


 にっこり笑うマリーの横には、すでに見たことのない女性用の服が用意されていた。


 不思議なほどにジゼルの体にぴったりの服は、どうやら以前から公爵夫人が作っていたものらしい。

 同じような物が、母屋にはまだまだあると告げられ、ジゼルははっと気が付いた。

 公爵から頼まれた着せ替え人形の仕事は、もしかしたらこれからが本番なのかもしれない。

 マリーの後ろについて歩きながら、公爵夫人の用件について、一抹の不安を覚えたのだった。


 公爵夫人は、少し遅い昼食をとっていたらしい。ジゼルが部屋に入るやいなや、すぐさま口元を拭い立ち上がると、ジゼルに駆け寄って抱きついた。


「え、あの、奥様?」

「ありがとう、ジゼル」

「……は、あの?」

「ありがとう……。あの子の姿が変わるなんて、思ってもいませんでした。あの姿が、また見られるなんて、思わなかった」


 公爵夫人は、そう言うと顔を上げた。

 その目に光る物を見つけ、ジゼルは息を飲んだ。


「あの子が白銀に染まった時、私は自らの愚かさの代償を、あの子にすべて背負わせた事を知りました。本来私が戦わねばならぬ事を、あの子にすべて押しつけた。その象徴が、あの白銀でした」

「……奥様」

「産まれた時から、私の力はあの結界に喰われつづけていました。それが恐ろしくて、ずっとあの場所から逃げることばかりを考えていました。王家の姫として産まれた私こそ、逃げずに戦わなければならなかったのに。それができなくて逃げた結果が、シリルの力だと思うと、私はどれだけシリルに詫びても、詫び足りません」


 その涙を、マリーが差し出す手巾で拭うと、公爵夫人は寂しそうな笑顔を見せた。

 いつもの、穏やかな笑みではなく、その心が表われた笑みだった。


「白銀は、あの子がそれまで生きていた世界を全て壊した象徴でした。今、その色が消えたからといって、元に戻ったわけではありません。それでも……私は、嬉しかったの。あの子がまた、私と同じ色になって、とても、嬉しかったの。ありがとう、ジゼル。あなたは私に、たくさんの幸せを与えてくれました。ほんとうに、ありがとう」


 公爵夫人は、ジゼルの頬に口付けると、にこやかな微笑みを浮かべた。


「あなたは、シリルが得られた最高の宝だわ。どうかこれからも、シリルをお願いしますね」

「は、はい。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします」


 慌てて頭を下げたジゼルを、公爵夫人はにっこり微笑み、見守っていた。



 昼食をとりながら、公爵夫人はふと気が付いたように、隣にいた執事に何事かを申し付けた。


「そう言えば、ベルトラン家から、お手紙が届いていますよ。あとひと月と少しで開かれる結婚式の招待状を、あなたの分の用意もしてくださったそうです」

「あ……。もうそんなに近かったのですね」

「ええ。そう言えば、朝、フランシーヌがこちらに来たというのは本当ですか?」

「え、あ、はい。あの、やはり、いけませんでしたか」


 申し訳なさそうにジゼルが問うと、公爵夫人は、かまわないと言って、ほほほと笑った。


「元々、シリルとエルネストは、あの穴以外では行き来していません。その妻となるあなた方も、それでかまいませんよ。ただ、誰でもかまわないので、あちらに行くことはちゃんと告げてからお行きなさいね。そうじゃないと、いざという時に大変なことになりますから」

「いざという時、ですか?」

「このバゼーヌ家から人が消えるという事は、門の騎士達の目をかいくぐり、人が侵入した可能性が疑われるという事です。軍が派遣される事態になりかねませんよ?」

「……絶対にわすれません!」


 それは、ちょっと友達に会ってきましたなどと言えないような事態となるのは、火を見るより明らかだった。

 軍の派遣などという、大がかりな事は、絶対にお断りしたい。

 思わずぶるりと震えたジゼルを見て、公爵夫人は微笑んだ。


「結婚式と、その宴に出席するための衣装を、大急ぎで作りましょうね。ああ、それと普段着も。あと、あなたのお披露目として、お茶会を開きますから、その衣装も作らなければ。旦那様のお許しももう頂きましたから、安心ですね。ああ、楽しみだわ」


 うっとりと夢見る瞳になった公爵夫人と対称的に、ジゼルはその笑顔が引き攣るのを感じていた。

 どうやら、これこそが、公爵の言っていた勤めなのだと理解したジゼルは、遠い目をしたまま、「わたしもたのしみです」とだけ、必死の思いで返事をしたのだった。



 離れに戻ったジゼルは、扉に入った途端に嬉しそうに走ってきて出迎えたノルに、微笑みながら礼を告げた。

 すでに午後だが、まだシリルの帰宅は知らされない。

 フランシーヌが朝早くにエルネストをたたき起こすことができなかったのだと、ジゼルはほんの少し安堵しながら、再び寝室に戻った。

 今のうちに、あの居たたまれない寝具を取り替えてしまいたかったのだが、どうやらあれは、新婚の夫婦が共に閨入りというものをしないと換えてはいけないらしく、マリーからくれぐれも、換えないようにと言い聞かされていた。


「……これは換えなくても、別の布を被せてみるとか」


 思わず真剣な表情でそう呟いたその時、玄関扉が叩かれる音が響いた。

 慌てて走った玄関に、全身疲労の色を湛えたシリルの姿を見つけ、言い様のないほどの安堵の感情が溢れたのだった。


「……おかえりなさい、シリル様」


 満面の笑みで出迎えたジゼルに、シリルはほんの少し、考えるように首を傾げ、そして「ただいま」と小さな声で告げると、微笑んだ。


「……やっと、帰ってきた感じがする。待ってるって、言ってくれてからだと、ひと月くらいなのにね」


 シリルはそう言うと、一歩踏み出し、ジゼルを抱きしめた。


「ずいぶん、長くかかったな。でも、これでジゼルは、ずっとここにいてくれるんだね」

「はい、シリル様。私は、ずっとここにいます」


 ジゼルは、恐る恐る、シリルの背中にその手を伸ばした。

 その身を委ねるように、シリルの胸にぴたりと体を添わせる。

 二人とも、それ以上何も言わないまま、しばらく互いの存在を確かめ合うように抱き合っていたが、突然、シリルの体がジゼルにのしかかるように重みを増した。


「……シリル様?」

「……ごめん、限界……ね……むい」


 ひっと思わず息を飲む。ここで寝られたら、ジゼル一人ではシリルの体を運べないのだ。


「待ってください、シリル様! もうちょっと、あとちょっと歩いてください。せめて寝室まで!」


 大慌てで、シリルの体を支え、引き摺るようにジゼルはシリルを寝室に引っ張っていく。

 導かれるようにシリルはどうにか歩き、寝室の前にたどり着いた。

 先程までずっとそこにいたために、幸い扉は開きっぱなしになっていた。

 そして、ジゼルは一歩足を踏み入れ、まるで昨夜の再現のように固まった。


 ――寝台は、新婚仕様のままだった。


「あ、あああの、シリル様、こ、これはあのですね」

「……」


 すでに半分意識が飛んでいるらしいシリルは、その真っ白に変わった己の寝台を、ぼんやりと見つめていた。


「……」


 先程まで、ジゼルに引き摺られていたシリルは、今度は逆にジゼルの手をひきながら、ゆらりゆらりと体を揺らし、寝台に一歩一歩足を進める。


「あああああのシリル様、い、今は昼であの、とにかく早く寝てください!」


 なんとか手を振りほどこうとジゼルは身をよじるが、シリルの手はしっかりとジゼルの腕を掴んでいた。


「シリル様!」


 寝台にたどり着いたシリルは、ジゼルを巻き込むようにそのままそこに倒れ込んだ。

 わたわたと慌てたジゼルは、その腕から逃げようと必死で藻掻くが、シリルはその隙を見るように、がっしりとジゼルを逃がさないとばかりに正面から抱きしめた。


「……おやすみ」


 そして、そのまま、ジゼルの髪に顔を埋め、その体の動きを止めてしまったのである。


「……え?」


 真っ赤になったまま硬直したジゼルは、恐る恐るシリルに顔を向けたが、そこには穏やかな表情で眠りについている、いつものシリルの顔がある。

 一人慌てふためいていたジゼルは、しばらく愕然としていたのだが、その拍子抜けの事態に思わず笑みをこぼす。

 その途端、ジゼル自身も、疲労が取れていなかったのか、それともシリルの暖かな腕の中に誘われたのか、眠気で目蓋が重くなってきた。


「……おやすみなさい、シリル様」


 ジゼルは、そう言うと、その身をシリルに預け、目を閉じる。

 起きたら、まずこの寝台を元に戻し、それから、これからなんと呼べばいいですか、とシリルに問うことを心に決めたところで、ジゼルの意識は眠りに誘われたのだった。



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