2、珪素と炭素
ユージとハヤトがカオリに連れられてきたのは、少し古びた三階建てのビルだった。一階はクリーニング屋、二階は空き部屋、三階が目的の場所である。
傾斜のある階段を上り、三階に着くと、カオリはインターホンを鳴らした。そこから若い男の声が聞こえてくる。
「どちら様ですか?」
「カオリ、ロキア、イコラ」
暗号のような言葉をすらすら唱えると、がちゃりと音をたてて鍵が開けられた。カオリが部屋の中に入ると、ユージとハヤトもそれに続く。部屋の中はパソコンが十台程並んで置いてあり、カーテンは閉め切られていたため、夕陽を眺めることはできなかった。
その片隅に薄茶色の髪の二十代くらいの青年がいた。彼はユージとハヤトの姿を見ると、目を丸くする。
「カオリ、その人たちは?」
「二十四時間以内に二回も珪素生物に襲われた人。珪素生物について知りたいというので、連れてきました」
「本気か……? ただの高校生だろう」
青年は眉をひそめながら、ユージとハヤトをちら見する。カオリは申し訳なさそうな顔をしながら、さらに一歩近づいて呟く。
「実は……あれの調子が悪いようなんです。交換してもらえますか?」
「なんだ、そういうことか」
表情を緩めた青年は、カオリから丸い鏡を受け取った。それはユージが昨晩意識を失う直前に見たものである。青年はまじまじと鏡を見て、首を傾げた。
「壊れているようには見えないが……。少し時間をくれ」
そして青年は鏡を持ちながら部屋の奥へと行ってしまった。
ユージは何気なくパソコンのディスプレイを見ると、地図が画面いっぱいに広がっており、そこにはいくつかの赤い丸が輝いている。しかし数秒すると消えてしまっていた。一方で新たな丸が発生する場所もあった。
気が付けば、ハヤトが怪訝な表情でカオリを見据えている。
「……カオリ先輩、“シリン”って言いましたよね。つまりさっきのあれは珪素生物なんですか?」
「ケイソセイブツ?」
ハヤトが発した単語に対して、ユージは片言で復唱する。彼は疑問符を浮かべているユージを見ると、頭をかいた。
「お前は知らなくて当然か。まず、珪素ってわかるか?」
「化学の授業ででてくるやつだろ? すいへーりーべーって覚えた中にあるやつ」
口を尖らせながら、ユージは言い返す。
「じゃあ、その性質は?」
「せ、せいしつ!?」
一年の頃に化学を履修していたが、勉強したのが半年も前だ。水素や酸素はさすがに覚えていたが、珪素の存在は脳内から消え去っていた。
「……忘れた」
「だろうな」
ハヤトは肩をすくめた。いつもは勝手に調べろとまず言うが、今回は珍しく説明を続けてくれる。
「原子番号十四、炭素と同族の珪素。天然には単体は存在していないが、様々な化合物として存在している。身近な化合物としては、水分を吸い取ってくれるシリカゲルがある。ほら、お菓子の中に入っている、あれだ」
「あれがシリカゲル……」
青色の小さな丸を思い浮かべる。
「次に俺たち地球にいる生物は炭素から構成されていて、別名炭素生物、もとい“カボン”とも言われている」
「俺たちが炭素!? あのCがたくさん体の中にあるのか!?」
「……最後まで聞け、馬鹿。いいか、炭素による化合物によって俺たちは生きられているんだ。炭素を共有結合することでアミノ酸や脂肪酸、糖が生成。それらを組み合わせることで、生物が生きていく上で必要なタンパク質や脂質を作り出す」
「は、はあ……。そういう意味なのか」
饒舌になり始めたハヤトを唖然としながらユージは眺めていた。ハヤトは学年で常に上位五番以内を保っている秀才である。特に理科系の科目は一位から陥落したことはない。どこかで聞いたことがある単語をどうにか脳内で繋げながらユージは聞いていく。
「一方で炭素と同族であり、同じような本数の共有結合ができる珪素は炭素生物と同様に、それを主体とした生物も存在するのではないかと言われていたんだ」
「それがさっきの生物か? 同じ生き物には見えないけど?」
ハヤトは腕を組み、壁にもたれ掛かっているカオリに視線をやった。視線に気づくとカオリは背筋を伸ばしながら、ユージたちの近くに歩んでくる。
「たしかに炭素と珪素は同じ族ではあるけど、詳細な性質は違うわ。炭素よりも珪素の方が共有結合の強度が高いから、耐熱性が高く、化学反応もおきにくい。その影響で仮に珪素から生物が成り立つとすれば、それは岩石のように硬いと理論付けられている。実際に見たでしょう、あの異様な硬さ。ただ姿は違うけれど、意志を持って動いているのは確かよ」
「そうなんですか……。……って、思ったんですけど、どうしてそいつらが急にオレたちの前に現れて、襲うようになったんですか?」
「存在自体は以前からしていたわ。けど人々がいる時間帯や場所には現れなかっただけよ。それにたとえ珪素生物が炭素生物を襲おうとしても、事が大きくなる前に私たちが対処をしていたわけ」
カオリは席を外している同僚の席に目をやった。彼ら、彼女らは、あの強固な珪素生物を探し出し、相手をしているらしい。しかし急に彼女の顔が暗くなる
「……でもここ数日で、状況が変わった。大量に珪素生物がこの街に溢れ始めていて、対処が追いつかなくなっているのよ。だからあなたは不運にも僅かな期間で二回も遭遇してしまったわけ。一方で私たちが間に合わなくて、襲われた人の中には亡くなった人もいる。――昨日の夜、顔面強打による不審な死があったでしょう?」
今朝の地区ニュースでその事件については聞いていた。鈍器のようなもので殴られたらしいが、犯人の目星はまったく付いていない。
「もしかして、オレもあと一歩で被害者に……?」
ユージは顔がひきつる自分を指す。それに対してカオリは軽く頷いた。
「これ以上被害を増やすわけには行かない。だからこうして私たちの仲間は出払っているけど……」
「カオリ、話の途中ですまない。確認したが、特に壊れている場所はないぞ?」
奥の部屋に籠もっていた青年が首を傾げながら、近づいてくる。
「本当ですか、市原さん!? だって彼、昨晩の記憶を沈めたはずなのに、ほとんど戻っているんですよ」
横目でちらりとユージを見ながら、カオリは声をひそめて言葉を出す。市原は手を口元に当てながら、少しだけ思案を巡らした。ユージやハヤトの顔をちらりと見ながら、ぽつりと言う。
「まさか彼――?」
「……否定はできませんね」
二人で難しそうな顔をしつつ、こそこそと話し合っている。おそらくユージたちのことであろうが、こちらに情報が伝わってこないのは面白くなかった。
「なあハヤト、オレたち、どうすればいいんだ」
隣に立っている少年に言葉を漏らす。だが彼は反応せず、ただ突っ立っているだけ。
「ハヤト……?」
「……カオリ先輩、その珪素生物は昔からいるんですよね。もしかして、過去の未解決の事件はそれが絡んでいる可能性が高いんですか!? ――例えば鈍重なもので胸部を圧迫されて死亡した事件とか」
珍しく声を荒げるハヤトの顔を見ると、見たことがないくらい強ばっていた。肩は上下に動き、目は見開いている。
そういえば――と、ある事件を思い出す。
ハヤトとは中学校の一年生の時に同じクラスになってからの付き合いだったが、出会った直後に彼は妹を事件で亡くしていた。クラスメートとして葬儀に参列したが、酷く憔悴した表情でハヤトが親族の席に立っていた記憶がある。
死因は胸部圧迫によるもの。肋骨が折れるほどの非常に強い力が加えられたらしい。何か重い石のようなものを、胸に向かって突き落されたようだったと言われている。
警察は残忍な犯行と見なし、総力をあげて犯人確保に乗り出たが、結局犯人は未だ捕まらず、凶器さえも見つかっていない。
「カオリ先輩!」
必死に主張をするハヤトに対して、カオリはそっと彼の頬に右手を添えて微笑んだ。
「何か嫌なことでも思い出したの? 大丈夫、もう忘れるから――」
カオリがハヤトの目の前に左手を持ってくる。
だがそれは彼の視界に入る前に、彼は彼女の手を握りしめていた。手から何重にも円が描かれた鏡がそこから零れ落ちる。
「記憶を沈み込ませる気ですか?」
醒めた目つきでカオリを見下ろす。ユージも一瞬身震いするほどの殺気を感じた。手に込める力が少しずつ強くなっているのか、カオリの表情が歪み始める。見かねたユージは間に割って入った。
「ハヤト、やめろ! 痛がっているだろ! ハヤト!」
すると急に前触れもなく手を離した。カオリはハヤトから警戒するように一歩下がる。
「カオリ先輩、あなたはあれを対処する仕方をしっているんですよね。よければ僕にも教えてくれませんか?」
淡々と述べる姿は今までユージが見たことがないハヤトの姿だった。
いつも冷たい振りをして、突き放したと思ったが、すぐに助け船を出してくれる、根は優しいやつだと思っていたが、それは今では微塵も感じられなかった。
「……何を企んでいるかはわからないけど、迂闊に教えられるものじゃないわ」
「そもそも先輩では教えられないのでは?」
カオリは虚を突かれたような表情をする。それを見たハヤトは溜息を吐いた。
「カオリ先輩、嘘を吐くのが下手すぎますよ。――おそらく珪素生物を倒すには、何らかの能力を持った武器を用いて、皮膚を溶かし、その隙間から現れた体を作り出す核を壊すことで、初めて倒せるのでしょう。珪素生物は通常地球上では環境的に生きられないと言われていますからね、核を貫けばそれで終わりだ。一方で、ここには先輩と市原さんという、若い人しかいない。それは珪素生物に対抗するには、あまりにも心細すぎる。つまりまた別の場所に、おそらくあなたたち以上に歳を召した偉い人がいる――違いますか?」
図星だったらしく、カオリは硬直しまま動かなかった。そんな彼女を脇に置いて、市原はハヤトと向かい合う。
「力を得てどうする? 私たちと共に街の人たちを、珪素生物の驚異から守ってくれるのかい?」
「……しらみつぶしに探して、接触したほうが早いからな。そちらの仕事もついでに手伝ってやるよ」
「君は本当に賢い少年だね。自分のために組織を利用するつもりか」
「子供扱いするな」
ハヤトは吐き捨てた。
市原は呆然としているカオリに歩み寄り、耳元に口を近づける。
「連れていってやりなさい。あとは先生が判断するだろ」
「……わかりました」
カオリはゆっくり首を縦に振ると、携帯電話を取り出す。部屋の端にまで行くと、誰かに電話をし始めた。数回会話をしただけで終わり、すぐにユージとハヤトの元に戻って来た。
「場所を移動するわ、着いてきて。ただ少し遠いから、帰りが遅くなるわよ」
「構わない」
「オレも大丈夫!」
それを見たカオリは市原に挨拶をしてから鞄を持ち、部屋から出ていった。ハヤトは無言のまま彼女の背中を追い、ユージも軽く市原に頭を下げてから、二人を追った。
太陽はすっかり沈んでおり、黒いアスファルトの上を三人は黙々と進んでいく。だいたいの街灯は点灯していたが、電気が切れているところは、非常に薄暗い。
重すぎる空気が漂っており、ユージは息が詰まるような思いだった。いつもなら沈黙が続いたときにはハヤトを適当に小突いて空気を和らげるが、今はそれを受け付ける気配はまったくない。カオリでさえも、依然として堅い表情のまま。一緒に行くと言ってしまったことに対して、若干後悔しつつあった。
風が吹き抜ける――同時に若干の焦げ臭さが鼻に入ってくる。誰かが魚を焼きすぎてしまったのかと思いながら、後ろを振り返ると、急に右腕に衝撃がかかり、勢いよくユージは突き飛ばされた。
地面に叩きつけられながら、転がっていく。止まったときにはどこかで切ったのか左頬から赤い血が流れ出ていた。
「いったい何だ……!」
ユージが顔を上げようとすると、間髪入れずに腹に衝撃が突き刺さる。真っ黒い足が軽々とユージを跳ね上げ、壁へと投げ飛ばした。背中から激しい衝撃を受け、その場にぐったりと倒れ込んだ。よく見れば左足の膝は真っ赤な色に染まっている。
薄れゆく意識の中で、視線を前に向けると、ハヤトが腹を触り、うめき声を上げながら伏していた。彼の右腕からも血が流れ出ており、粉々になった眼鏡が近くに転がっている。
カオリの方に視線を向けると、彼女は抜刀をして、先端を異様に黒い生物――二本足で立っている、人間のような姿の珪素生物に対して、突きつけていた。彼女の頬からは一筋の赤い血が伝っている。
「突然襲ってくるとは、なかなかいい度胸をしているわね……」
『お前たちが最近、俺たちの仲間を消しているやつらか』
「しかも話せるとは……また厄介なものがでてきたものね」
カオリは眉間にしわをさらに寄せつつも、珪素生物を睨みつけていた。
「――この少年たちはまったく関係はない。そんな人にも手をかけるの?」
『相手をするのは基本的には邪魔をするやつだけだ。昨日の夜も真っ赤な顔をした男が、鞄を回しながらやってくるものだから、始末させてもらった』
「それはただの酔っぱらい。敵意はなかったのに……」
カオリは悔しそうな表情で唇を噛みしめる。
『お前は俺たちの敵か』
ぎろりと緑色の瞳がカオリを見据えてくる。彼女は数瞬躊躇ったが、ユージ、そしてハヤトに視線をやると、儚げな笑みを浮かべた。そして凛とした表情に戻り、珪素生物に対して言葉を吐き出した。
「そうよ。私だけがあなたの敵よ。殺すなら、殺しなさい!」
カオリは次にかかる衝撃を覚悟したが、珪素生物はただ彼女をまじまじと見ているだけだった。
『お前以外にも仲間がいるな』
「はい?」
『他にも炙り出さなければ、意味がない。人質だ、こい』
「え……?」
目を丸くしているカオリの首もとに、鋭い手刀が落とされたのだ。彼女は一瞬うめき声を上げたが、すぐにその場に崩れ落ちる。そして人語を話す珪素生物は、ユージとハヤトには目もくれずにカオリを肩に担ぎ上げて、その場から去っていった。