1、日常と非日常
「なあハヤト、助けてくれよ。オレ、こんな量、無理だって!」
「自業自得だろう。宿題を忘れたんだ、それくらいの罰則、自力でこなせ」
「オレだって宿題しようと思ったさ、夕飯を食べた後に。けど学校に忘れ物していて、それを取りに行こうと思っていたら、気がついたら朝になっていて……」
「人はそれを寝落ちと呼ぶんだよ、ユージ。大人しく一人で放課後に図書館にこもってやっていろ」
ハヤトと呼ばれた、きちんと整えられた短い黒髪の少年は、わざわざ顔を後ろに向けて、目の前で助けを求めている少年には目もくれずに、ノートを開き、英語の予習をし始める。
一方で白色のくせ毛の髪の少年ユージはうなだれながら自分の机に置いてある、びっしりと書かれた紙に目をやった。そこには宿題を忘れた罰として、一週間分の課題が書かれている。見ただけでも吐き気がしそうだった。
「だからさ、オレ、たしかに宿題やろうと思ったんだよ。でもさ――」
「その言い訳は聞き飽きた。だが忘れたのは事実だ。何を言おうと、事実は変わらない、わかったな」
もう話しかけるなと言わんばかりに、英語の教科書をユージの前に広げて立たせる。それを見るとユージは渋々と視線を前に戻し、机の上に頬を付けた。
「それにしても夜の記憶がねえ。いったい何やっていたんだ……?」
中心部に非常に高い建物がそびえ立つ街のある高校において、高倉勇二は授業を上の空で聞きながら、他よりも群を抜いて高さがある建造物を眺めていた。街を象徴するその建物は“クラウド・タワー”と呼ばれ、高さが七百メートルもあり、現世界で最も高い自立式鉄塔と言われている。地上五百メートルあたりまでは一般人でも登れ、展望台もあるが、それ以上先は研究者など許可を与えられた人間しか進めなかった。聞いた話によれば雷が多数落ちるため、その雷のメカニズムを解明するために測定をしたりしているらしい。
とはいえ、いつかは最上階にまで登ってみたいというのが、ユージの幼き頃の憧れでもあった。
退屈な授業を終える鈍重なチャイムが鳴ると、待ちに待った昼ご飯である。ユージは後ろにいる相沢隼人の机に、自分の机を付けると、二段の大きなお弁当とパンを二個、鞄から取り出した。ハヤトがお弁当を開く前に、まずは焼きそばパンから食べ始める。
「お前さ、ぼんやりとしている時間があったら、宿題でもしていたら良かったんじゃないのか?」
お弁当に箸を付けながらハヤトはぼそっと呟く。焼きそばパンをあっという間に食べ終え、弁当に手を付け始めたユージは口を軽く尖らせた。
「しようと思ったけどさ、初っ端からまったく手が付けられなかった。こんな問題を解けた方がすごいだろ」
「つまり一番始めしか見ていないということか……」
溜息を吐きつつ、ハヤトは引き出しの中から丁寧に文字が書かれている一枚の紙を取り出すと、無言でユージに手渡した。
「なんだ、これ?」
疑問符が一気に出てきたユージだが、ハヤトは彼の質問には一切答えず、黙々と弁当をたいらげていく。
すると突然、教室の入り口からハヤトを呼ぶ女子生徒の声が教室内に響き渡る。視線を教室の外に向けると、クラスメートの先に少し大人びた少女がいた。彼女の姿を見ると、ハヤトは目を丸くしながら立ち上がったのだ。
慌てて廊下に出ていくと、二人で話をし始める。ハヤトよりも少し背は低い可愛らしい少女であり、髪を緩く一本のお下げで結んでいる。見たことがない顔から、おそらく上級生であろう。そんな彼女と話をしているハヤトが普段はあまり笑わないのに、今は非常に楽しそうな表情で話しているものだから、思わずユージはそっぽを向いて、ムスッとしながらぽつりと呟く。
「あいつ、いつも仏頂面のくせに、今日はあんなに笑いやがって。もしかして――」
「もしかして、なんだ?」
「ハ、ハヤト!?」
思ったよりも早く席に戻ってきていた彼に対して、ユージは素っ頓狂な声を上げる。それを聞いたハヤトは肩をすくめながら、席に着いた。
「お前さ、もう少し周りの状況の変化に対して、敏感になったほうがいいぞ」
「気が逸れていただけさ。――なあ、あの人誰だ。彼女か!?」
「図書委員会の先輩。急に用事ができたから、当番を変わって欲しいって言われただけだ」
「あんなに楽しそうに話していたのに?」
「……そんなことより、その紙、読んだか? 必要ないなら処分する」
ハヤトが紙を取り上げようとすると、慌ててユージは待ったをかけた。
「待て、待て、まだ読んでいない!」
そしてちらっと中身を読むと、ユージの目は大きく見開かれた。そして目を輝かせながら、ハヤトを見つめる。
「ハヤト……オレ、やっぱりお前が好きだ!」
飛びつこうとするユージの行為に対して、ハヤトはひらりとかわした。その結果、ユージは教室の端にあった掃除用具に音をたてて激突する。
「……お前、やっぱり馬鹿だろう」
ハヤトは深々と溜息を吐く。ユージに手渡した紙には、課題として出された一覧を、易しい順に並び替えたものが書かれていた。
* * *
青かった空がいつしか赤くなり、カラスが鳴きながら太陽の前を横切っている時間帯、ハヤトに見張られながら、下校時間まで図書室で課題を進めたユージは疲れきった状態で、彼と一緒に下校していた。
悔しいが、ハヤトのおかげでユージは出された課題をかなり進めることができた。易しい問題から解いてくことで、だんだんと調子が上がってくる。普通ならば解けない問題でも、頭が妙に冴えていたため、意外とあっさりと解けることができていた。
「ハヤトってさ、将来教師とかになりたいのか?」
「さあ、どうかな。可能性の選択肢の一つとしてはあるかもしれない」
「ハヤトが先生だったら、きっとたくさんの生徒が頼ってくるんじゃねえか?」
「それはお前が今、感じただけだろう。それイコール将来でも活躍するって言うのは論理としては正しくはない。配偶も正しくないと成り立たないぞ」
「はいぐう?」
「おい……、一年の数学の授業で何を聞いていた」
ユージの馬鹿さ加減に対して大げさに肩をすくめるハヤト。しかしそんなことも気にせず、ユージは別の話題に変えてゆく。
例えば今週発売の少年漫画雑誌の話――読み切り作品があったが、おそらく近日中に連載へと発展するだろうという作品について。また、今日の授業で先生が言っていた面白い話について――。
いつも通りの日常を過ごし、いつも通りの通学路を歩いていたはずだが、住宅街を抜けた辺りで不意に悪寒が全身を行き渡った。肌で感じる温度が急激に低下した気がしたのだ。
ユージはハヤトに視線を送ると、彼も既に異常を察知したのか眉間にしわを寄せている。
夕陽により真っ赤に染まった地面に、ユージとハヤトの黒い影が写っていた。だが二人の影以外に、巨大な人間のような影が映っていたのだ。手には何か細長いものが握られている。
二人はゆっくりと首を後ろに向けた。
瞬間、細長いものが二人を分断するかのように、真ん中に叩きつけてきたのだ。お互いにギリギリのところで回避した。あまりの突飛な出来事に対して、普段は冷静沈着なハヤトも顔を強ばらせる。
「なんだ、こいつ……」
二本足で立っている人間のような出で立ちの二メートルを超す長身の生物、だが体毛がない真っ黒で硬い皮膚や、窪んだ穴の奥から緑色の瞳を光らせていることから、それは明らかに人ではなかった。見たこともない姿の生物だ。それを見たユージの脳裏に何かが唐突に引っかかる。
――ちょっと待て。俺、こいつに前、会ったことがなかったか?
必死に思い出そうとするが、一度靄にかかってしまった記憶を思い出すのはなかなか困難だった。なぜなら記憶の引き出しのどこにしまったかも定かではないからだ。
謎の生物が一歩一歩、二人に向かって近寄ってくる。
呆然と立ち尽くしているユージだったが、ハヤトによって肩を強く叩かれたことでようやく我に戻った。気が付けば謎の生物が目の前で再び細長い鉄パイプを振り上げていた。その光景を見て、全身の身の毛が逆立つ。
「逃げるぞ!」
ハヤトの言葉と共に二人は一目散に走り始めた。
あいつはいったい何だとか、いつ会ったのかとか、色々と追求したいことはあったが、明らかに殺気を放っている相手に対して、まずすべきことは逃げること。立ち向かうよりも逃げるという選択肢を、ハヤトでさえ即座に選んだ。それはすなわち相手が想像以上に危険な存在であることを意味していた――。
当てもなく、とにかく道が続くまで二人の少年は街を駆け抜けてゆく。
しかしだんだんと人気が無くなっていることにユージは気づいた。同時にハヤトの眉間にみるみるうちにしわが寄っていく。
「俺としたことが……はめられたか」
曲がった先には道がなかった。つまり――行き止まり。
ユージが恐る恐る後ろを振り返ると、静かな足取りで近づいてくる謎の生物がすぐそこまで来ていた。建物の間であるため影となっており、相手側の表情は読めないが――おそらくにやけているはずだ。
「なあ、ハヤト、あれはいったい何なんだ?」
できるだけ後ろに下がったが、残念なことにすぐに背中は壁に当たってしまう。
「俺が聞いた話では、世の中には二種類の生物がいるらしい。一種類は俺たちのような存在、もう一種類はあいつらのような存在。――皮膚が異常に硬そうで、好戦的なのが特徴らしい。普段は相容れないようにしているはずだが……」
「おいおい、相容れないはずなのに、オレたちの目の前にいるぜ?」
「そうだな、まあ運が悪いってことだろう」
「そう冷静に分析するな!」
ユージが叫んだのと同時くらいに、今度は鉄パイプが勢い良くハヤトに向かって振り下ろされる。それを彼はかわすために横に飛ぶ。だが始めからハヤトに狙いを定めていたようで、鉄パイプが地面に触れる寸前で方向を転換させて、襲ってきた。
ギリギリのところで避け、逃げるハヤト。一方でしつこく襲ってくる謎の生物。
ユージはこの場を何とか脱却したいと思い、周りを見渡した。そしてある所で視線が止まる。謎の生物が持っている鉄パイプよりも、さらに細い鉄パイプがあったのだ。あれならユージも扱えることができるだろう。それを急いで手に取り、無謀にもその生物の足に向かって叩きつけた。
叩かれた瞬間、動きを止めた。そしてゆっくりとユージに顔を向ける。緑色の瞳がユージを射抜いてきた。
「オ、オレを襲えよ! ほら、お前の足に攻撃を――」
意識を謎の生物が持っている鉄パイプから逸らした僅かな間に、その生物が持っていた鉄パイプがすぐ横にまで迫ってきていた。ハヤトが何か言葉を叫んでいる。ユージは激痛を覚悟して目を瞑った。
だが――激痛はいつまでたってもこない。しかも場違いな柔らかな香りがする。目をゆっくりと開けると、鉄パイプはその香りの出現と同時に消失していた。
謎の生物とユージの間に黒髪を棚引かせている少女が割って入ってきたのだ。しかもその姿はユージたちの高校のセーラー服で――。
「お前は――」
「離れていなさい。怪我をしたくなければ」
ちらりと見せた横顔に、一瞬胸が高鳴った。同じような経験をつい最近したことがある。
ユージは言われたとおりに後ろに下がる。少女は細長い袋から一本の刀を取り出した。
「まったく、どうして連日相手をしなければならないのかしら。しかも今回に限ってはまだ太陽すら昇っている時間帯なのに」
独り言を呟いた少女に対して、謎の生物は両手を握りしめ、それを勢いよく彼女におろしてきた。
「危ない!」
ユージの叫びや迫ってくる脅威に対して、少女はまったく顔色を変えなかった。寸でのところでかわすと、軽やかに舞い上がる。鞘から刀を引き抜いて、謎の生物の体に斬撃を為す。その斬られた部分から皮膚が見る見るうちに溶けつつ、消えて行った。再生をする気配は見えない。
「二本足で立ってはいえるけど、たいした強さではないようね」
しかしまだ反抗するのか、唸り声を発しながらも、少女に対して拳を振り上げた。彼女は一瞬寂しそうな顔をしたが、攻撃をかわして、何度かその生物に対して斬り付ける。面、胴、小手――と、それはさながら剣道の攻め方のようでもあった。
やがて体全体が斬られた生物は断末魔を上げながら、動くのをやめる。少女は最後に心臓の部分を突く。
「……私たちとは相容れない存在。危害を加えるのなら、こちらも対抗します」
謎の生物の体が消えて、黒い粒子となっていく――それはまるで体が分解していくようにも見えた。やがて風が吹くと、黒い粒子は宙を舞い、三人の前から消え去った。
ユージは腰を抜かしながら呆然とその光景を眺めていた。黒い粒子もすべて風に吹かれていってしまっている。突然ユージよりも一回り小さな手が差し出された。助けてくれた少女が心配そうな表情で、ユージの顔を覗いてくる。
「大丈夫?」
「大丈夫です……」
思わず手を取ろうとしたが、それでは男が廃ると考え直し、自力で重い腰を上げた。気がつけば目を丸くしたハヤトが彼女の後ろまで近寄っている。
「あなたも大丈夫――」
ハヤトを見るなり、少女の言葉が途中で止まった。お互い驚いた表情で見つめ合っている。ユージは目を瞬かせながら二人を眺めていた。先に口を開いたのはハヤトだった。
「――カオリ先輩、何をやっているんですか?」
「どうして相沢君がいるの?」
「そいつは僕の友達です。――カオリ先輩はさっき言っていた図書委員の先輩だ」
ユージをちらっと見ながらハヤトは呟くと、少女は驚いた顔をした。
「あら、そうだったの……」
「それよりもさっき生物は何ですか? あんな危険な化け物見たことがありません。――何か知っているのなら、教えてください」
ハヤトが眼鏡越しから早川香織を貫くと、彼女は溜息を吐いた。
「……普通に生活していたら、まず見る生物ではないわね」
「どういうことですか?」
「世の中にはね、知らない方が幸せな物事というものがあるのよ」
カオリは腰に手を当てながら、ハヤトを下から見上げている。彼の返答の仕方を試しているようにも見えた。
「今、見てしまいましたよ? 知らずに生きていくのは難しい気がします」
「そういう考えなら、むしろ知らない方がいいわね」
肩をすくめたカオリは、首からかけている何かをとろうとする。
ユージはカオリのことをじっと見ていると、記憶の奥底から何かが浮き上がってきた。消えかけていた記憶が再びユージの脳内の表面に表れる。
「――昨日の夜のお姉さん」
何気なく呟くと、カオリの顔が固まった。そして視線をハヤトからユージへと向けられる。
「あなた、覚えているの!?」
「昨日、オレのことを助けてくれたお姉さんだよね? 今みたいな変なやつから!」
朧気な記憶がはっきりとし、ユージは言い切った。カオリは目を丸くして、ユージのことを眺めている。そしてぼそっと呟いた。
「参ったわね……、あの機械不良品だったのかしら。それにしても連日あいつらと遭遇しているなんて、あなたはいったい何者?」
「不良品? 遭遇?」
「……何でもないわ。とにかく今あったことはすべて忘れなさい。また何かあっても助けてあげるから。知らないほうが懸命なのよ」
カオリは首からかけている物を右手の中指にかけた。それに関して記憶があったユージは、慌てて声をかける。
「ちょっと待ってくれ! オレは知りたい、昨日とかさっき会った奴らの正体を!」
カオリは手を動かすのをやめる。
「それとオレでもあいつ等に対して、何か対抗できるのか? ……また女子に助けられるなんて、男としての立場がない」
値踏みをしている視線に対して、鼓動が速くなりつつも、ユージは溜まっていた思いを吐き出した。
カオリは少しだけ考えていたが、やがてくすりと笑い、手を下げたのだ。
「わかったわ。二回遭遇したら、三回遭遇する可能性も大いにある。だから――あいつらの正体を教えるのと同時に、護身用くらいに何かを渡すわ。」
カオリは背を二人に向け、背中越しから見てきた。
「時間はあるかしら? あるなら一緒に来てちょうだい」
「はい!」
「――カオリ先輩、俺も行っていいですか? 俺はこいつの保護者ですから」
ハヤトが頃合いを見計らって口を挟んできた。カオリはふふっと笑いながら首を軽く縦に振る。
「しょうがないわね、どうせ彼があなたに話すでしょうから。一緒に教えましょう。ねえ、相沢君、もう少し素直になった方がいいんじゃない? 純粋に知りたいだけでしょう」
カオリから指摘されると、ハヤトの頬がほんのり赤くなったように見えた。だがそれは沈んでいく夕陽のせいだったかもしれない。
そしてユージとハヤトはカオリに導かれて、街外れのとある場所へと連れて行かれたのだった。