海賊放送の平凡な一日
ワンダーラジオの新年第一回放送が終わり、誰にも見つかる事なく、追跡者もいない事を確認したアイリスは、念の為、一度サウスの街を北に出てから自分の家があるスクラップ置き場の周辺まで戻って来た。
「おかえり、アイリス」
「ただいま、ヤト」
アイリスの帰りを待っていたのは、ワンダーラジオの片割れであり、彼女の保護者でもあるヤトだ。ヤトはアイリスを一瞥すると、無造作に顎をしゃくって正面にある扉を示す。
少し不機嫌なアイリスは、ヤトの思惑に流される事に抵抗を覚えながらも、今はそれよりもこの格好を何とかしたいと考え、扉の方へと向かう。
扉の先には洗面所兼脱衣所があり、その奥にある扉を潜れば湯船が存在する。いわゆる、バスルームと言うヤツだ。
「あまーいココア」
「はいはい、仰せのままに」
風呂上りの飲み物の注文したアイリスは、まだ少し濡れている衣服を脱ぎ捨てながら脱衣所へと向かうと、脱いだ服を地面に放り投げながら少し乱暴にドアを閉める。
濡れている理由は、機材の設置を終えた瞬間を見計らうかのように現れた公安警察の面々から逃げる為に用水路へと飛び込んだからだ。それは作業が遅れ、それに伴って逃げ遅れた彼女の責任ではあるのだが、別の場所で作業中だったヤトは自分の作業を終えると、アイリスを助けに来る事もせず、放送が終わるとさっさと離脱してしまったのだ。アイリスがまだ追われていたのを知っていたにも関わらず。
夜闇に潜む為の真っ黒なフード付きの外套とその下に着ていたシャツとホットパンツをリビングに脱ぎ捨てて来たせいで外気に晒されている少女の肢体は、髪も肌も真っ白だ。
きちんと栄養を取っているのか心配になる程に細く華奢な手足と腰回り。尻と胸には推定年齢相応に女の子らしい肉が最低限だけ付いてはいるが、僅かにボリューム不足だと本人も自覚している。同時に、将来性はあるはずだと思っているが、真相はまだ闇の中にある。
下着代わりのキャミソールを脱ぎ捨て、鏡に映る己と向かい合うアイリス。
その瞳は赤みがかっており、白い髪と相まって、彼女がいわゆる、アルビノと言う特性を持っている事が伺える。
その特性故に紫外線に弱く、昼間に外に出歩く事に高いリスクを持つ彼女の活動時間は、自然と夜型となる。昼間に活動出来ない訳ではないが、保護者兼相棒であるヤトにはなるべくならば避ける様に言い含められており、彼女は素直にそれに従っている。
そしてアイリスの相棒であるヤトは、昼間に外出出来ないアイリスに変わって買い物をし、何らかの方法で資金を得た上でアイリスに付き合って夜型の生活を送っている。
自身の女性としては貧弱な、しかし細身ながらに鍛えられた肢体を観察していたアイリスは、はぁ、とため息を吐いてからソックスを脱ぎ捨ててバスルームへと入って行く。
バスルームに入ったアイリスは、まずお湯の温度を確認する。
そして少し熱すぎると判断すると、横におかれているたらいの水を足し、温度調整を行うとお湯が溢れるのも気にせず湯船に身を沈める。
湯気が充満するバスルームは殺風景なもので、見ていて面白い物などない。
だから湯船に入ったアイリスが目を閉じて浮遊感とも言える感覚に身を委ねるのは、何時もの事だ。
用水路に浸かって冷えた身体に、暖かなお湯が心地よい。
南部諸国連合との終戦後に行われたインフラの復旧により上下水道の配備が進むこの街であっても、湯船一杯のお湯を沸かす事、すなわちお風呂に入ると言う行為はそれなり贅沢な事だ。それは資金的な意味よりも、それに伴う労力的な理由が大きい。
町はずれの、しかもスクラップ置き場にあるこの隠れ家には当然ながら水道は通っていない。故にまず、ポンプ式の井戸から水を汲みあげ、火にかけて沸かす。それを湯船に注ぐことで満たして行く事になるのだが、それだけのお湯を準備するには、その工程を幾度となく経る必要がある。
アイリスは、今日の放送で自分を囮にし、見捨てて行ったヤトに怒っていた。少なくとも、湯船に身を沈める寸前までは。
しかし、用水路に落ちた自分に気遣い、身体を拭く為のたらい一杯分のお湯ではなく、湯船を満たす量のお湯を準備してくれていた事に、その怒りは解け始めていた。お湯に浸かって気持ちよくなり、幸せな気分になっているのも、原因の1つだろう。
そんな訳で、アイリスがお湯からあがり、湯気を出しながら脱衣所から出た頃には、ヤトの予想通りにかなりご機嫌な様子だった。
「お先ー」
「じゃ、次入って来るか」
「うん。いってらー」
ふにゃふにゃにふやけているアイリスは、ホットパンツにタンクトップと言う、とても異性には見せられない様なはしたない恰好で、己の脱ぎ散らかした衣服を拾いながらバスルームへと向かうヤトの後姿を見送ると、先程までヤトが座っていた居たソファーに飛び込み、準備されていたココアを手に取る。
そして脱衣所の扉を見つめながら、ちびちびと舐めるように熱いココアを消費し始める。
脱衣所の扉の向こうに消えたアイリスの相棒の正式な名前は、ヤト・シラネ。アイリス・シラネを拾い、保護者役を担っている変わり者であり、ワンダーラジオを発足した張本人だ。
髪は黒く、瞳は茶味がかっている。金か茶系統の髪色と青や緑の瞳を持つ者が多いこの国では珍しい部類に入るが、しかしお隣の南部諸国では良くある組み合わせであり、少し前まで取り合いをしていた領土であるが故に南部諸国の人間が数多く住んでいるサウスの街では別段珍しくもない、平凡な容姿を持つ。唯一平凡でないのは、ラジオ放送に関する全てを一手に引き受けていた程に高い、その技術と知識量だ。
容姿の特異性で言えば、アイリスの方が上だ。夜闇の中であってもフード深く被って隠すだけでは足りず、ウィッグの準備までしなければならない程に珍しい髪色。髪色ほど異端でないが、肌の色も白すぎるくらいに白い。
サウスの街は比較的暖かい南方に位置するとは言え、新年を迎えたこの季節、しかも夜となればアイリスの恰好は少し薄着過ぎる。本人もそれは感じており、ココアを飲み干したアイリスは、身体が冷え切る前にキャミソールと丈の短いワンピースを着こんでから、冷たい紅茶の準備を始める。
コーヒーよりも紅茶党であるヤトの為に湯上りの飲み物を準備しながら、アイリスは今日の放送を思い返す。
以前は横から文句を言っていただけの脚本作りは、今ではその立場を逆転し、アイリスが制作し、ヤトが茶々を入れつつ精査すると言う状況となっている。
いつも通りに茶々を入れていたアイリスに、普段なら軽くいなすヤトが、その日は何故か真剣な顔で「だったらアイリスが書く?」と反論してきた時、ついうっかり肯定してしまった事が発端だ。以後、脚本作りはアイリスの仕事となっており、その時からかなり脚本の質は落ちてしまっている。
ヤトは、趣味の放送なのだからメディアを扱う最低限のルールさえ守れていれば良いと言っているが、正式に引き継いだ以上、最低限ヤトの時と同じレベルの脚本を作れるようにならなければと決意しているアイリスは、日々奮闘している。
その一環として、放送後はその日の放送内容と脚本を合わせて反省会を行うのが常だ。
まず、短すぎる事が減点対象で、それ以外にも『アリスのお勧め料理マップ』の情報量が少なかったのも、問題だ。
もちろんそうなってしまった理由は幾つか存在する。
例えば、ハニーデニッシュはヤトが買いに走った時点で既に売り切れており、買う事が出来なかったので概要以外の詳しい感想を知る事すら出来なかった。年末年始は色々とあって忙しく、時間が足りなかった。もちろんそれが単なる言い訳であるとアイリスは判っている。
そんな風にアイリスが1人反省会をていると、彼女の耳に扉が開く音が聞こえる。
「ん」
「さんきゅ」
アイリスの半分以下の時間でバスルームから出て来たヤトは、紅茶を受け取るとソファーに腰かける。アイリスもそれを追うように再びソファーに腰かけると、2人用のソファーは一杯になり、肩が触れ合う。
数年前、かなり小さなころからアイリスの面倒を見ているヤトにとっても、ずっと面倒を見られているアイリスにとっても、こういった類の触れあいはごく日常的かつ当たり前の行為であり、互いの体温から感じる安心感から、積極的に行う事も多い。
それは2人が長い時間を一緒に過ごした事で、家族の様な関係を築いていると言う事を証明していた。
「この後どーするの?」
「さすがに今日は出かけられないだろ」
ワンダーラジオ放送日は公安警察の見回りも強化され、一般人であっても夜間の外出は難しくなる。
そんな弊害を生み出す海賊放送に、街の住人が文句を言う事は、ほとんどない。
かなり復興が進んで来たとは言え、まだ北方で小競り合いのあるこの国では情報統制が敷かれている。そして、この街で簡単に手に入る娯楽は酒や音楽など、数えるほどしかない。あるいは、そこに喧嘩を足す人間もいるかもしれない。そんな数少ない娯楽の1つとなっているラジオ放送の日に外出する人間は少ない。厳密には、外出している人間がそれなりに居るのだが、そのほとんどがバーなどのラジオが聞ける店で飲んでいるか、そうでなければ公安警察の署員としてアイリス達を追いかけている。
「じゃあ、次の機材の準備でもする?」
「とか言いつつ、アイリスは見てるだけだろ」
はぁ、とため息を吐きながらも、ヤトは席を立って紅茶の入っていたカップを台所のたらいへ放り込む。
それを、先に行ってるからそれ洗っとけ、と言うメッセージだと受けとったアイリスは、不貞腐れながらもしぶしぶと言った様子で汲み置きの水を使ってカップを2つとポットを洗った。
ラジオの放送時間は、季節によって僅かに異なる。
その原因は2つあり、1つは夜闇に紛れる方が安全だと言う事、もう1つは太陽が出ている時間帯がアイリスの身体に悪いから、と言うモノだ。
そんな理由から、日が没し、街に完全な夜闇が訪れてから放送準備を始めるワンダーラジオは、当然ながら終わるのも早い。
早い、と言うのはあくまでアイリス達の生活習慣による主観だ。
アイリスの生活時間は、当然ながら日照時間と密接な関係を持つ。
メインの活動時間は日没から日の出までの間であり、日が沈んでまだ3時間程しか経っていない今は、まさに活動時間の真っただ中だ。
「何か手伝おっか、ヤト?」
「いつも通り、適当な廃材でも探してきて」
「うん、りょーかい」
スクラップ置き場であるこの場所の構成要素は、戦争で使われた廃棄資材が半分、壊された家屋などの戦争被害にあった廃材が半分といったところだ。
そこには当然、ラジオ放送の機材に使える物が多数混ざり込んでおり、ヤトはそれらを分解してアンテナなどの機材を作成している。
一度使った機材を再利用出来れば一番良いのだが、逃げる際に大きなアンテナを担いで移動する事は難しく、かと言って後で取り返すのはもっと難しい。最低限かつ出来る限り回収できる物は回収しているが、それでも放送毎にそれなりの機材を消費する事となる為、機材の補充は必須であり、最重要項目の1つだ。
そんな訳で、欠けた機材はこのゴミ山から地道に使える部品や金属を探し出し、有り合わせで作るしかない、という訳だ。
「ヤートー、こんなの、見つけた!」
「お、ナイスアイリス」
それは壊れた、と言うか半分抉られた軍用無線だった。
そのままで使用できる部分はほとんど存在しないが、基盤や金属部品は色々と流用可能だ。
ヤトが上機嫌で壊れた軍用無線を分解する間、アイリスはその横に座って再び今回の反省をしながら次のラジオ放送について、自分の案をしゃべり続ける。
それに対して生返事を返したり、時には真面目に検討するヤト。ワンダーラジオは、こんな風にして作られて行く。
「じゃあさ、ついでにこれも直して」
「って、おうい」
差し出されたのは、アイリスが愛用しているヘッドセットだ。
用水路に入ったせいだろう、通信機と接続された片耳ヘッドセットは、スピーカーの部分から断続的に雑音が流れている。通信機本体は無事の様だが、直すにはそれなりの手間がかかる事だろう、とヤトは診断する。
「外してなかったんかい」
「てへ」
「わざとらしく媚びるな。と、言うか水に浸かった機材を繋ぎっぱなしにするなってあれほど」
にこりと笑って悪びれない様子のアイリスに、ヤトは脱力しながらも、もう何度目になるか判らない注意事項を口にする。
そして、はぁ、とため息を吐くとヘッドセットの分解を開始し、アイリスはそれを楽しそうに見つめ続ける。
かなりの時間をかけてヘッドセットの修理を終えると、嬉しそうに動作確認をするアイリスを見つめながら、仕方ないな、と苦笑したヤトは、その場に立ち上がり提案する。
「そろそろ夜食にするか」
「うん!」
本日、普通の人の昼食にあたる夜食を準備するのはアイリスの担当だ。
とは言え、ヤトはまだ危なっかしいアイリス1人に任せる事はせず、指導兼補助として台所に立っている。
背伸びしたい年頃であるアイリスはそれを嫌がるが、ヤトが「それなら料理は任せられない」と言えばしぶしぶ認めるしかない。
夜食を終えるとヤトによるラジオ機材講座と、一般教養の授業の時間となる。
ラジオの無い日は午後――ややこしいが、一般的な生活では午前に相当する夜食前の時間――に授業を行う場合もある。
アイリスは、この勉強と言う時間が嫌いだった。
しかし、情報を取り扱う関係上、言葉の意味を知らない事で不都合が発生する事は多く、良いラジオの脚本を書くの為にも仕方なく毎日の様にこうして知識を叩きこまれている。
授業が終われば、眠るまで自由時間となる。
とは言え、その時点で外に出かけるには時間が足りない。なので、外出は夜食前か直後に行う事が多い。今日はラジオ放送で走り回り、疲れているアイリスは、次の放送の参考にしようとヤト手製の絵本を読んだ後、早々に眠りについた。
こうして、ワンダーラジオ・海賊放送の片割れのごく平均的な1日は終わりを告げる。