男を飾る花が朽ちた後
「今まで僕を飾る花となってくれたこと、心から感謝するよ。リゼット」
この国の王子セドリックは、私リゼット・ロザベールの名前を呼んで、穏やかに微笑んだ。
眩しいくらいの、清々しい爽やかな笑みだった。
たった今、私に一方的に婚約の解消を突き付けたというのにも関わらず、その表情には一切の悪意を感じない。
「紹介するよ、新たに僕の婚約者になるルドヴィカだ」
そう言うと、セドリックは自身の隣に立つ可憐な少女の細い肩を抱いた。
私のローズピンクの髪とはまた違う、優しげなハニーピンクの髪が愛らしい令嬢。
人形のように整った顔立ちと、丸々とした可愛らしい目元。
彼女の姿を見た瞬間、思わず笑い出してしまいそうになった。
だって、私のすべてを奪っていく彼女が皮肉なことに私とよく似た容姿をしていたから。
「初めまして、エルレイン男爵の娘ルドヴィカです」
「ルドヴィカはこの歳で突然王子の婚約者となったのだ。分からないことばかりだろうから、リゼット、君が彼女に色々と教えてやってくれ」
「王子、それは……」
「どうせ家に戻ったってやることは何もないだろう? だったら、長年婚約者だった僕の願いを叶えてくれたっていいじゃないか。いいだろ、なっ?」
笑顔でそう付け加えたセドリックに、私は返す言葉が見つからなかった。
彼はいつも、こうして私に面倒事を押し付けてきた。
本来は自分で解決するべきことも、婚約者なのだからと理由をつけては私に命じた。
そして自ら婚約破棄を言い渡した今も、私を利用しようとしている。
この男は世の中のすべてが自分中心に回っているとでも思っているのだろうか。
まあ、あなたなら本当にそう考えていそうね。
さすがは王子様とでも言うべき?
時折羨ましく思うわ。あなたのその図太さ。
捻くれた思考が頭を駆け巡るが、実際に王子にそんなことを言ってしまえば、この首に鋭い刃が振り下ろされるのがオチだ。
だから私は、至って普通に、いつものように愛らしく笑って見せた。
「その件は一度お父様に相談させてください。私は、何事も私一人の決断で決めることはできませんから」
「ふむ……確かにそれもそうだな。分かったよ」
私はドレスの裾を持ち上げて礼を執ると、先ほどからしつこいくらい私の様子を窺ってくるルドヴィカ嬢に向かって笑顔向けて部屋を後にした。
王宮の廊下を足早に進む。
太陽がちょうどてっぺんにいる今の時間には、王宮にはたくさんの人々が集まっている。
まるで何かから逃げようともがいている愚かな私を、彼らは好奇に満ちた瞳で見つめた。
『リゼット嬢……顔が真っ青だけど、どうされたのかしら?』
『以前の宴会で負われた傷が、まだ治られていないそうよ。もしも傷が残られたら……』
『美しさだけが取り柄のご令嬢でしたのにね。顔に傷のある王子妃など許されないことでしょうに。一体、どうなるのやら……』
囁かれる言葉が嫌でも耳に届き、私の心臓を苦しみに締め付けた。
私は片手を持ち上げると、額に貼られたガーゼを優しく撫でた。
その裏には、醜い一本の傷跡が刻まれている。
どうして。どうしてこんなことになってしまったの?
額にできた傷ひとつで、ここまで私の人生が狂うことになるなんて……。
今から、ひと月前のこと。
私は、自分の存在価値を失った。
セドリック王子のエスコートを受けて参加した社交界。
黄金の階段に足を下ろした時、ポキンと音を立てて折れたヒールの踵は見るも無残に転がり落ち、私の身体は床へ叩きつけられた。
侍女たちが甲高く叫んでいたような気もするが、私は自分の心臓の音だけが脳内に鳴り響いていた。
真っ先に頭に駆け巡ったのは、身体に傷ができないか、それだけだった。
額に流れる血も、全身を駆け巡る痛みも、どうってことはない。
顔に傷ができていないか、残らない傷ではないか、それだけが気がかりだった。
女に生まれた以上、大切なのは夫を立てる美しい容姿だけ。
他がどれだけ優れていようと、男を飾る花になれない女に価値はない。
幸いなことに美しい容姿を持って生まれることができた私は、王子直々に婚約者に選ばれた。
万が一、いや、億が一にもこの顔に一本の傷でもついたら……これまでの努力は水の泡となり、私の価値はゼロになる。
たくさん、本当にたくさん祈ったけれど、結局私の額には一本の傷跡が残ってしまった。
傷を残すまいと奮闘してくれた医師には、心から感謝の意を述べよう。これは、私の不注意が招いた哀れな結末なのだから。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「一体どんな夢を見ていたのやら。王子様から婚約破棄されたというのに、呑気なものですね。早く起き上がってください。あなたと違って私は忙しいのです」
「ご、ごめんなさい、今起きるわ」
急いでベッドから起き上がり、部屋の隅へと移動する。
親切にしてくれた人々が豹変する様には、まったく慣れそうにない。
私の額に傷が残り、王子の婚約者でなくなったあの日から、分かりやすいほど周囲の人間の態度が変わった。
令嬢という名の花たちが並べられた部屋で、セドリック王子が私の手を取って微笑んだことが、つい昨日のことのように思えてしまうのに……。
『君を僕の婚約者にしてあげる。だって、君はこの中にいるどんな花よりも綺麗だから』
私はこれから、どうなってしまうのだろう?
王子から婚約を解消されただけでも次の縁談を望むことは難しいだろうに、顔に傷まで作ってしまったのだから……。
そんなことを考えながら、私は私室の窓から外を眺めた。
自室と言っても、ここは実家ロザベール侯爵邸ではなく、王宮だ。
六歳の頃に王子の婚約者となって以来、私は妃教育を受けるために、この小さな部屋に閉じ込められた。
王族たちが住む宮殿から、少し離れた小さな離宮。
ここは代々、王子の婚約者たちを教育するために使われてきたという。
これまで私一人だけが使っていた宮殿だったが、今は……。
「……どういうこと?」
私の部屋にあるに大きな窓からは、宮殿の前に備わった広々とした庭園を見下ろすことができた。
日差しを浴びて黄金色に輝くハニーピンクの髪。
花の妖精のように愛らしく笑いながら、楽しげに庭園を駆けている少女に目が止まった。
「ルドヴィカ……」
私と代わって、セドリックを飾る花になったのでしょう。それなのに、どうして笑っているのよ?
王子の婚約者というものは決して簡単に務まるものではなかった。
要領の悪いセドリックに代わって、私はいつも彼の仕事をこなしてきた。
王室専属の教師が私を見る鋭い視線。
何度かけられたか分からない悲しい言葉。
『リゼット様は高貴なお方です。家畜のように鞭で叩かれなくとも、分かりますね?』
傷跡が残らないよう鞭の回数を調整していた教師は、時折、鞭を与えない代わりに言葉で私を脅した。
言葉の恐怖に押さえつけられるくらいなら、いっそのこと殴られた方がマシだった。
でも、それが王子の婚約者としての務めだから。
代々の妃たちが乗り越えてきたものだから。
たとえ、どれほどの努力を積み上げ、どれほどの成果を残そうと、褒め称えられるのが容姿の美しさだったとしても……。
「お待ちください、ルドヴィカ様!」
「そんなに言うなら私を捕まえてみて! 私、足の速さには自信があるんだから! あんな部屋にずっと閉じこもっていたら息が詰まっちゃうわ」
彼女を必死に追いかける見慣れた顔の夫人と、何が面白いのかヘラヘラと笑いながら芝の上を駆けるルドヴィカ。
胸の奥から何かが込み上げてきて、私は慌てて彼女たちから視線を逸らした。
すると、自分が長年使ってきた机が視界に入り込んできた。
王宮に足を踏み入れたばかりの頃、背伸びをしてやっと座ることができた椅子は、今ではもう余裕で足が届くようになっていた。
この部屋には辛く悲しい記憶しか残っていない。
それほどまでに長い月日を私はここで過ごした。
家族が恋しいあまり両親と兄妹を模倣したたくさんの人形。
使い込まれた古びた家具に、左薬指に残った愚かな跡。
『よりにもよって顔に傷を作るとは……』
私が意図して怪我を負ったとでも思っているの?
彼は私の傷について色々と言っていたけど、私としては、この指輪の跡の方が恥ずかしくてたまらないわ。
腹の奥から何か熱いものが込み上げてきて、私は目元を乱暴に拭った。
王子から婚約破棄をされたというだけでも新たな婚約は望めないのに、私は傷アリになってしまった。
もう、私に幸せな結末を望むことは難しいだろう。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「……そこで何をしているのですか?」
近頃というもの、どうしてこうも信じられないことばかり起こるのだろう。
深夜、昼間のことが気がかりで中々眠りにつくことができず、喉の渇きを覚えた私は飲み物を持ってきてもらおうとベッド脇に垂れ下がった呼び鈴の紐を引いた。
しかし、いくら待ってもメイドがやってくる気配はない。
今まで私の身の回りの世話をしていたメイドや護衛騎士は、新たに婚約者となったルドヴィカ嬢につきっきりなのだろう。
きっと、そうに違いない。わざと私を無視しているのだと考えるのは、あまりにも虚しい……。
そう自分に言い聞かせ、仕方なく一人で部屋を出て食糧庫へ向かった。
そこまではよかった。
問題は、部屋へ戻った後だった。
部屋の扉を開けた瞬間、私はそこに立っていた人影に大きく目を見開いた。
メイドでも護衛騎士でもない。見知らぬ男の姿。
暗闇の中、ローブの隙間から覗く男の冷たい瞳だけが輝いていた。
「こんばんは、令嬢」
深夜の王宮に忍び込んだ正体不明の男。
しかも複数ではなく、たった一人。
私は警戒しながら男の姿を観察した。
ローブの下に武器を隠している様子はない。
刺客……というわけではなさそうだ。
だとすると、一体何者なのだろう?
「あなたがどうやって王宮に入り込んだのかは知りませんが……とにかく、こっちへ来てください」
戸惑う男をよそに、私は彼を衣装室へと連れて行った。
そこに並べられた装飾品やドレスを指差す。
「私の持っている高価なものは、すべてここにあります。全部持って行ってくださって構いません」
「……これは、どういう意味ですか?」
「何を仰っているのか分かりませんが、私は泥棒と世間話をするほど暇ではないのです。分かったら、さっさと逃げてください」
私がここへ来るときに持ってきたものも、王子から贈られたものも、いずれはすべてルドヴィカのものになってしまうくらいなら、いっそのこと泥棒に持っていかれた方がいい。
王室や社交界の人間は当然。実の家族だって、私という存在を娘というよりも家の繁栄の駒として見ている。
どうせ、私を守ってくれる者はいない。
そんな投げやりな気持ちで告げると、男はしばらく黙り込んだ後、落ち着いた声で話し始めた。
「王子の婚約者でなくなったあなたが忙しいとは到底思えないのですが……何か面倒なことにでも巻き込まれていらっしゃるのですか?」
「……言ったはずよ。話をするつもりはないと」
あまりに無礼な物言いに、腕を組んだまま冷たく言い返す。
不法侵入者を相手にこんな傲慢な態度を取ってしまっていいのかとも思う。
しかし不思議なことに、この男は危険な存在だとは感じなかった。
「そうでしたね、申し訳ありません。では……」
男は並べられた高価な品々を一瞥すると、こちらに向かって大きく一歩踏み出した。
距離が一気に縮んだことで、緊張のあまり全身に力が入る。
「あなたを俺にください」
あまりに単刀直入な口ぶりに、私は思わず目を瞬かせた。
男は自身のフードへと手をかけ、今まで隠されていた男の顔が露わになる。
現れたのは、泥棒とは到底思えない高貴な姿だった。
涼しげな目元と整った顔立ちは、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しい。
「こうしてご挨拶できる日を、ずっと夢見ていました」
私と目が合った男は、どこか嬉しそうに目元を細めた。
「セレディア帝国ラディア公爵家、クロード・ラディアと申します」
ニコッと爽やかに笑った男が告げた名前に、一瞬で頭が真っ白になる。
セレディア帝国は、このルミエール王国と国境を接する大国。その中でもラディア公爵家といえば、皇族にも並ぶほどの権勢を誇る名家だ。
当主のクロード・ラディア公爵といえば皇太子の従兄弟でもあり、若くして非常に優秀な男だと、その名はこの国にまで届いていた。
そんな有名人が、どうしてこんなところにいるのよ?
あまりに理解の追いつかない状況にただ茫然としていると、男は困ったように眉尻を下げた。
「まさか護衛が一人も付いていない部屋が、令嬢の私室だとは夢にも思っていなかったのです」
「そ、そういう問題ではありません!」
その言葉でようやく我に返った私は思わず声を上げた。
本当に私の部屋にきたのが偶然だったとして、そもそもどうして隣国の公爵が夜中に王宮に忍び込んでいるのよ!
恐怖が払拭されるほどの困惑に頭が支配され、私はただ混乱を堪えるために下唇を噛んだ。
「では、何でしょう?」
「そもそも、どうしてあなたのような方が……」
「あなたに俺と結婚してほしいと伝えるためです」
「……は?」
「王子との婚約を解消されたのでしょう? それなら、俺があなたに結婚を申し込んでも問題はないはずです」
真剣な眼差しでそう語る男に、私は弱々しく目を泳がせた。
深夜に私の元へ現れた理由は私に婚姻を申し込むため?
この男は何を言っているの……?
「あなたが本当にセレディア帝国の公爵だというなら、あなたの妻になることを願う令嬢は大勢いるでしょう」
「あなた以外の人間と添い遂げるつもりはありません」
「何を……」
この男は、会ったばかりの私にどうしてそんなことが言えるのだろう?
額に傷が残った。たったそれだけのことで、私は王子の婚約者の座から下ろされた。
私の価値など、その程度に過ぎなかったのだ。
傷モノになってしまった私が悪い……そんなことはよく理解している。
だからこれから先の未来が暗く沈んだものだということも理解しなければならない。そう覚悟を決めたばかりなのに。
それなのに、どうしてそんなことを言うのよ?
この男と私は今初めて出会った。彼が私に恋情という名の好意を抱いているとは到底考えられないだろう。
だから、なぜ彼が私に結婚を申し込んできたのかまるで理解できなかった。
「どうして、私なんかを……」
震える声で問いかけた私に、彼は少しの迷いも見せることなく答えた。
「あなたの顔が好きなのです」
「……は」
自分でも一体どんな言葉を求めて訊いたかはわからないが、これではないことだけは確かだ。
あまりに予想外の答えに目を瞬かせることしかできない。
容姿を褒められることは今までに何度もあった。
美しい、可憐だ、王子の婚約者として相応しい――そんな言葉は物心がついた頃から嫌というほど聞かされてきた。
だけど真正面から「顔が好き」と言われたことは一度もない。
「これ以上ないくらい好みの顔でした。昔、皇太子殿下のもとへ送られてきたあなたの肖像画を拝見したときから……この世にいる女性の誰よりも、あなたの顔が好きです」
「私の顔が好きだというのなら、尚更理解ができません。この顔は既に傷モノになってしまったのですよ」
「初めてあなたの肖像画を見て以来、あなたに関する情報をかき集め続けました。そうするうちに、色々なことが分かってきたのです」
私の顔が好きで私のことを調べていたなんて、どう考えても頭のおかしい。こんな男の言葉を聞き入れては絶対にダメだ。
そんな思考とは反対に、彼の口から発せられる言葉は私の何かを確かに強く揺さぶっていた。
「表向きは聡明で優秀だと言われている第二王子が、実際には自分の仕事を婚約者に押し付けているだけの、どうしようもない人間だということ」
熱のこもった目元が、柔らかく細められる。
「そして、あなたが決して見た目だけの美しい花ではないことも」
花。令嬢という名の、王子を飾るための美しい花。
こんな怪しい男の言葉に耳を貸してはいけない。
この男は私を騙そうとしているに違いない。
「あなたを妻に迎えるためなら、他国へ忍び込むことさえ厭わないほどに、俺はあなたに熱烈な恋情を抱いてしまいました」
この男はおかしい。まともじゃない。
口から出るすべてが出まかせだった方がまだ信じられるというもの。
私は彼から視線を逸らすと、何かを堪えるように下唇を噛んだ。
胸の奥で、燃え盛る何かが這い出ようともがいている。
"あなたが決して、見た目だけの美しい花ではないことも”
それは、私が長年渇望していた言葉だった。
私を騙し、地獄へ引きずり込むための甘い言葉なのかもしれない。
だけど私は今、地の果てに這いつくばる愚かな存在だ。
王子から婚約破棄を言い渡され、他の縁談も期待することができず、ルドヴィカの教育係として今後もずっと王子に使われる人生なら……。
「……いいわ」
やっとの思いで出した言葉は、みっともなく震えてしまっていた。
気付かぬうちに頬を伝っていた涙を乱暴に拭い、品のかけらもなく鼻を啜って男を睨みつける。
「あなたの妻になってあげる」
目を真っ赤にして泣きながら傲慢に言い放った私の姿は、きっとこの世で最も惨めだろう。
ほんの数週間前まで、社交界の一の花と呼ばれた令嬢だとは、とても思えない姿。
それでも男は――クロードは満足そうに微笑むと、私に手を差し出しながらこう言った。
「歓迎いたします」
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
私とセドリックの婚約解消が公にされてから、すぐにラディア公爵家から結婚の申し出が届いた。
いつの間に話を通していたのか、この件を知っていた両親は意外にも大喜びだった。
セドリックは王子とはいえ第二王子。将来的には彼の兄である王太子が国の跡を継ぐ。それを思うと、自身の子を第二王子の妃とするより隣国の公爵夫人にした方が良いと考えたのだろう。
面倒な娘を家に置くことにならず、安堵しただろうか。
そんな皮肉的な考えを振り払うように馬車の椅子から立ち上がった私は、王室の大広間へと向かった。
会場の入り口に立つと、大扉を開くために立っている二人の衛兵が驚いたように私を見た。
今夜この場では、セドリックとルドヴィカの婚約を祝う宴会が開かれている。
つまり、今最もこの場にそぐわない人間が私だった。
元婚約者が、現婚約者の元へ行くなど、彼らが不安に思っても仕方がない。
婚約を解消された腹いせをするために、私が会場をめちゃくちゃにしにきたとでも思っているのだろうか。
「何をしているの? 私は正式に招かれた客人よ。分かったら、すぐに自分たちの仕事を全うして」
懐から取り出した王家の金印が押された招待状を見せつけてそういうと、彼らは慌てて声を張り上げた。
「リゼット・ロザベール侯爵令嬢、ご入来!」
二人がかりで大扉が開かれ、私は誰にエスコートされるわけでもなく一人で会場へ足を踏み入れた。
今日、私は婚約破棄の公表後、初めて社交界に足を踏み入れる。
セドリック王子とは、クロードとのあの夜以来一度も会っていない。
それはあの後、クロードが手配してくれた馬車に乗って実家である侯爵家に帰ったからだった。
クロードはすぐにでも共に公爵邸にきてほしいと言ってきたが、私は首を縦に振らなかった。もちろん、すべてを任せて逃げてしまう方が楽なんだろうけど……。
『これ以上、彼らに振り回される必要はないでしょう』
『ですが……私が自分で蹴りをつけなければ、一生後悔する気がするのです』
少し前までは第二王子の妃となるべく毎日を送っていたのに、隣国に渡り、公爵夫人になるという実感は正直まだ湧いてこない。
だけど、セドリックと違って私の意思を尊重し、了承してくれた彼はとても優しい人……なのだとも思う。かなり変な人ではあるけれど。
とにかく今の私のやるべきことは、この狂った人たちと区切りをつけること。
過去の苦しい記憶を払拭して、前を向いて生きていくために。
「リゼット嬢……なぜ彼女がここに?」
「第二王子と婚約を解消され、あのラディア公爵と婚約されたという話は本当なのか?」
「ですが、リゼット嬢は額に傷を負われたのですよね? それなのに公爵夫人になど……」
好奇心に染まった瞳が一斉に向けられる。
口々に囁かれる噂にうんざりして、思わずため息が出そうになる。
化粧を施したおかげで目立ちはしないだろうが、それでも歩くたびに揺れる前髪が気になってしかたない。
「リゼット様」
突然、私の目の前に立ちはだかったのは、愛らしい笑みを浮かべたルドヴィカ嬢だった。
「……ルドヴィカ嬢」
「わあ、本当に来てくださるなんて感激ですわ」
「せっかくルドヴィカ嬢が直々にお招きくださったんですもの。当然です」
「私やセドリック王子に何も言わず、突然侯爵家へ帰られてしまわれたから心配していたんですよ。それに、何だか変な噂まで立ってしまっているようで……」
「変な噂ですか?」
「はい。リゼット様が隣国のラディア公爵殿とご結婚されるという、根も葉もない噂です」
「まあ。既にルドヴィカ嬢のお耳に入っているとは、驚きましたわ」
「……はい?」
私の返答が予想外だったのか、ルドヴィカの笑顔がわずかに強張った。
「では、この話は事実なのですか?」
「ええ、もちろんです。本日はそのことをお話しするために参りました」
できるだけ穏やかな声でそう告げると、ルドヴィカ嬢は見る見るうちに顔色を変えていった。
「ま、待ってください。それじゃあ、一体誰が王子の仕事を……!」
悲鳴にも似た声が上がった瞬間、その言葉を遮るように背後から低い声が響いた。
「何だと?」
聞き慣れた声に振り返ると、そこにはセドリックが立っていた。
「セドリック王子。お元気そうで何よりです」
口ではそう告げながら、久しぶりに目にした彼の姿をじっと見つめる。
いつも自信に満ち溢れ、生き生きとしていた顔には疲労の色が濃く浮かび、目の下には薄っすらと隈まで刻まれている。
少し見ないうちに、随分と老け込んだみたいだけど……。
「リゼット、今の話は本当なのか。お前が隣国の公爵と婚約したという話は……」
かつての私なら、彼の困った顔を見るだけで、どうにかして力にならなければと思ったことだろう。
婚約者として、彼に尽くさなければと。
「お二人とも同じことを仰るなんて本当に仲がいいのですね。ええ、公爵様から婚姻を申し込まれたので了承しました。お二人のように仲睦まじい夫婦になれると良いのですが」
「侯爵家に勝手に帰ったかと思えば、隣国の公爵と結婚するだと? お前、一体誰の許可を得て……」
「王子が何を仰りたいのか私には理解ができません。今まであなたの言葉に従ってきたのは、あなたが私の婚約者だったからです。ですが今は、私たちは何の関係もありません。ですから私があなた個人の命令に従う義理はないでしょう」
婚約者でもないのに、それでも私をまだ酷使しようというの?
「あなたが国王陛下ならまだしも……」
顎に手を添えて意地悪くそう言うと、セドリックの表情が一層険しく歪んだ。
「お前、よくもそんなことが……!」
私は満足げに口角を上げて彼を見上げる。
そうよ、あなたはいつだって自分の理想にそぐわないことが起これば子供のように我儘を言い、横暴に振る舞った。
それこそがあなたの醜い本性よ。
『今まで僕を飾る花となってくれたこと、感謝するよ』
顎で使っていた元婚約者に感謝を告げたりしない。
いつまでも人を自分の所有物として扱い、自分の気に触ることがあればすぐに声を荒げる哀れな王子様。
私はあなたのことが、心の底から嫌いなの。
「王子、あなたにはこの私が……」
顔を青ざめさせたルドヴィカが、割り込むように口を挟んでセドリックに手を伸ばした。
しかし、その手がセドリックに触れるよりも先に勢いよく振り払われる。
「お前がまともに仕事ができないから言っているんだろう!」
「わ、私は……」
「リゼット、すべてお前のせいじゃないか。お前が傷モノになどならなければ、こんなことには……!」
怒りに顔を歪ませながら伸ばされたセドリックの手が、私の目の前まで迫り寄る。
その手が触れた瞬間に叫び声でもあげてやろうかと企んだ、その時だった。
「セドリック・ディ・ルミエール」
美しくも威厳ある女性の声が会場に響き渡る。
その場にいた全員の視線が、その声の方へと集まった。
「母上……?」
そこに立っていたのは、セドリック王子の実母であるルミエール王国の王妃だった。
「彼女への言葉、このわたくしが確かに聞きましたわ」
そういうと、王妃は自身の腹に両手を添えた。
「お前の母は、お前を産む際に腹を切りました。ここには彼女とは比べものにもならないほど深く醜い傷跡が残っています。わたくしは、それだけで王妃の座から引き摺り下ろされる存在になるのかしら? 傷がついた女は、価値がなくなってしまうのかしら」
「母上、僕はそんなことを言っているのでは……」
「黙りなさい! 少なくともお前の父である国王陛下は、そのように愚かなことを言いはしなかった! 一体お前はどうしてそうなってしまったのか……」
頭を抱えた王妃が、呆れたように息を吐き出す。
「みっともない姿をこれ以上晒すつもりですか。今日から一月、お前に謹慎を命じます。いいですね」
断固たる声でそう言った王妃は、後ろに控えていた従者に視線で合図する。
「待ってください、母上! 誤解です! おい、お前たち、この手を離さないか!」
「王妃様のご命令です。どうかご理解ください、第二王子殿下」
「ま、待って、セドリック王子!」
王妃の従者たちに両腕を取られ、半ば無理やり会場の外へ連れ出されていくセドリック。その後をルドヴィカ嬢が慌てて追いかけていく。
あまりにも予想していなかった展開に、私は思わず肩に力を入れた。
つい先ほどまで、あれほど騒然としていた会場が嘘のように静まり返っている。誰もが何かを口にすることを躊躇うように、王妃と私の様子を窺っていた。
そんな視線など気にも留めない様子で、王妃は私へ向き直る。
「リゼット嬢。本当にごめんなさいね」
周囲の様子を一度だけ確かめるように視線を巡らせると、王妃は艶やかな笑みを浮かべ、私の手をそっと握った。
「あの子があなたを婚約者に選んだと聞いたときから、わたくしは、あなたならあの愚かな息子を良い方向へ引っ張ってくれると信じていたわ」
「王妃様……」
「そして、あなたはわたくしの想像以上に頑張ってくれた。それなのに……こんなことになってしまって本当にごめんなさい」
穏やかに向けられるその言葉を聞きながら、私は王妃の顔をじっと見つめた。
少し前の私なら、きっと感激のあまり涙を流していたことだろう。
誰にも見てもらえていないと思っていた努力を王妃が認めてくださったのだと思えば、それだけで救われたような気持ちになっていたはずだ。
さすがは王妃の座にまで上り詰めた女。
どれだけ穏やかな笑みを浮かべていようが、発せられる言葉のすべてに裏がある。隣国の公爵の妻になる私とより良い関係を築いていたいだけなのだろう。
だけど、彼女もまた私と同じように妃教育という名の厳しい日々を耐え抜いてきたのだ。
「あなたは本当に素晴らしい令嬢だから、きっとセレヴィアでも上手くやっていくのでしょう」
この世のすべてを手にした女に、若き日の苦い思い出が残っているかはわからないけれど……。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
それから、あっという間にすべてが進んでいった。
王妃様の登場によってどうにか収拾がついた婚約発表パーティーを後にし、私はその日のうちに実家であるロザベール侯爵家を出た。
別れ際、これまで私に関心すら払わなかった名ばかりの家族が、取って付けたように案じる言葉をかけてきた。
だが、それらの言葉を聞いても私の胸に湧き上がるものは何もない。悲しみも寂しさも、今の私にはもう残っていなかった。
そうして身を寄せたラディア公爵家で私を出迎えてくれたのは、これまで過ごしてきたどの場所よりも穏やかで、あたたかな空気だった。
クロードは一体どこで調べ上げたのか、屋敷へ到着するなり、私の大好きな花々が咲き誇る庭園へと案内してくれた。
色鮮やかな大輪の花々に思わず目を輝かせていると、彼は愛おしそうな眼差しで私を見つめ、静かに指輪を差し出してきた。
私は少しの迷いもなく、その指輪を受け取った。
こうして私は、正式にラディア公爵夫人となったのだ。
それと同じ頃、セドリック王子もまた、正式にルドヴィカ嬢を妃として迎えたらしい。
『ま、待ってください。それじゃあ、一体誰が王子の仕事を……!』
パーティーの際、悲鳴を上げていたルドヴィカ嬢の言葉が頭をよぎる。
これまで私に自身の仕事を押し付けていたセドリックは、案の定、今度はその一切を彼女に頼るようになったという。
当然ながら、教育すら満足に受けていない彼女にこなせるはずもない。
セドリックはきっと、私がこのまま婚約者を失い、傷モノとして城の職員か何かに納まると高を括っていたのだろう。そうして手元に置き、これまで通り都合よく仕事を押し付け続けようと企んでいたに違いない。
その後しばらくの間、セドリックとルドヴィカから私宛てに支離滅裂な説得の手紙が何通も届いていた。だが、それもいつしかぴたりと途絶えた。
自分たちの愚かさに打ちのめされて諦めたのか、あるいは王妃様の手によって厳しいお咎めを受けたのか。その真相を知る必要もなければ、今さら気にするつもりもない。
もう、私には私の人生があるのだから。
そして今の私の思考を占めているのは、かつての婚約者でも、生まれ育った侯爵家でもない。
私の心をすべて奪っているのは夫――クロードだった。
いつの間にか、私は彼に好意を抱いていた。
今では彼のことを考えるだけで胸の奥が温かくなり、顔を合わせれば自然と頬が緩んでしまう。
だからこそ、時折ふと疑問に思うことがある。
どうして、この人はこんなにも私を好きでいてくれるのだろう。
一度も会ったことのなかった私のことを、クロードはずっと想い続けていたという。
彼が目にしていたのは、隣国へ送られた一枚の肖像画と、裏で調べ上げたわずかな情報だけだったはずだ。
一体私の何が、彼の心をここまで掴んで離さなかったのだろうかと――。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「皇太子殿下、公爵がお見えになられました」
従者の報告を受け、執務机で書類に向かっていたセレディア帝国の皇太子は、顔を上げることなく「入れ」と短く告げた。
ほどなくして重厚な扉が開き、姿を現したのは、彼の従兄弟にあたるクロード・ラディア公爵だった。
皇太子はペンを置くと、入室してきた従兄弟をいかにも不機嫌そうに睨みつける。
「お前が僕のもとへ届いたリゼット嬢の肖像画を譲ってほしいと言い出した時から、なんとなくこうなることは予想していたが……。まったく、隣国の愚かな王子が自ら手放してくれたおかげで国際問題にならずに済んだからよかったものを」
呆れを含んだ声で眉を寄せる皇太子に対して、クロードは気にした様子すら見せない。
それどころか、いつもの人好きのする笑みを浮かべたまま、悠々とした足取りで彼の前まで歩み寄った。
「おや。驚かれないのですね」
「驚く?」
「ええ。殿下には何も告げず、勝手に婚姻を決めてしまったのですから。少しくらいはお小言を頂戴する覚悟をして参ったのですが」
「フン。お前は昔から一度欲しいと決めたものは、どんな手を使ってでも手に入れる男だからな」
「さすが殿下。聡明なる従兄弟殿の深いご理解に心より感謝申し上げますよ」
心底呆れたように息を吐いた皇太子は、椅子の背もたれに深く身体を預けると、改めて目の前の従兄弟を見つめた。
「わざわざ隣国へ忍び込み、王子の元婚約者を奪い去るような真似までしてこちらへ迎えるとは」
皇太子の視線が、どこか探るような鋭さを帯びる。
「お前にとって彼女は……それほどまでに特別な存在なのか?」
「もちろんです」
クロードは一切の迷いもなく即答した。
ゆっくりと瞼を閉じれば、脳裏に鮮やかに蘇るのは、今よりずっと幼かった頃の記憶。
皇太子の外交に同行するという名目で、他国の街を巡っていた頃のことだった。
慣れない土地を訪れ、どれほど珍しい景色を目にしても、当時の彼の心は暗く冷たい沼の底に沈んだままだった。
幼い自分が何をそこまで絶望し、憎んでいたのか、今となってはもうはっきりと覚えていない。
ただ、子供の小さな体には抱えきれないほどの孤独を抱えていたことだけは鮮明に覚えていた。
そんな彼の前に一人の少女が現れた。
彼女は少年に、陽だまりのように柔らかな笑みを向け、一輪の花を差し出してきた。
『生きていれば、やりたくないことをやらなければならない時があるわ。でも、たとえどれほど苦しくても、いつも笑顔でいないと』
彼女の優しさが、どれだけ彼に影響を与えたことか。
あの日からずっと、彼は彼女の幸せを願い続けた。
そして同時に、何がなんでも彼女を自分のものにしたいという渇望を抱いた。
クロードはゆっくりと顔を上げると、皇太子へ穏やかな笑みを向けた。
「彼女は決して枯れることのない、永遠に美しく咲き誇る花ですから」
【追記】どうしても書き切れなかった部分があるので連載版を作りました!そこまで長くはならない予定です。ぜひそちらもよろしくお願いします。
書きたいものが渋滞してしまったような気もします。
リゼット自身はクロードと会ったことを全く覚えていません。
彼女にとって幼少期からの日々は辛く悲しいことばかりだったため、生存本能が働いて当時の記憶がほとんど消えてしまっています。
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