第1章悪定義(イル・デファインド)な世界
この世界は、数学的に醜い。
それが、私の――いや、辺境の貧乏男爵家の三男、アレンとしての最初の感想だった。目の前で、赤毛の少女が杖を振り回している。彼女の唇が紡ぐのは「燃えよ、灼熱の炎よ、我が敵を焼き尽くせ」という、あまりにも冗長で、非効率的で、美しさの欠片もない詠唱だった。
直後、杖の先からボゥッと火の玉が生じた。歪だ。球体ですらない。熱力学的な散逸が激しく、目標に到達する前にエネルギーの四割をロスしている。あんなものは魔法ではない。ただの計算ミスだ。
「……ひどい発散だ」
私は思わず、前世からの癖でそう呟いていた。
私の前世は、しがない数学教授だった。大学の薄暗い研究室で、チョークの粉に塗れながら、リーマン予想の先にある未踏の荒野を彷徨っていた。食事も忘れ、睡眠も削り、ただ「真理」という名の解を求めていた。死因は過労死。実にあっけない幕切れだった。証明のクライマックス、あと数行でQ.E.D.(証明終了)が書けるというその瞬間に、心臓が悲鳴を上げ、視界がブラックアウトしたのだ。
未練がないと言えば嘘になる。だが、神という名の乱数生成器は、私に奇妙な「解」を与えたらしい。気づけば私は、この中世ヨーロッパ風のファンタジー世界で、五歳の子供として目覚めていた。
「アレン?何ぼーっとしてるのよ!ゴブリンが来るわよ!」
少女――幼馴染のリシアが叫ぶ。ここは領地の森の浅い場所だ。子供の冒険ごっこのつもりだったが、運悪く本物のゴブリンと遭遇してしまったらしい。緑色の小鬼が、錆びたナイフを振り上げて迫ってくる。距離は15メートル。リシアの放った「歪な火の玉」は、緩慢な軌道を描いてゴブリンの遥か右側を通過し、虚しく木の幹を焦がした。
「外しちゃった……!もう一回!母なる大地よ、猛き炎を――」
遅い。ゴブリンの走行速度を秒速6メートルと仮定。リシアの詠唱完了まで約5秒。接触まで残り2.5秒。間に合わない。物理的に、詰んでいる。
リシアの顔が恐怖で歪む。私はため息をつき、一歩前へ出た。恐怖はない。あるのは、目の前の現象に対する純粋な解析欲求だけだ。
この世界の魔力とは何か。転生してからの五年間、私はそれを観測し続けてきた。結論から言えば、魔力とは「波動関数」だ。空間に偏在するエネルギーの波。リシアたち現地の人間は、それを「イメージ」や「感情」という曖昧なトリガーで励起させ、現象化している。だから精度が低い。感情などという不確定な変数に依存しているから、出力が安定しないのだ。
だが、波であるならば。それは解析学の支配領域だ。
(距離、10メートル。対象の質量、約30キログラム。風向、北北西より微風)
私は右手をかざす。詠唱はいらない。必要なのは厳密な定義と、計算だけだ。
「座標固定。対象空間の酸素濃度を局所的に増大。熱源、圧縮」
脳内で数式を組み立てる。フーリエ変換により、周囲の雑多な魔力ノイズを周波数分解。必要な波長だけを抽出し、再合成する。イメージするのは「火」ではない。分子運動の激化。運動エネルギーの収束。
指先に、ピンポン玉ほどの大きさの「点」が生まれた。色は赤ではない。完全燃焼を示す、透き通るような青白さ。
「収束」
呟きと共に、指を弾く。青白い光弾は、リシアの魔法とは比較にならない初速で射出された。空気抵抗を最小限に抑える流線形の弾道。一切のブレなく、ゴブリンの眉間に吸い込まれる。
パンッ。
乾いた破裂音。ゴブリンの頭部が一瞬で炭化し、その体躯が慣性に従って数メートル滑り、私の足元で停止した。
静寂。森のざわめきだけが、耳に残る。
「え……?」
リシアが杖を取り落とし、呆然と私を見ていた。「今、なに……?詠唱、してないよね?それに、あの青い火……」
「ただの燃焼反応だ。効率を最大化させれば、あんな色になる」
私は手のひらの煤を払いながら答えた。完璧ではない。脳内計算のラグが0.2秒あった。テイラー展開の近似精度をもう少し上げるべきだったか。この幼い脳のスペックでは、高次計算に負荷がかかるらしい。
「アレン……あんた、魔法の才能ないんじゃなかったの?魔力測定で『測定不能』って言われてたじゃない」
「ああ。僕の魔力量は『極小』だからね」
この世界の測定器は、総量しか見ていない。だが、解析学において重要なのは量ではない。いかにして無限小の力を扱えるか、いかにして特異点を制御できるかなのだ。
「帰ろう、リシア。事後処理が面倒だ」
私は背を向ける。この世界は数式で満ちている。風の揺らぎも、光の屈折も、魔力の奔流も。すべては解ける。前世で証明しきれなかった真理を、この世界でなら見つけられるかもしれない。
この時、私はまだ知らなかった。自分のこの「論理」が、やがてこの世界の常識を覆し、神々の定めた理さえも書き換えてしまうことになるなどとは。




