エピローグ
白い世界の中を、僕は漂っている。
意識があるようでないような、不思議な感覚だ。
手足の感覚もない。
もうろうとした意識が体よりもずっと深いところにあって、じょじょに上方へと上がっていく。
この感じ、以前にも経験したことがある。
異世界へと転移したとき、あのときと同じだ。
ただ一つだけ違うのは、感覚がないはずの僕の左手のあたりに、確かな温かさを感じること。理屈抜きで、わけもなく安心できる温もり。
白い世界が突如、パチンと弾けたように思った。僕はそこで覚醒した。
僕は、公園の芝生の上に横たわっていた。
知っている場所だ。事故現場からほど近い、児童公園だ。
正確な時刻はもちろんわからないけれど、建物の合間から見える東の空が、うっすらと白みかけている。夜明け前の時間帯だ。空の色は黒から群青へと移り変わろうとしていて、太陽に主役の座を明け渡さなければならない星がいくつか、名残惜しそうに今夜の最後の光を放っていた。
確信した。僕は帰ってきたのだ。僕が生きるべき世界へ。
首を左に向けてみる。すぐ隣には、ジーナが並んで横たわっていた。僕の左手は、ジーナの右手を握ったままだ。
ジーナも目を開けた。顔を右に向けて、僕を見る。
僕たちはシンクロしたように、同時に起き上がった。
「ここが、ユートの世界……」
「うん。間違いない。戻ってきたんだ。ジーナ、体はなんともない?」
「大丈夫」
少し離れた場所に、光がともっていた。そこからは、機械音が聞こえる。
光は投光器、音はたぶん、重機の音だろうとすぐに判る。事故現場で、夜を徹しての救助作業が続いているのだ。つまり今は、僕が遭遇したあの事故の翌朝か、せいぜいその翌日か、それくらい。
半年以上も異世界で生活してきたのに、この世界ではたった一日か二日しか経っていない。不思議な感覚だった。
「ユート、あれはなに?」
ジーナが指さす先には、ジャングルジムがあった。そういえば、ジーナの世界には子供用の遊具なんてなかった。
「あれは子供が遊ぶための……」
そう答えかけて、奇妙なことに気づいた。
僕に背中を向けたジーナのバックパックが、淡く光っている。バックパック自体が発光しているのではなく、中から光が漏れている。
「ジーナ、バックパックが」
僕が指摘すると、ジーナはバックパックを降ろし、中を開けた。
「どう? なんか、おかしいところは?」
「船長のIDカードが無くなって、見覚えのない物が入ってる。なんだろう、これ」
ジーナが取りだしたのは、手帳のような物だった。
濃紺の地に、中央に紋章のような図案が描かれている。そして紋章の上部には大きく「PASSPORT」の文字、紋章の下には「United States of America」の文字。
「これ……アメリカのパスポートだ」
「ぱすぽーと?」
「開いてみて」
ジーナが恐る恐るといった手つきで、パスポートを開いた。
中は上下見開きで、ハクトウワシの絵が背景に描かれている。なぜか撮ったはずのないジーナの顔写真がそこにあった。名前欄には英語で、「ジーナ・ビクトリウス」とある。
「わたしそっくりの人の顔。どういうことなの」
困惑するジーナに、僕は答える。
「世界が、つじつまを合わせたんだ。ジーナはこの世界の住人だと、世界が認めたんだよ」
時代の合わない船長のIDカードと、それを所有しているジーナの存在。それらを勘案して、この世界は「ジーナ名義のパスポート」という形に変性してつじつまを合わせ、矛盾が起きないようにしたのだ。
ジーナにカードを渡すとき、船長は「ちょっとした実験」だと言っていた。こうなることまで予測していたとは思えないけど、パスポートを所持していれば、身分証明になる。結果的に、実験は大成功だったのだ。
しかも、ジーナには苗字が与えられた。船長と同じ苗字だ。
僕はふと思う。
船長の家系は、ちょうどこの時代に始まったらしい。アメリカ国籍で、ビクトリウスのファミリーネームを持つジーナ。もしかして、ジーナは……いや、さすがに考えすぎだろうか。
地平から、一条の光が差した。
夜が明ける。
「ジーナ。僕の世界へ、ようこそ」
僕らは、この世界で生きていく。
僕たちのこれからを応援するかのように、朝日は世界を、僕らを、眩しく照らしていた。
『ロブスター号航海記』 了




