第1話 弾けない
「はぁ〜〜っ……」
グランドピアノの前に座った花蓮は、鍵盤から指をおろし、開いた楽譜を前に大きく溜息をつく。
「だめだ…弾けない…ていうより、弾く気が起きない…」
花蓮は譜面台に腕をのせ、その上に顔をゆっくりと横たわらせる。
「演奏会の日が迫ってるのに、やる気が起きない〜…」
花蓮は、ボコボコと小さい黒い穴があいた部屋の壁をじっと見つめる。
グランドピアノが置かれているこの部屋には、防音設備がなされていて、壁の黒い穴も消音のためにあいている。
とはいっても、一軒家の一室を防音等に整備しただけなため、完璧に防音できているわけではなく、家の外には多少なりとも音漏れはしてしまう。
「花蓮ちゃ〜ん。お隣の西くんが来たわよ〜」
1階にいる母親が、階段下から可愛らしい声で花蓮を呼ぶ。
「はぁ〜い、今行く〜」
花蓮は椅子から立ち上がり部屋のドアまで歩いていくと、ゆっくりとドアをスライドさせ部屋を出る。
そして、すぐ横の階段をぐるぐると回って降りて行く。
降りた先には可愛らしいフリルがついた洋服を着てニコニコしている母親、そして玄関には黒髪で長身の男性が1人。
「…お隣の西くん、こんにちは〜」
「…なんだ、その白々しい挨拶は。いつもみたいに、涼太って呼べよ」
花蓮と涼太のやり取りを見ていた母は、ニコニコしながら、ふふふと楽しそうに笑う。
「西くん、良かったらお部屋に上がって。あとで飲み物持っていくわね」
母はそう言うと、嬉しそうにリビングのドアを開け中へと消えていった。
「どうぞ、上がって。それにしても、付き合ってない、いい年齢の女性と男性が同じ部屋にいくっていうのに、何も心配しないうちの母は、大丈夫なのかな」
「いや、まぁ…そうだけどさ、俺のことを昔から知ってるから、ってのもあるんじゃないか?花蓮の母親とうちの母親も仲良いし、あんまり気にしてないのかもしれないな」
涼太は靴を脱ぎ揃えると、玄関ホールにいる花蓮の正面に立つ。
花蓮は、目の前の涼太をマジマジと見上げる。
花蓮は女性の平均的な身長であるのに対し、涼太は平均的な男性の身長より10cm以上高い。人混みにいても、頭一つ出ているくらいに長身だ。
それでいて、黒髪に切れ長でセクシーな目つき、そして端正な顔。
幼馴染で子供の頃から知っている自分ですら、大人になった涼太は、かっこいいと思う。
実際、幼い頃からモテてていた。
「彼女とか、まだできないの?」
花蓮は螺旋階段を上り2階に向かいながら、振り返り涼太に話しかける。
「いない。それ、前も言っただろ」
階段を上る花蓮の後に続く涼太が、背後で低い声でかったるそうに言う。
「ふ〜ん。意外だよね〜モテそうなのに」
「…いいだろ、別にそんな話。それより、さっき練習してただろ。音が俺の家まで聞こえてたぞ」
「あ〜うん〜…してたんだけど…、でもなんか思ってた様に弾けなくて、ちょっと心折れちゃってた感じかな…」
花蓮は2階に上がると、ピアノ部屋のドアをスライドさせる。
部屋の奥にあるグランドピアノの前に向かうと、花蓮は楽譜をペラペラとめくり溜息をつく。
「どの辺りが上手くいかないんだ?」
涼太が花蓮の隣に来て立ち止まると、一緒に楽譜に触れる。
「この辺から、ここまで綺麗に膨らむように弾きたいんだけど、思い描いてるようないい感じに弾けないんだよね」
「あぁ、うーん、そうか…そしたら、俺とまずは合わせてみるか。俺と一緒なら上手くいくかもしれないし、まずはそのことは忘れて力抜いて俺と合わせてみよう」
「うん…」
浮かない顔で涼太を見上げると、涼太は優しく微笑む。
「そういう顔を、他の人にも、もっと見せればいいのに」
「え?」
「他の人と話すとき、涼太はずっとしかめっ面してるから、皆んな亮太のことちょっと怖いって思ってるよ。本当は違うって分かれば、もっと女の子の友達もできやすいよ」
「…別に友達になりたくて話すわけじゃない。無理に笑う必要ないだろ。そんな話より、合わせの練習だ、練習」
涼太は、キョロキョロと部屋中を見回す。
「えーっと、俺のヴァイオリンはどこだ」
「えっ、あれ?ピアノの隣に置いておいたんだけどな、あれ、どこだー…?…あっ、あった、あった、あそこだ!」
部屋にある、机の上に置いてあるヴァイオリンケースを指さす。
「お、さんきゅー。花蓮の親父さん、忙しいのに俺のヴァイオリンもなおしてくれて、本当優しいな。俺が感謝してたって、花蓮からも親父さんにお礼を伝えておいてくれるか。俺も今度会ったときに言うけど、親父さん忙しくてなかなか会えないし、メッセージ送ってもちゃんと読んでるか分からないしさ」
「うん、分かった、伝えとく〜」
「親父さん、今日は?」
「今日はどこだっけな〜どこかの県に行ってたはず。しょっちゅう飛び回ってるから、今どこにいるのか、分からなくなるんだよね〜」
「まぁ、仕方ないだろ。世界でも活躍する楽器リペアマンだから、色んな演奏家に呼ばれるんだろ。楽器の不調は、親父さんに見せれば一発だしな」
涼太は丁寧にヴァイオリンケースを開くと、そっとヴァイオリンを取り出す。
「おぉ〜すごいな。親父さん、新品同様に磨き上げてもくれたんだな。忙しいのに、さすがだ。ありがたいな」
涼太はヴァイオリンを両手で持ち上げると、愛おしそうに眺める。
嬉しそうな涼太を見て花蓮はクスッと笑うと、ピアノの椅子に座り楽譜をペラペラと最初のページまでめくり戻す。
「良かったね。私との合わせの前に、一度弾いてみたら?音の具合とか確かめたいでしょ?」
「あぁ、そうする」
涼太はヴァイオリンを肩に載せ真っ直ぐ立つと、目を閉じてゆっくりと静かに弓を引く。
そこから、徐々にアクセルを踏んでいき、早めの練習曲を弾いて調子を仕上げていく。
「いいね、完璧だ」
弾き終わった涼太は、唇の両端を上げてニヤッと笑う。
花蓮は嬉しそうな涼太を見て、自分もまるで一緒に弾いたかのような満足した気持ちになる。
「ふふっ、じゃあ、合わせよっか〜」
花蓮は楽譜に目をやったあと、涼太を見る。彼がヴァイオリンを構えて小さく頷くのを確認したあと、ピアノの鍵盤の上に手を置き弾き始める。
花蓮と涼太は同じ音楽大学出身で、幼馴染で家が隣同士の涼太とは、こうやって時々互いの家を行き来し、2人で練習をしたりする。
なぜなら、2人でアンサンブルとしてコンサートや、イベントに出ることがあるからだ。
家が隣同士ですぐに合わせの練習もできるし、専攻した楽器がピアノとヴァイオリンで、相性がいいのも奇跡的だ。
花蓮はピアノを弾きながら、涼太との演奏の呼吸を合わせるために、ヴァイオリンを真剣に弾いてい涼太をチラッと見る。
涼太は大学を主席で卒業しており、今もプロのヴァイオリニストとして活動をしている。
かくゆう花蓮も時々声がかかった演奏会にピアノソロで出たりもするのだが、それだけでは生活するには厳しく、一般職の事務員としても働いている。
(同じ大学を出ていても、現状は雲泥の差…)
曲を引き終えて、2人は共に楽器から手を離す。すると、涼太は花蓮をじっと見つめる。
「…花蓮、弾いてるとき、何か考え事をしてたか?」
「えっ、…な、なんで?」
涼太と自分の現状の違いに悶々として弾いていた花蓮は、心当たりがあり過ぎてドキッとする。
「いや、なんていうか、いつもと違った気がした」
「そ…そう?あ、あぁ、あれかな!上手く弾けない箇所のことが、まだ頭の中から抜けないのかも」
あはは、と笑って誤魔化す花蓮だったが、涼太はヴァイオリンを持ったまま訝しげな顔をして、ピアノの椅子に座っている花蓮に近付いてくる。
涼太は花蓮の正面に立ち背を屈めると、自分の顔を花蓮の顔に近付ける。
「なんか言いたいこととか、悩みとかあったら聞くから。俺に言えよ」
「うん、分かった、分かったけど、近いっ」
花蓮は顔を背け、涼太の両肩を押し自分から離す。
涼太が背筋を伸ばしたのを気配で感じ、花蓮は顔を向き直らせると、涼太は少ししてやったりといった風に微笑んでいた。
「まだ話たり、合わせの練習したりしたいが、この後、打ち合わせがあるから、悪いけど今日はこれで帰るよ。合わせの練習日については、またあとでスマホで連絡する」
「は〜い。あ、でもさっきお母さんが飲み物持ってくるって言ってたから、どうする、それは飲んでく?」
「いや、もう時間ないから、やめておくよ。下に降りたら、花蓮のお母さんに声かけてくよ」
涼太はヴァイオリンを背負うと、花蓮に向かって軽く手をあげ、部屋を出て行った。




