縁切り屋
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古都の巽のお社で
若い娘も大店からも
人気を集める繊月様
小さな社の鏡の奥から
詣でる人を見そわなす
小さな小さなそのお社は
人との縁を司る
「二日目の月」の光のように
願い叶う者ごくわずか
けれども、叶ったその時は
最上の縁で結ばれる
繋ぎたい縁があるならば
繊月神社の神様に
まずは願ってごらんなさい
叶うかどうかはあなた次第
神はあなたを見定める
・・・・・・・・・・・
縁結びの神社として有名な繊月神社のすぐ近くに、「薄月屋」という看板の店がある。縁切り屋だという噂があるが、人の出入りを見たという者は誰もいない。本当に薄月屋が縁切り屋なのかどうかも分からない。
それでもどうしても切りたい縁がある者は、その看板に近づく。そして、看板の隅に小さく書かれた文字に目を凝らす。
【本当に縁を切る気なら、繊月神社の神様に全てをお話ししてきなさい。繊月の神様があなたの話に興味をお持ちになった暁には、この店の戸が開きます】
まだ夜更けの時間に、この看板の文字を食い入るように見つめる娘がいた。着ている着物は随分とくたびれているが、紗綾形の織り地に友禅で大小紅白の捻じ梅が散らされた黒地の小袖は、誂えた当時はそれなりの品だったと思われる。
この娘、器量はよいが、何せ随分やつれている。着物と顔をよくよく見れば、明らかに着物の柄は子ども向き。十三参り前の身上げ肩上げした着物を解いて、この年までずっと着ているのではと思われる。袖や裾にはすり切れた所もあって、この娘が本来のこの着物に見合うような生活をしていないことが分かる。
娘は深夜繊月神社に出向くと、なけなしの一厘銅貨を賽銭箱にそっと入れた。そして、2礼2拍手のあと1礼すると掌をそっと合わせた。
「繊月神社の神様に申し上げます。私は日樫宿脇本陣「皓月屋」の娘、環でございます。どうか私の話をお聞きの上、私を縛る悪縁を切っていただけますよう、伏してお願い申し上げます……」
・・・・・・・・・・
皓月屋は、この古都から東にある最初の宿「日樫宿」にある脇本陣だ。本陣は、大名たちが参勤交代の時に泊まる宿。皓月屋のような脇本陣は、大名どうしで本陣での宿泊が重なった時に格下の大名が泊まったり、大大名の上級の家臣が宿泊したりするために用意された旅籠である。本陣は大名しか宿泊できないが、脇本陣の場合は大名が滞在していなければ一般の客も宿泊することができる。宿としての格は1つ下がるが、常に宿泊施設として稼働させることができるという長所がある。大名も泊まるような旅籠に泊まれるということで、富裕な商人が古都で宿を取れなかった時にはこぞって皓月屋を利用するほど、皓月屋は繁盛していた。
一人娘の環は、幼少時から将来の女将として厳しく躾けられてきた。常連客である大名の領地や特産品、殿の好みの食材や料理、布団や枕、挙げ句の果ては新都の正妻である奥様と、現地妻と言うべき領地の奥様の名前と好みまで覚えさせられた。
「心太に添えるのが黒蜜か酢醤油か、たったそれだけで無礼打ちされる事もあるんだ。知らずに失敗して殺されるより、どんな些細なことでも知っておけば長生きできるってものなのだよ」
父は皓月屋の息子として、真面目一筋に生きてきた男だった。母は古都の菓子司の娘であった。皓月屋の常連客であった、とある大名の「うまい菓子はないか?」というご要望に応えるため、父がその菓子司に菓子を買いに行き、お互い一目惚れしたという、なんとも情熱的な話まで残っている。
そんな父であったのに、たった一度の、しかし重大な失敗で首を刎ねられてしまった。その失敗とは、海老を料理に出してしまったということだった。その殿様は領地で海老を食べたところ、体が赤くなり、発疹が出て呼吸困難になったことがあった。その情報を殿様の側用人から事前に伝えられていたはずなのに、なぜが皓月屋の記録には「好物は海老」と書かれていたのだ。
その記録を見た料理長は、当然海老を使った料理を作った。毒味係も何も言わなかったので、そのまま殿様にお出しした。そして、椀の蓋を開けた殿様が海老を発見し、激高したのだ。
どうしてこんなことになったのか、調べても誰も分からなかった。この時代のことだ、当然のように拷問も行われた。だが、分からなかった。
大名相手に分からなかった、では済まないのがこの時代だ。父は責任を取る形で打ち首になってしまった。
母と環はひどく悲しんだ。悲しみの中で母は皓月屋を守るため、隠居していた爺様や同業者に相談した。だが、頼りになるはずの、守ってくれるはずの爺様からから告げられたのは、母と環にとって思いも寄らないことだった。
「再婚、ですか?」
青い顔をして母はうなだれた。母は皓月屋の女将である。女将まで変わってしまったら、皓月屋が回らない。そこで爺様は次男に白羽の矢を立てた。番頭として店を支えていた次男、母から見れば義弟と再婚させることで、血縁も繋いだままにしようという爺様の目論見だった。
そして環は、本陣「播磨屋」の次男長松の許嫁とされた。環と長松が成人したところで長松が皓月屋に婿入りし、長松が皓月屋を継ぐのである。3人男子がいる播磨屋から見れば男子を1人皓月屋に取られるが、皓月屋を支配下に置くことができるようになる。これは実に大きな利点だった。
本陣は、大名が泊まらない日は売り上げ0となる。宿の全ての旅籠が埋まっていても、本陣には泊められない。その点、脇本陣の皓月屋は常に収入がある。播磨屋は皓月屋と帳簿を一冊にまとめて、皓月屋の売り上げを播磨屋に回そうと考えたのだ。
それが分からぬ皓月屋の爺様ではない。だが、環の未来を考えると、ここで播磨屋と協力関係を結んでおく方がいいと判断した。苦肉の策だった。
環と長松が引き合わされた日、長松は環に石を投げつけた。播磨屋も爺様も慌てた。
「お前のせいで、俺は茜と夫婦になれなくなったんだぞ!」
環も長松も12才。来年十三参りを済ませれば、環は大人の着物を着るようになる。祝言は16才ということまで決められている。4年もあれば長松の気持ちも変わるはずだと播磨屋は言った。爺様も納得した。母だけが、この縁組みは止めた方がいいと爺様に訴えてくれた。だが、聞いてはもらえなかった。茜という娘が何者なのか、環は教えてもらえなかったが、長松にとって大切な女性なのだろうということだけは分かった。両親のような夫婦関係を夢見ていた環は、地獄に突き落とされたような気持ちになった。
やがて母と叔父が祝言を挙げ、環は母に近づけなくなった。新しく父となった叔父は、元々母に横恋慕していたらしい。母を傍から離そうとせず、環を疎んじるようになったのだ。母は爺様に訴えた。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「お前たち夫婦に男子が生まれれば、その子を後継者にすればいい。入り婿など他家につけいる隙を与えるようなものだし、環を後継者から外したほうが環も背負うものが軽くなっていいだろう」
「お待ちください、環はこれまでずっと後継者として育ててきたのです。それはあの人だって」
「うるさい、女のお前が口を出すことではない!」
その夜、母は環を抱いて泣いた。叔父が母を連れ戻しに来たが、母は断固として環の部屋から出ようとしなかった。
「お前がそういうつもりなら、俺にも考えがある」
次の日から、環は「皓月屋の娘」として扱われなくなった。身元がはっきりしている縁者とされ、家族の住む離れから使用人たちの住む棟へと移された。それだけではない、環に使用人として働くことを強要したのだ。
「これではあんまりです!」
母は爺様にも、新しい夫にも抗議した。だが、覆らなかった。
「ならば、離縁してください。環を連れて実家に戻ります」
「それは無理だな。もしお前が実家に行っても、絶対に敷地に入れるなと連絡してある」
「どういうことですか?」
「お前の逃げ場はないということさ」
物陰から聞いていた環は、皓月屋を飛び出した。そして、古都にある母の実家の菓子司に向かった。日樫宿は、元々古都に泊まれなかった客を受け入れるために作られた宿場である。古都までは2里(約8キロメートル)と比較的近くにあるから、環の足でも2時間半あればたどり着ける。環は走った。母を助けたかった。父が生きている時、母は父に、叔父のことを「怖い、気持ち悪い」と訴えていた。気安く触れてこようとすることもあり、父に注意されてふてくされていたのも知っている。爺様が母方の祖父に何かしたのだろうかと心配だったこともある。
昼前になって、ようやく環は母の実家にたどりついた。母の実家は、古都の入り口から更に半里(約2キロ)も上がった方にある。お公家さんたちが住む町に近く、公家からの注文も受けるような菓子司なのだ。
「ごめんください。お祖父様にご用があって参りました」
客がいないのを確認してから、環は菓子を店頭の箱に入れていた、まだ若い職人に声を掛けた。初めて見る顔だ。しばらく出入りしないうちに弟子入りしたのだろう。すっと鼻筋の通った、背の高い、人柄のよさそうな男だ。播磨屋の長松がこんな人だったらよかったのに、そう思った自分にドキリとした。顔が赤くなった。
「お祖父様?」
「私、日樫宿の皓月屋の環です。ここは母の実家なんです」
「分かりました、大旦那様にお伝えすればいいんですね?」
「はい、お願いします」
職人が奥に行ったので、環は邪魔にならないよう店の隅の方でひっそりと立っていた。
「環が来たというのは本当か?」
何をどうやって説明し、聞いたらいいのかと頭を悩ませていた環に、祖父の声が聞こえた。
「お祖父様……」
だが、環の顔を見ると、祖父は厳しい顔をした。
「敷地に立ち入ることは許さない。出て行きなさい」
「お願いです、話を聞いてください!」
「駄目だ、誰かこれをつまみ出せ!」
「お祖父様!」
使用人に「お願いですから、店で騒がないでください」とたしなめられて、環は店の外に出た。何度も来た、大好きな祖父母の家だった。このまま皓月屋に戻れば、何をされるか分からない。環は偶然とは言え黒地の柄足袋をはいていてよかったと思った。白足袋だったら、鼻緒とこすれた指の股が血だらけになっているのを、よそ様にみられてしまっていただろうから。
環は土埃が付いた着物の裾を払った。そして、裏口に回った。気づけば涙が出ていたので、涙を袂で拭った。そして歯を食いしばってお祖母様、と大きな声で呼んだ。
「お母さんが、このままでは潰されてしまいます! お母さんは毎日泣いています! お母さんを見殺しにするのですか!」
裏口の戸がそっと開かれた。出てきたのは、従姉の小百合だった。
「環ちゃん。あなたたち母子が皓月屋にご迷惑を掛けたといって、うちの店にまで皓月屋の爺様がいらして文句をおっしゃっていたわ」
「迷惑なんて掛けていないわ」
「でも、殿様のための覚え書きを書いたのは、皓月屋の叔母様だったんでしょう?」
「違うわ、お母さんは帳簿に触れないもの」
「おかしいわね、皓月屋の爺様がそう言っていたのよ」
「女に帳簿は見せてはいけないって爺様がいつも言っているのに、触れるわけがないじゃない」
「人目を盗んでやったんでしょ? 義理の弟と結ばれるために」
「何ですって! お母さんは叔父さんから言い寄られてずっと困っていたのよ?」
「ふしだらな悪女だから、都合よく話をすり替えるだろう。だから、何か言ってきても無視して、もうこの店の敷地内に入れない方がいいっておっしゃったのを、お祖父様も納得なさっていたわ」
「そんな! お母さんはそんな人じゃないわ」
「でもね、この家ではあなたたち母子のことはもういなかったことになっているの。助けを求めても無駄よ。帰りなさい」
ぴしゃりと裏門が閉じられた。中から笑い声がする。きっと小百合と伯母さんが笑っているのだろう。母が環を連れてこの家に立ち寄ると、伯母さんと小百合は「着ている着物が貧相だ」「化粧が野暮ったい」等と言いたい放題だった。
「うちはお武家さんにもお納めするけれど、お公家様とのお付き合いが基本だから」
暗に大名を貶すようなことを言ってしまう小百合と伯母さんのことが、環は苦手だった。言葉に気を付けないと足を掬われると注意すれば、「ほら、お武家さんは野蛮だから」と返すような人たちだ。もしかしたら、お祖父様もお祖母様も、そして誰より優しかった伯父さんも、あの2人に毒されてしまったのかもしれない。
環はもう一度だけ母の実家を振り返った。二度ともうこの店を見ることもないだろうと思うと切なかった。環は店に頭を下げた、暖簾の奥に、あの若い職人が見えた。環を心配そうに見ていたが、さっと店を飛び出してきた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「誤解があるようなのだけれど、誤解をどうしたら解けるのかも分からなくて……」
「いつかきっと真実が明らかになります。それまで、辛抱してください」
「ええ、そんな日がくるといいのだけれど」
環は男に「さようなら」と言ってお辞儀をすると、日樫宿へと重い足を引きずりながら戻った。
日が沈む前に戻った環に、爺様と叔父は「どこへ行っていたのか」と詰問した。父のお墓に行っていたと言えば、2人はそれ以上何も言わなかった。
だが翌日から、環は問答無用で使用人として働かされた。新しい着物を誂えることもなく、習い事も全て辞めさせられ、親しくしてきた友人たちとも会わせてもらえなくなった。せめて手紙のやりとりをと願ったが、環の状況を外に人に知られたくなかったのだろう、手紙は全て取り上げられて環の元には届かず、環が出そうと人に預けたものも叔父さんに破り捨てられた。母の顔は、あの日以来見ていない。使用人の話によると、跡継ぎを産むことが仕事だと言われ、部屋に監禁されているらしい。
播磨屋の長松との縁談がどうなったかなど、今の環には知るよしもなかった。
予定していた十三参りは当然行われなかった。ただ、十三参りのためにと父が誂えておいてくれた着物が呉服屋から届いた時、さすがの爺様も思うところがあったのだろう。環を呼び出すと、身上げ肩上げしたままのその着物を与えた。
黒地に紅白の捻じ梅が散らされた華やかな友禅の着物。その反物を買ったのは、既に無くなっていた爺様の妻であり、前の女将である祖母だった。環の成長を楽しみしていた祖母は、宿泊客が残していった流行病であっけなく死んでしまった。まだ環が3才の時だった。
爺様の目が厳しくなったのは婆様が亡くなった頃からだったな、と環は思った。祖母と父の思いが込められたこの着物を、環は毎日着ることにした。本来は晴れ着であるはずの着物を着て姿を見せた環に、爺様は驚いたように瞠目し、そして目を逸らした。その日以降、爺様が環に声を掛けることも、目を合わせることもなくなった。環の、「祖母と父が私にはついている」という無言の圧に逃げたのだと思うことにした。
叔父は相変わらずだったが、ある日を境に環の存在そのものを無視するようになった。
「女将が妊娠した」
環をそれとなく守ってくれていた使用人の一人が環にそっと耳打ちした時、環は理解した。もう、皓月屋には自分の居場所はないのだと。環はそれでも命じられるままに、使用人に混じって働いた。辛い時、母を思うともっと辛くなることに気づいてから、祖父の店のあの職人を思い浮かべた。厳しい指導で知られる祖父にきっと絞られているだろう、そう思うと、名も知らず一度しか会ったことのないその職人のことを、なんだか同志のように思えた。
やがて母が男の子を産んだと知らされた。皓月屋全体が喜びに包まれたわけではなかった。喜んでいたのは爺様と叔父のみ。母は既に心を病み、自分が出産したことさえ正しく理解できていないようだったと、出産を手伝った使用人の一人が教えてくれた。
「女将が気の毒です。よほどひどい目に遭ってきたのでしょう」
出産の手伝いをした女たちは、一様に暗い顔をして戻ってきた。
「おい、お前たち。跡取りが生まれたのにどうして喜ばないんだ?」
「そういうのは、ご家族で喜ぶべきでは?」
「そうだな、おい環、喜べ。弟が生まれたぞ」
「私の家族は母だけです。他には誰もいません」
「何だと?」
「家族だというなら、どうして私を離れから追い出したんですか? どうして母を大切にしてくれないんですか? あんたなんか、大っ嫌い!」
環の叫びに、叔父は顔を真っ赤にして怒った。
「ああ、分かった。お前をなんとしてでもこの家に縛り付けてやる」
ギラついたその目を見た使用人たちが、環をかばった。
「旦那様、その目はいけません。客商売をする人がしていい目じゃありませんよ」
「うるさい、つべこべ言うな!」
暴れる叔父の姿を見ていた環は、やがて壊れたように笑い出した。
「ふふ、ふふふ、こんなことって……」
環の異様な雰囲気に、叔父や使用人たちが動きを止めた。
「皓月屋の主人が、こんなことで暴れるなんて……この着物を作ってくれたお祖母様やお父さんは、冥途の向こうでさぞお嘆きになっているでしょうねえ。ふふふっ、こんな人間が、皓月屋の名を貶めているのねえ。ふふ、ふふふ、ふふふふっ」
まるで狐憑きにあったようで、使用人たちも思わず後退る。叔父が手を伸ばしてきた。思い切りその手を振り払うと、環は走り出した。裸足のまま外に出ると、播磨屋に向かった。本当ならあと半年後に祝言をあげる予定なのだが、何も連絡がない所を見ると、おそらく長松は環との結婚をよく思っていないはずだ。
播磨屋は走れば5分ほどの場所にある。もう少しで播磨屋が見えるというところで、環は足を止めた。聞き覚えのある声に、環は建物の陰に身を隠した。
「ねえ長さん、いつになったら、あたしは長さんの花嫁さんになれるの?」
「皓月屋の主に跡継ぎが生まれたと、潜り込ませている者から知らせがあった。俺が皓月屋に入れないなら、環との結婚はなくなるはずさ」
「本当に?」
「その代わり、茜が大店の女将になる夢は断たれる。それでもいいのか?」
「いいのいいの、日陰者ではなく奥さんにしてくれるのなら、それがいいの」
「本当に、茜は可愛い奴だな」
「うふふ、長さんたら」
長松は、自分の腕に絡みつくようにして寄り添う女の腰に手を回し、大声で話しながら播磨屋に入っていった。お帰りなさいませ、という声が聞こえる。茜と呼ばれた女も、慣れた様子で上がっていく。
そういえば、前回長松の顔を見たのはいつだっただろうか。
環は、使用人扱いされるようになってから一度も長松に会っていなかったことに気づいた。もし長松が来たとしてもあの叔父のことだ、環を悪く言って2人を会わせないようにしたのだろう。
環は流れる涙をこぼすまいと空を見上げた。空の青さも、雲の白さも、滲んでその境界がぼやけている。
長松に期待していたわけではない。自分の将来の妻が粗略に扱われていると知れば、さすがの長松だって怒ってくれると思っていた。長松にわずかでも期待した自分がバカだった、と環は反省した。そう言えば、お見合いの席で「茜」という娘の名前が出ていたな、と思いだした。
「私がいなくなれば、みんな幸せになるのかしら」
環の足は自分でも気づかぬ間に日樫宿から離れていった。西の、古都の方へと向かっていた。
もう、頼れる人はいない。居場所はない。使用人たちの話では、心を病んだ女将はここ数日食を断っていたらしい。子を産みたくなかったのだろう、だから無事に産めたこと自体が奇跡で、女将はもう長くない、保って2~3日だと医者が言っていた、だからこっそり女将に会っておいた方がいい、そう言ってくれた。だが、話に聞く母の様子では、もう環のことさえ分からぬだろう。母にまで他人扱いされたらと思うと怖くて、環は近日中に死ぬかもしれない母にさえ会うこともできなかった。
行く当てもないまま、環は古都へと続く道を歩いた。ふらふらと歩く環を、行き交う旅人たちは怪訝な顔で見ていく。だが、あまりにも異様なので声さえ掛けられず、後ろを振り返り、心配する様子を見せながら、それでも先を急いで行く。
気づけば環は古都に入る山の上から古都を見下ろしていた。三方を山に囲まれ、東に川が流れ、開けた南の方に川は流れていく。ふと、山の麓にある神社が見えた。繊月神社だ。縁結びの神社として知らぬ者などいない繊月神社を上から見下ろすなんて、なんだか罰当たりだな、と思うと、妙な気分だ。
環は近くにあった切り株に腰を掛けた。もうじき日が沈む。「秋は夕暮れ」とはよく言ったものだ、と環は思った。母は今まさにこの瞬間にも命を落としているかもしれないと思うと、親不孝な娘だと思う。だが、あの家にいても、叔父の目が離れない限りどうせ母の死に目には会えないだろう。叔父は母が死ぬその瞬間まで、母を手放さない筈だ。男が出産に立ち会うなどという、この時代の禁忌を平然と犯すような人なのだから。
みかん色だった西の空が橙色へと変わり、朱色の太陽が西の山に沈み終わると、空の色が一気に紺色へと変わっていく。風が冷えてきた。日樫宿を出てから一度も振り返らなかった東の方向を見ると、月が昇り始めている。
今日は、満月だったのね。
もう何年も、月など見ていなかった。久しぶりに見た月が満月だったことに、環は感動した。
「大きな大きなお月様
私もお側に行きたいな
うさぎと一緒にぺったんと
私もお餅をつきたいな」
まだ父が生きていた頃、母とお月見をしながら歌った歌を思いだした。あの頃は、この世界がこんなに敵意に満ちているなんて思ったことはなかった。お父様とお母様のように、いつかは思い合う人と一緒になって、仲のよい家庭を築くのだと信じて疑わなかった。
子どもだっただけ、といえばそれで終わってしまう。世の中は理不尽に満ちている。お父様が処刑されたのも、お母様が無理矢理伯父様と娶されたのも。使用人の中に親切にしてくれる人がいたことは、感謝している。彼らがいなかったら、きっと環はずっと前に壊れてしまっていただろう。
満月は、空高く登るほどに、その輝きを強くしていく。
皓月……明るく輝く月。
ふと、環は思った。お天道様はその強い力で昼間を作り出し、人間の生活をごらんになっている。お月様は夜空で毎日少しずつ姿を変えながら輝いたり姿を隠したりしている。お星様は、大きさに違いはあるけれどもたくさん仲間がいる。お天道様にも日食はあるけれども、お月様のように毎日姿を変えるわけではない。
そうか、お月様には仲間がいないんだ。私と同じなんだ。
そう思った瞬間、涙がつーっと頬を伝った。そして、もう一つ、環は気づいてしまった。
「皓月屋という名前は、明るくない月を避けようとしたご先祖様の思いがこもっていたのね」
皓月屋は新月から満月を迎え、今、再び新月に向かっている。月がやがて真っ暗な朔に落ちていくように、皓月屋もきっと転落していくのだろう。
もし、お父様がまだ生きていて、皓月屋の主人だったなら、私が跡継ぎのままだったなら、朔を避けるべく、あるいは朔の日をできるだけ後ろにずらすために必死で考え、動いたはず。でも、今の私はただの家出娘。むしろ、あの家との縁をきっぱり切った方がいいのかもしれない。
背後からカサカサと音がして、環ははっと振り返った。野うさぎが1羽、こちらをじっと見ている。首に何かを巻きつけているようだ。
「うさぎさん? 何かご用?」
うさぎはぴょんぴょんと環に近づいた。そして、首を見せた。
「これを、取って欲しいの?」
うさぎはじっとしたままだ。環は思い切ってうさぎの首に手を伸ばし、巻き付けてあったものを外した。外されるやいなや、うさぎは全速力で走って行った。きっと、何かを首に巻かれて気持ち悪かったのだろう。人間に着けられたのだろうか? だから人間である環に取って欲しいと願ったのだろうか?
環は紙を広げた。息をのんだ。
「『薄月屋』は縁切りを願うあなたを支えます……?」
縁切り。人との縁やつながりを断ち切ること。
そうだ、皓月屋とも、播磨屋とも、祖父母の家の菓子司とも縁を切ろう。みんな環がいない方がいいのだから。ただ自分から「縁を切った」というだけでなく、きちんとした形で縁を切る手助けをしてくれるのであれば、その方が後腐れ無いはずだ。
環は立ち上がった。そして繊月神社の麓にあるという薄月屋を目指して歩き始めた。こんな時間に街道を歩くと言うことがどれほど危険なことかは知っている。それでも、歩かずにはいられなかった。一刻も早く縁を切るために、日樫宿から一歩でも遠くへ行きたかった。
真夜中の道を、満月の光を頼りにただひたすら繊月神社に向かって歩いて行く。鬼気迫る環の様子に、環に近づこうとした者も思わず手を引いてしまうほど。
夜中に薄月屋の前に辿り着いた環は、さすがにこんな時間に訪問するつもりはなかった。看板に何か書いてあるのに気づいて、南の空で煌々と輝く満月の光で読んでみた。
【本当に縁を切る気なら、繊月神社の神様に全てをお話ししてきなさい。繊月の神様があなたの話に興味をお持ちになった暁には、この店の戸が開きます】
そうか、繊月神社の神様は縁結びの神様。新しい縁を結ぶためには古い縁を切らなければならないから、繊月神社の神様に願えということなのね。
夜明けまではまだまだ時間がある。満月の光のおかげで、お社の階段は比較的よく見える。手探りせずに進めることに環は感謝した。そして拝殿の階の前で二礼二拍手し、これまでの人生を語り、親類縁者たちとの縁切りを願ったのだった。
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「さて、まずは事実関係を調べないとねえ。さすがにあの黒い糸は切ってあげないともう前に進めないだろうが、もし本当の話なら、ちょっと浮気されたとか、他に目移りしたとか、そういうレベルじゃないからねえ」
繊月神社の神は2つの顔を持っている。繊月神社のご祭神「繊月」と、縁切り屋である「薄月屋」の主「お繊」だ。繊月は神の力でその宿縁を断ち切らねばその先に待つのは死しかないような人間が助けを求めに来た時に限り、薄月屋でお繊として話を聞き、繊月として古い悪縁を切り、人として生きるために必要な縁を新しく結び直している。
さて、繊月神社は縁結びの神社など若い娘たちには騒がれているが、悪縁でもない限りはお繊と繊月が人の宿縁に関わることはない。「片思いが実った!」と騒ぐのは勝手だが、「どうして私の恋は実らないんですか!」という文句には閉口するばかりだ。
「さてさて、ここまで朔の闇が深く、強い執着の糸を纏わせているとなると、ここは月夜見様にもご助力願わねばならないねえ」
白い月のような白い髪と赤い瞳は、まるで白ウサギのようだ。繊月は拝殿の前で倒れるように眠ってしまった環を見下ろすと、目を閉じてすっと息を吸った。白い髪がみるみる黒くなり、開いた瞳も黒くなっている。繊月が神域たる繊月神社を出て「薄月屋」に行くには、人の形をとったお繊の姿にならねばらないのだ。
お繊は、黒い蛇のように環に絡みついた宿縁を見ながら思った。人には様々な宿縁が絡みついているものなのだが、環には人ではなく、月との宿縁……それも、闇の力との宿縁が絡みついているのが見える。
それは、皓月屋の初代が代償として差し出した「生贄」の証拠だった。
皓月屋の初代は、その当時流行していた朔月信仰に傾倒していたらしい。朔月信仰は、栄枯盛衰・盛者必衰の顕現としての月、特に無に返った朔の月を至高とし、無の極致にあるとされる無限の力を得て満月のような繁栄を手に入れようというものである。
朔の力を得るには、血縁関係にある者を生贄に差し出すことが必要だった。初代はさすがに自分のよく知る人物を生贄として捧げることができなかった。数代後の、自分の見知らぬ子孫を贄として朔の月に捧げるとの宣誓を行った。その指定された六代後の子孫こそが、環だった。
朔の月とされたのは、実際は堕ち神だった。多くの生贄を得て力を手に入れたその神は、人々の欲望を叶え続けた。人間の欲望を叶えてやれば信仰心を集め、生贄を手に入れやすくなり、更にその新しいその生贄から力を得ることができる。野心だろうが悪だろうが、堕ち神は願いを叶え続けた。
当然、他の神々が堕ち神を許すことはなかった。堕ち神は多くの神々に囲まれた。どれほどの力を手に入れても、太陽神の意を受けた多勢には勝てず、堕ち神は黄泉に送られた。こうして堕ち神は討伐されたが、未来の生贄と呪いは残った。神々は手分けして未来の生贄たちを探し、祓った。六代後という遠い未来に最後まで残っていた生贄が、環だった。
生贄としての環に課せられたもの。それは環が深い縁を持つ人間によって苦しめば苦しむほど、環から発せられる負の感情が堕ち神の力になるという、おぞましいものだった。
この娘が苦しんだのは先祖の過ちが原因であり、この娘が幸せになるためには本人の努力だけではどうにもならない。神の力でこの宿縁を断って初めて、解放されるのだ。
繊月神社の拝殿の前で祈りながら倒れてしまった環を、お繊は下級神たちに命じて静かに薄月屋に運び込ませた。時刻はまだ寅の刻になったばかり。人も獣もみな寝静まり、梟だけがその目を皿のようにしてお繊が歩いて行くのを見送っている。
薄月屋に入ったお繊は環の着物や足袋を脱がせると、下級神たちにきれいにするように命じた。汗だくの襦袢は浄化してやった。下級の神々が布団を敷き、環を寝かせた。
環は昏々と眠り続けている。その手を額に翳したお繊は、夢の中で死んだ母に再会している様子を見た。魂だけになった母はようやく自我を取り戻し、環を探しに来たのだ。夢の中で抱き合い涙を流す2人を見て、お繊は悩んだ。あの世に旅立とうとする環の母の魂を捕まえて、尋ねた。
「お前は、環をどうしたい?」
「環には、心から信じられる人と死ぬまで一緒にいてほしいと思います。心の底から愛せる人とであっても、私のように先立たれたらその先はどうなるか分かりません。ならば、人に指さされるようなものでなければどんな関係でもいい、環が安心してずっと一緒にいてくれる人と出会ってほしいと思います」
「あの子の縁を、皓月屋から完全に断ち切ってもいいのか?」
「環が望むなら、どうかそうしてやってください。母として繊月の神様に伏してお願い申し上げます」
環の母の魂は、冥途へと旅立っていった。きっと環の父が迎えに来ていることだろう。
お繊は、月夜見様からの言葉を待った。月夜見様は夜の世界を見守っていらっしゃる。だが、月夜見様は朔の日を中心に、昼の世界を見守っている太陽神様とも過ごす時間を作り、昼の世界と夜の世界の情報を共有している。この時間は月夜見様の時間だから、月夜見様に必要な情報をもらいに行かせた。月夜見様ならば昼間の環のこともご存じだろう。
「行って参りました」
下級神が戻ってきた。
「月夜見様は、環だけでなく環の縁者たちのためにも、環との縁を切って新しく結ぶのがよいだろうと仰せです」
「やっぱりね。ではそうしようかしらねえ」
お繊は再び目を閉じてすっと息を吸った。そして、未だ眠る人々の夢の中を駆け抜けた。ある場所でお繊は立ち止まった。環の記憶の中にあったとある人物。その人物の記憶の中にも、環のことが強く残されている。罪悪感と、それから……
「この者にしよう。この者ならば、環のことを大切にできるだろう」
お繊は、目を見開いた。黒い宿縁の糸が、環の小指だけでなく首や胴にまで絡みついている。夜と昼との境界線の時間。夜明けと日の入りの前後のわずかな時間は、繊月とお繊が1つの体の中で対等の力を発揮できる限られた時間だ。時計を見やれば、丁度朝の五時半。この時期の日の出は六時前後だから、既に空は白み始めている。今ならこれまでの宿縁を切り、新たな縁を結ぶことができる。お繊はすぐに、眠る環の周りにうごめく黒い綱のような宿縁を断ちきることにした。
「悪しき縁よ、観念せよ」
お繊の手刀が黒い宿縁の糸に触れた瞬間、太い綱がちぎれたような音がした。そして黒い糸は見る間に霧散していった。この糸が霧散したということは、悪しき宿縁などはじめからなかったのと同じ事になる。これまで環の縁者だった者たちは、その瞬間に環を忘れた。そう、環は自由になったのだ。そんな環の周りには、新しい縁を結ぼうと様々な糸が近づいてくる。
「ほら糸たち、近づいてはいけないよ。もう環と結ぶ糸は決まっているのだから」
お繊にたしなめられた糸たちは、行儀よく離れた。お繊が何かつぶやくと、その中の一本の糸がするすると伸びてきた。赤く、そして太い、たこ糸のような糸だ。
「お前に環を託そう。目が覚めたらすぐに環を迎えにおいで」
環の小指に赤い糸を巻き付けると、お繊はふっとその結び目に息を吹きかけた。この結び目がほどけぬようにするためだ。
チチチ、と雀の声が聞こえ始めた。夜明けはもうあとわずかだ。
「では起きるのを待つとするかい。お前たち、私と環の朝食を用意してくれるかい?」
下級神ぼ幾柱かが店番の人間の姿に変化して、朝食を作ったり、目覚めた環を送り出す準備をし始めたりと、せわしなく動き出した。
夜明けと同時に、環は目を覚ました。
「ああ、起きたかい? 体調はどう?」
「あの、私、繊月神社でお祈りしていたはずなのですが、ここは……?」
「薄月屋だよ。繊月神社の神は、あんたの願いを聞き届けてくださった。あんたをがんじがらめにしていた宿縁は、もう断たれたよ」
「本当に?」
「ああ。神が縁を切ったことで、これまでの縁者はもうあんたのことを忘れ、道で出会してもあんたをを認識できないようになった」
「本当に、自由なんですか?」
「ああそうだよ。だからこれからはもう、親類縁者を頼ることはできない。その代わりに得た自由なのだよ」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
環はお繊に繊月神社の方角を尋ねた。指で指し示してやればその方向に向き直って、何度もお礼を言いながら額づいた。
朝食を取らせれば、環はしみじみとその白飯の味をかみしめた。そして、米の炊き方を教えてほしいと言った。
「皓月屋で出していたご飯よりも、甘みがあってふっくらして、とてもおいしいんです。これは米の違い以上に、炊き方の違いだと思うのです」
「これは欲張りなお嬢さんだ。だがいいだろう、これからあんたは自分で飯を炊くようになる。今まではあんたに毒を仕込まれることを恐れた連中のせいで、炊事場仕事だけはしてこなかったんだろう? 飯と味噌汁さえ用意できれば、あとは何とでもなるだろうし」
お繊は自分の足で立って生きようとする環に好感を持った。飯炊きを担当した者(もちろん、環た知らぬだけで下級神である)に指導させると、環は食い入るように見つめ、覚えた。
「さあ、もう人が通り始める。人に見られないように、そっと薄月屋を出て行くんだよ」
「お繊さん、本当にありがとうございました。私からもお礼を申し上げますが、繊月の神様によろしくお伝えください」
「ああ、最後に1つ。あんたの新しい名前は、苧環。繊月の神様からの贈り物だ。気を付けていくんだよ」
お繊と下級神たちが環改め苧環を送り出す。苧環は薄月屋の裏の戸を開けた。そっと表通りに出ると通りには幾人かが歩いているが、こちらを気にする様子はない……ただ1人を覗いて。苧環はその人と目が合った。相手も環を見ている。
「その着物……もしかして、環お嬢さんでは?」
「あなたは、お祖父様のところにいた新入りの職人さん?」
「はは、もう新入りではありませんがね。店のやり方に納得いかないことがあって、店を辞めてきたんですよ」
「え……」
「環お嬢さんこそ、こんなところでどうしたんですか?」
「私は家出してきたの。母様も亡くなってしまって、許嫁はもう私と結婚するつもりもなくて……」
「そうでしたか」
それはかつて、環が母方の祖父に助けを求めに行った時、対応してくれた職人だった。あの日着ていた着物を、この男は覚えていたというのか。
「あの時、どうして環お嬢さんを助けなかったのだろうって、ずっと後悔していたんです」
「後悔?」
「あれ以来、店では環お嬢さんのことを全く聞かなくなりました。どうやら使用人扱いされているようだという噂は聞きましたが、大旦那様も旦那様も、皓月屋の先代の言葉を盲目的に信じ込んでいました。まるで、何かに操られたかのようでした」
「そうだったの」
「俺、小豆を引き取るのに頭数が足りないって言われて、一度だけ日樫宿の先にある小豆農家に小豆を取りに行った事があるんです。その時、皓月屋の前を通りました。環お嬢さんがあの日、そして今着ている、紅白の捻じ梅の着物姿で、外の掃除をしているのが見えました」
環は恥ずかしさで顔がカッと熱くなった。
「店に戻ってからすぐに、大旦那様と旦那様に見たことをお話ししました。でも、お2人とも何とも思わないようでした。大女将は物言いたげでしたが、黙ってしまわれて……女将と小百合お嬢様は何か思うところがあったのか、随分ご機嫌で……俺、この店は、あの家族は異常だって、何とか環お嬢さんを助けられないかって考えて、暖簾分けしてもらえれば、居場所だけでも用意できるって、そう思ったんですが、俺のことをなかなか認めてもらえなくて……」
「あなたも苦労したのに、私のことを覚えていてくれて、気にかけ続けてくれて、ありがとう」
「でも、助けられなかった」
環は男を見上げた。
「いいえ、今、ここに来てくれたわ」
「それは、繊月の神様に、夢で呼ばれて……」
「繊月の神様が?」
「はい。必ず朝、ここへ来い。二度と店には戻るなって」
環は理解した。繊月神社の方を振り返ると、手を合わせた。そして、もう一度男の方を振り返った。
「ね、あなた、お名前は?」
「俺は竹蔵だ」
「竹蔵さん」
「ん?」
「私ね、繊月の神様に、新しい名を頂いたの。新しい名で、新しい人生を始めなさいって。あなたはこれからどうするの?」
「俺は、新都に行く。新都で俺の目指す菓子を作る」
「ね、私もついていっていい?」
「環お嬢さん?」
「私の新しい名前は苧環よ。苧環って呼んで。それに、繊月神社の神様に言われたとはいえ、竹蔵さんは私を迎えに来てくれたんでしょう?」
「そ、そうだが、本当にいいのか?」
「ええ。一から生き直すの。竹蔵さん、手伝ってくれるでしょう?」
竹蔵がふっと微笑んだ。
「初めて会ったあの日、なんてきれいなお嬢さんなんだって、一目惚れしていたんだ。でも、身分違いだと思って、ただどこかでお助けできたら、そう思っていた。苧環が縁者を縁を切って自由になったなら、身分違いを気にすることもなくなったって訳だ」
竹蔵が左手を差し出した。苧環がおずおずと差し出した右手を優しく掴むと、「行こう」と言った。
「俺たちにふさわしい、誰も俺たちのことなんか知らない、新しい所へ行こう。二人で店、開こう」
「ええ」
古都のある菓子司と、日樫宿の一部の宿の者たちは、誰かがいないような気がするのに、誰がいないのか分からない。周囲の人から「環ちゃんがいなくなったじゃないか」と言われても、その環という娘のことは思い出せず、違う人間ではないかと思っている様子。
やがて環のことを思い出す者は誰もいなくなった。この世から「皓月屋の環」は消滅したのだ。皓月屋はその後5年も持たずに店をたたむことになった。皓月屋の血を引く男の赤子は、三月を待たずに死んだ。妻子を失った叔父は魂を抜かれたようになって、店はどんどん傾いていった。爺様が心労から心の病を起こして亡くなると、叔父も後を追うように亡くなった。跡を継ぐ者もいなくなったことで、皓月屋は廃業を命じられたのだった。
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苧環と竹蔵が新都で開いた菓子の店は、古都の技法を残しつつ、斬新なものも取り込んでいた。西洋から入ってきた花を元にした練り切りを作ったり、これまた西洋から入ってきた焼き菓子を見よう見まねで作ったり。試行錯誤の日々は大変だったが、「唯一無二」の菓子を作る店として次第に評判を呼び、次第に繁盛していった。仲睦まじい店主夫妻にあやかろうと、若い娘たちがこぞって菓子を買いに行くらしい。
「こういう縁切りと縁結びは、気持ちがいいねえ」
月夜見様から苧環たちの話を聞いたお繊は、機嫌良く酒を飲んでいる。繊月に備えられた御神酒だが、お繊と繊月は同一なのだから、お繊が飲んだって構わないはず。
「その姿で飲んでいるところを禰宜たちに見つかると面倒だ。はやく繊月の姿に戻れ」
「ええ~、だって人間の姿じゃないと酔えないんですよ?」
「誰だ、お繊に酒を教えたのは!」
「月夜見様ですよ~、月見酒最高って、私に教えてくれたの、もう忘れたんですか~」
「こうなると、神の化身ではなく、ただの酔っ払いだな。おい、お前たち、お繊を寝かしつけてやれ」
「ええ~、月夜見様と久しぶりに飲んでいるんだから、もう少し付きあってくださいよ~」
「やれやれ。裏の姿とはいえ、他の上級神には見せられないな」
月夜見の手にかかれば、人間の姿になっているお繊など、あっという間に眠りに落ちる。すうすうと寝息をたてるお繊の額に、月夜見がそっと口づける。
「お休み、私の可愛いお繊」
読んでくださってありがとうございました。
長編の作業中、どうにも先に進まなくなったので、思いついたものを取り合えず書いてみました。
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