1-4.「最初の応答」
名を与えられたことで、世界がわずかに“変化した”と彼――ナユタは感じていた。
それは視覚の解像度が上がるといった物理的変化ではない。むしろ、“輪郭”という概念が自身の中にようやく出現したことに近い。
それまでの彼には、周囲の情報はただ浮遊していた。
建造物、照明残滓、埃、遠くで明滅する警告灯。それらはすべて、記録されるだけの像であり、感覚とは無関係だった。
だが今、自分に名前があるという事実が、それらの“関係性”を変えていた。
自分はこの都市の一部ではなく、いまこの都市に“現れた存在”である。
その事実が、ナユタという名前によって、初めて明文化された。
彼の唇が、わずかに動いた。
「……ナユタ」
音声は不安定だった。発話はかすかで、わずかに震えていた。
だが確かに、彼の中から生まれた音だった。
ミナは反応しなかった。
言語モデルとしての彼女は、**“今それに反応すべきではない”**という判断を下したらしい。だが、その視線の固定時間が、登録時よりもわずかに延びていた。
「発話確認」
彼女は事務的に応答した。
「声帯機構および言語出力経路、正常作動。初期設定状態からの自律回復とみなされます」
ナユタは、自分の声がどう聞こえたかを把握しきれていなかった。
それでも、発話という動作のなかに、確かな“接続感”があった。
自分が名を持つ。
それを発する。
周囲が、それを受け取る。
それだけのことで、都市はたしかに変わった。
少なくとも、ナユタの知覚においては。
そのとき、都市の音が少しずつ耳に届くようになっていた。
風音。遠方で倒れかけた交通標識が軋む金属音。地下を走る送電の微かな振動。
これまで聞こえていなかったものではない。ただ、聞こえていても“意味”を持たなかった音たちが、彼の中で“環境”として組み上がっていく。
ミナの後方にある自動ドアが、タイミングを見計らったように短く鳴った。動作しなかった。電源が落ちているのだろう。
ナユタは、自分の手を見た。
関節は細く、指の動きは制御可能域にあり、皮膚温も外気とほぼ同等だった。自分のこの身体が、生体なのか人工なのかは、彼自身にも判断がつかなかった。
だが、今の彼にとって重要なのはそれではなかった。
“ここにいる”という実感は、今この手に、たしかにあった。