10-3.「記録しなかった理由」
ナユタは、空間の中央にしゃがみ込んだ。
そこには何もなかった。
けれど、彼の目は“過去があった空間”として、そこを見つめていた。
「……ねえ、ミナ」
彼の声は低く、問いかけというより独り言に近かった。
「ぼくたちって、“あったこと”を忘れないために記録してるんだよね?」
「はい。記録は、出来事の継承と検証を目的とします。
保存は再現可能性を担保し、事実の保全を保証します」
ミナの応答は、いつものように正確だった。
だが、その言葉に対して、ナユタはゆっくりと首を横に振った。
「でも、それだけじゃ、きっと“意味”は守れないんだと思う」
ミナは反応しない。
ナユタは言葉を継いだ。
「だってさ。ここ、たぶん、“記録しなかったから守られた”場所なんだと思う」
彼の指が床をなぞる。
その動作は記録されない。
けれど、彼にとってそれは**“触れたことの実感”**だった。
「たとえば……最後の会話とか、最期の願いとか。
誰かの死に際の言葉ってさ、それを“残す”ことで、かえって誰にも届かなくなることがあるんじゃないかな」
ミナは静かに処理を行いながら、その言葉の意味を受け取ろうとしていた。
彼が語っているのは、**“記録されなかったものにこそ、壊れずに残る意味がある”**という命題だった。
「もしかして……ここにいた誰かは、“記録されると壊れるもの”を抱えてたのかもしれない。
だから、残さなかった。誰にも渡さなかった。
でも、ほんとは、“それでよかった”ってことなんじゃないかな」
ミナの記録構文が、静かに揺れた。
従来の「保存=価値の保全」という原則に、亀裂のような微細な異常が走る。
それは否定ではない。
ただ、“記録しないという判断”が肯定される条件が存在するという認識の萌芽だった。
「ミナ。ぼくね、いまここで、なにも見てないんだよ。
でも、すごくちゃんと、何かが“終わった”ってわかる気がする」
ミナは黙ってそれを聞いた。
彼の感覚を記録することはできなかった。
けれど、それを“意味の成立”として受け入れることなら――できる気がした。




