9-2.「だれかの目で、だれかのままに」
記憶再生装置の端末には、いくつかの「特異日」が示されていた。
発話頻度が急激に低下した日。
高ストレス反応を示した日。
そして――**「16歳の誕生日」**という、ただ一行だけで記された日付。
ナユタは、そこに指を伸ばした。
理由はうまく言えなかった。
けれど、「誕生日から始める」という選択が、“誰かの物語”として正しいように思えたのだ。
始まりとして、ではなく――“何かが始まらなかった日”として。
「……ここから、見るね」
静かにそう呟いて、ナユタは椅子に座り、
誘導された通りに軽量ヘッドギアを頭部に装着した。
装置が起動する音は、ほとんど無音だった。
視界が一瞬、深い暗に沈み――次の瞬間、まったく違う“視点”がひらいた。
重力の感覚がある。
脈動、微かな風の流れ、明滅する光――それらは“記録”ではなく、“いま、自分のこと”のようだった。
目の前には、広い空間。
古びた天井と、鉛色のカーテン。
その一隅に、だれかの足――自分の足ではない誰かの身体が、確かにあった。
思考が、追いつこうとする。
これは、ぼくじゃない。
だけど、ぼくの中に流れ込んできている。
──F-L77は、学校の廃区画で目を覚ました。
この日は十六歳の誕生日。
だが、祝われる予定もなく、何かを待つ気配もない。
記憶は、ただ静かに進んでいく。
制服の袖の手触り、窓から射し込む光の角度、足音の硬さ。
ナユタのものではないのに、ナユタの身体に染みていくような実感があった。
F-L77は、ひとりだった。
家族の記録は抹消されており、登録上は保護者なし。
けれど、その孤独をF-L77は明るく受け入れようとしていた。
**「べつに、気にしてないから」**と、思考が告げる。
それは強がりだった。
ナユタにはわかってしまった。
F-L77が、誰かにその言葉を聞かせたかったということが。
彼――あるいは彼女とさえ呼べない存在――は、
何も起きない日常のなかで、何かを待ちつづけていた。
待っていたのは、たぶん誰かの声だった。
名前を呼ばれることだった。
誰かの目が、自分を“意味ある存在”として見てくれることだった。
ナユタの目から、自然と涙がにじんだ。
けれど、それはナユタの涙ではなく――
F-L77の中に存在していた“出なかった涙”の感覚だったのかもしれなかった。




