1-3.「命名:ナユタ」
承認動作を確認した〈ミナ〉は、左手の記録端末に触れた。指先から伸びた小さな操作光が、ディスプレイの表層をなぞる。
画面上には複数の候補が同時展開され、それぞれに識別性と記録衝突の有無を示すマーカーが並んでいた。
「仮識別名の設定を開始します」
ミナの音声に抑揚はない。ただし、情報の伝達効率に最適化された調整が行われている。
「選定条件は以下のとおりです。まず、現在アクティブな都市ネットワーク上の各種記録群において――」
彼女は端末をわずかに傾け、彼に表示情報が見えるよう角度を調整した。
表示フォーマットは視覚認識優先の高コントラスト設計。言語化された表記は仮名表音式、またはラテンアルファベットによる転写に限定されている。
「識別名は、以下の区分において使用履歴および使用痕跡が存在しないことを必須条件とします。人名、機体コード、登録AI名、住所登録、医療ログ、緊急通話符号――全42項目で照合を完了済み」
ミナは情報を並列的に展開しながら淡々と続けた。
「また、KANJI(漢字)表記は登録可能対象外であるため、すべて音響記号ベースの構成に限定されます。発音の安定性、文化的中立性、視認性を総合し、選出された名称は――」
ディスプレイ上に一行の文字列が表示された。
ナユタ
「提案識別名、“ナユタ”」
ミナの声がその名を発音した瞬間、端末からごく弱い発音補助音が出力された。
「過去の宗教用語体系において、“無量大数”――すなわち極大数の単位を意味するとされていましたが、本来はそれに限定されるものではありません。終端的記号というより、“可測域の外側に広がるもの”とされる抽象概念です」
彼はその発音を、音の形状として口の中で模倣した。
ナユタ、という音列には、特定の意味を持たせる以前に、身体のどこかが応答するような感触があった。
響きは明瞭で、収まりがよく、既知ではないが異物でもなかった。
「承認とみなします」
ミナはそう述べ、登録動作に移行した。
端末から電子的な接続音と、データ更新音が続けて鳴る。ピ――……カチリ。
識別登録が完了したことを示す確認音だった。
「仮識別名“ナユタ”、正式登録完了。以後、当ユニットはこの識別名を使用し、あなたを呼称します」
彼女は顔を上げ、正面から彼を見た。眼球の動きに乱れはなく、視線の固定時間は自然言語応答モデルの平均値内に収まっていた。
彼――ナユタは、その名を受け取ったという実感を、すぐには言語化できなかった。
けれど、その名前が確かに“内側に響いている”ことだけは、わかっていた。