6-3.「名前じゃなくて、在ったこと」
建物の角を回ると、細い裏路地があった。
ナユタはその先にある小さなベンチのそばで立ち止まり、足元に落ちていた何かを拾い上げた。
それは、朽ちた手帳の表紙だった。
中の紙は半分以上ちぎれており、残っていたページにも文字は読み取れなかった。
だが、その手帳には、表紙の裏に薄く――指でなぞるような線があった。
「わたしがいたことを、忘れないでください」
その筆跡はかすれていた。
明らかに急いで書かれた線。紙に引っかかった筆圧の痕跡。
ナユタはページをそっと閉じ、ミナのほうに顔を向けた。
「これを書いた人さ、名前は書かなかったんだね」
「はい。識別情報は存在しません。筆記圧から判断する限り、明確な署名意図もなかったと見られます」
ミナの答えは機械的だった。だが、ナユタはうなずいてから、静かに言った。
「でも、“誰か”だったことは、書いてあるよ」
ミナは反応しなかった。ナユタは言葉を続ける。
「名前って、すごく大事なものだけど、それだけが“存在の証明”ってわけじゃないと思う。だって、こうして、呼びかけがあって、跡があって、残ってる」
彼の声には怒りも悲しみもなかった。ただ、それを伝えなきゃいけないという確信が込められていた。
「記録に名前がなくても、記録されてない誰かがいても、“いたこと”は消えない。消させないって、ぼくは思う」
ミナの記録端末に、内部エラーが発生した。
それはシステム上の不具合ではなく、定義外構造の言語認識に対する処理不能フラグだった。
彼女は、それをエラーとせず、“非定義記録項目”として保存対象に切り替える判断を下した。
「あなたがそう判断する理由は、どこから来ていますか」
ミナの問いは静かだった。
ナユタは一瞬だけ考えて、答えた。
「それは、誰かが“そうであってほしい”って思ったからじゃないかな。……きっと、ぼくもそうなんだと思うよ」




