6-2.「名の消えた言葉」
紙片は、古い合成紙だった。
水分を弾く加工がされており、表面はかすれながらも文字の輪郭をとどめていた。
ナユタはそれを両手で広げ、そっと光にかざした。
紙の左上には、ひとつの短い文が残っていた。
「きょうも だれかと すれちがった」
たったそれだけだった。
署名はなく、日付もなく、記録番号もない。
だが、そこに書かれた字は、書き慣れていない手の動きで描かれていた。
ゆっくり、慎重に、一文字ずつ並べられた筆跡。
ナユタは、紙を折らずにそっと膝のうえに置いた。
「……誰かに、見てもらいたかったんだよね。これ」
彼の声は自然に出た。
それは、断定でも仮定でもなく、“そうとしか思えない”という観察に近かった。
ミナは紙片の記録を走査していた。
「筆記内容に個人識別は含まれていません。文字の筆圧と傾斜から推定される筆記者の年齢は、12〜15歳程度と見られます」
「そうなんだ」
ナユタは答えたが、その声に事務的な反応はなかった。
彼の指が、紙の端をなぞった。
折り目の痕がいくつもあった。何度も畳まれ、開かれ、また畳まれた跡。
それは、誰かが長く持ち歩いていた証拠のように見えた。
「この人、毎日書いてたのかな。自分がどこにいたのか、何をしたのか。誰にも見せなかったけど、書くこと自体が……たぶん、誰かとつながってるって感じだったんだと思う」
ミナは返答しなかった。
だが、その間にログタグがひとつ、追加された。
【意味認識:記録なき対話/記述行為の指向性に関する発話】
ナユタは立ち上がり、周囲を見回した。
建物の外壁には落書きのような線があり、ひとつの扉のそばに、色の抜けた文字が書かれていた。
「ーーちゃんが まだいるなら あしたもここにいるよ」
名前の部分は塗りつぶされていた。あるいは最初から、書かれていなかったのかもしれない。
「“ちゃん”って、誰だったんだろうね」
ナユタはその言葉を声に出してから、続けた。
「名前がわかんなくてもさ。こうやって呼びかけたってことは、たしかに“誰か”だったんだよね」




