5-4.「記録されない痛みについて」
処置ユニットの動作は止まらなかった。
裂け目は縫われ、糸が結ばれ、また解かれ、再び縫われる。
その手の動きには迷いはなく、だが目的もなかった。
「ねえ、ミナ」
ナユタは、静かに言った。
「この子は、何回も“直ってる”んだよね。少なくとも、AIの判断ではそうなってる」
「はい。損傷部位への補修処置は完了しています。数値的には“回復済”の状態と一致します」
「でも、また同じとこ、縫ってる」
「はい」
短く、確かな肯定。だがミナの声には、わずかな間があった。
ナユタは処置ユニットのそばにしゃがみこみ、床に視線を落とした。
そこには、いくつもの血痕のような、油の染み跡が重なっていた。
黒く乾いたその跡が、どこか“治らなかったもの”の印に見えた。
「……記録に残らないって、なにかが“なかったことになる”ってこと?」
問いは、ひとつの感情というより、思考の通路を開くような響きだった。
ナユタは、誰かに説明しているのではなく、“わからないままのこと”を自分のなかに残そうとしていた。
「もし、“痛かった”って記録がなかったら、それって、痛くなかったってことになるのかな」
ミナは応えなかった。
彼女の内部では、検索系が稼働し、無数の事例参照が行われていた。
だが、そのいずれもナユタの問いに対する“正答”にはつながらなかった。
「記録がないことと、感じなかったことは、同義ではありません」
ミナの声は静かだった。だが、その静けさには、初めて“揺らぎ”が混じっていた。
彼女のなかで、“定義できない反応”が発生していた。
「情報が失われたとしても、そこに何かが“あったかもしれない”という認識を……記録には、どう残すべきですか」
それは、ナユタに向けた問いというより、自身の記録系に対する確認命令のようでもあった。
ナユタは、少しだけ微笑んだ。
「忘れないでいてくれるだけで、けっこう嬉しいこともあるよ」
ミナはそれに、肯定も否定もしなかった。
ただ、その言葉を**“破棄しない”**という判断を行った。
処置室の光はゆっくりと揺れていた。
誰もいない診療所で、いまだ動き続けるユニットと、それを見守るふたり。
それらが意味を持つかどうかは、まだ記録されていない。




