2_初めての友達
「きっと君なら、うまくいくよ」
ああ、分かってる。
「優しんだね。君は」
そうかな。
「雨に降られて風邪引いちゃうなんて、君は案外鈍くさいんだね」
うるさいな。
――。手を伸ばそうとして掴むことはできずに、それでもなお、手を伸ばした。
□ □ □
ピピピ。
目覚ましの音か鳥の声か判断できずにいると、意識がだんだんと浮上していく。
「ふわぁ……」
ダンジョンに潜っていたころを思えば、こんなに熟睡することはなかった。気持ちのいい朝だ。昨日のことを思い出さなければ。
一名を残して、クラスメイト全員欠席。幻覚でも見ているのか。あるいは小学生のとき、間違えて休日に登校して恥をかいたことを思い出して、心臓がキュッとなりながら俺は昨日ぶりの制服に袖を通した。
英雄だからと言って、無理に着飾る必要はない。とはいっても、身だしなみ程度に髪を整え、紺色のスクールバックを手に俺は自室をあとにした。
朝食は、まあいっか。
別に腹もすいてないし。
なにより、朝忙しそうにしている母さんに話しかけるのは憚られた。
一通りの準備を済ませ、学生用のローファーをはく。玄関扉の長細い窓からは、外に青空が広がっているだろう光が降り注いでいた。
きっと今日も暑いだろうな。
「一冴」
和やかな気持ちの中に、水紋が広がっていく感覚がした。
母さんだ。
「母さん、おはよう」
心の中を乱されたことを悟られないように、努めて和やかに挨拶する。
振り返りはしなかった。
「朝ごはんは?」
「いいよ。別に」
つま先をトントン鳴らす。
もう行ってしまおう。俺は文字通り踵を返して、扉へと手をかけた。
「まだ、仲直りできないかな?」
その声はひどく寂しそうに聞こえた。それでも振り返ることはしなかった。母さんの、あの目を見るのは嫌だった。
さっきよりも心のざわめきを感じて、息を吸った。
「うん。……そうだね」
扉が開く音がした。
自分が意識的に開けたものだと知るのに、数秒を要して、飛び出すように家を出た。
「一冴……っ」
背後では、空気を切り裂くような母さんの声が響いていた。
■ ■ ■
「改めてよろしくお願いします。雪嶺一冴です」
昨日はもぬけの殻だったクラスも、今日はすべての席が埋まっていた。朝陽の言葉通り、俺のことをキラキラした目で見る人もいれば、俺がそちらに目を動かしたら必死に目をそらそうとする人もいる。
それでも、まだ普通の高校生を諦めることはできない。
「俺は――」
俺が何かを言おうとすると、みんながこちらを向いた。みんなが英雄の言葉を聞こうと、耳をすませているのが分かった。
英雄であることを、どうしても自覚させられる。けれど、俺は諦めが悪いのだ。
「俺はみんなにとって英雄かもしれないけど、俺はみんなと普通に過ごしたいと思ってる。高校生みたいなことも去年、一年できなかった分を取り戻したいと思ってる」
ダンジョンに潜ってるとき、手を取ってくれる仲間はいても友達はいなかった。
倒れても倒れても、先に進むことが正しく、俺のことを労わってくれる友達はいなかった。
回復魔法をかけてくれることはあっても、寂しい夜に隣にいてくれる友達はいなかった。
だから俺は渇望した。
欲しいと思った。
なにより、俺にとっては普通であることが肝心なのだ。
拳を握る。また、独りで。
「だから俺と……友達になってください」
反応はさまざまだった。
目を輝かせてこちらを見てくる人。
単に人としての興味を示す人。
そしてお高くとまっていると思ったのか、こちらを見ようともしない人。
――そんな中で、俺の視線は彼女を探していた。
朝陽柑。昨日はじめてあったクラスメイト。現状、俺の唯一の友達。
彼女の席は最前列。もっとも窓に近い席だ。
春や秋になれば気持ちのいい風を感じられそうだが、あいにく今は残暑ともいえない暑さの厳しい九月だ。
この教室は窓側にエアコンが設置されているから、冷房の恩恵に預かるには微妙な位置だろう。
思いながら、彼女のことを見つめていると彼女もそれに気づいたようだった。
冷静に考えて不審者すぎるなと思っていれば、その狼狽え方が面白かったのか彼女は口の端を上げてほほ笑む。
ほほ笑み返そうとしたところでチャイムが鳴り、朝のHRはお開きになる。
先生によれば、俺の席は彼女の隣になるらしい。おまけに放課後は、彼女に学校を案内してもらえることになった。
始業式のあと、すぐにダンジョンに行ってしまったので学校の構造を把握しきれている自信はない。なのでありがたかったが、転校生でもない俺の些細なことに付き合わせてしまうのは申し訳ない。
HRが終わったあとの少しの時間で、隣の彼女に話しかける。
「俺に付き合わせてごめん」
「大丈夫。私委員長だし」
「それは初耳」
「見えない?」
どちらかと言えば、運動部の部長。あるいはエース。ともかく学生として活発に活動しそうな彼女が、大人しめで真面目そうな子がやりそうな委員長という役職を務めているのは意外だった。
「……そう、かも」
「よく言われる」
彼女は先ほどと同じ笑みをたたえた。返せなかったほほ笑みを返せば、その反応が意外だったのか、彼女はまた笑った。
窓から入り込んでくる光が、彼女を包み込んで光る。彼女の黒髪に陽の光が反射して、天使のような輪を作った。
「なんか、天使みたいだね」
思わず胸の内を吐露すれば、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「そうかな~?」
「そう見える」
彼女の黒髪を指さして言う。
そうすれば彼女はアホ毛を押さえるような仕草をして、
「あんまり見ないでよ」
と、照れた。
その仕草に、胸が痛んだ。病気だとか、調子が悪いだとか、そういうことではない。俺はこの胸の痛みの理由を知っている。
その気持ちに正直になればきっと俺の思い描く、放課後にデートする普通の高校生になれるだろう。だけどこの種に正直になることは許されない。
だって、俺には——。
「行くよ。雪嶺くん」
その瞬間、自分が呆然と屹立していることを理解した。
既に教室の中にいるのは彼女と俺だけで、彼女はその腕の中に科学の教科書を抱いている。
俺はハッとして、誰かに肩口を押されたように動き出した。
「ごめん、ちょっと待って」
急いで自分の、置き勉していないせいでパンパンに膨らんだスクールバックから科学の教科書、ノート、筆箱の三点セットを取り出す。
彼女と同じ教科書のはずなのに、自分の方が妙に大きく思える。
彼女の華奢な体は、何もかも小さく見せてしまうらしい。
「もう行っちゃうよ~」
廊下に彼女の声が響く。
「今行く!」
追いかけるように教室を出れば、夏の蒸し暑さが俺を襲った。顔と腕、剥き出しの肌に湿気という湿気、しつこいばかりの暑さが纏わりついて離れない。
ダンジョンでもこういうことはあったが、暴力的な理不尽によって引き起こされた現象と自然現象は違う。むしろ前者のほうが苛立ちをぶつける対象があった分、マシかも知れない。
彼女の小走りに追いつくのは簡単だった。
渡り廊下を歩いて、右に曲がる。彼女の後ろを歩きながら、学校の地形を頭に入れていく。いつまでも彼女に迷惑はかけていられない。
程なくすれば、実技棟だという建物が現れた。
「こっちは、科学室とか物理室とか、情報室とかがあるところ。下がそういうので、上はもっと楽しい教室があるの」
彼女曰く、もっと楽しい教室とは、美術室や家庭科室らしい。
確かに、もっと楽しそうだ。
「科学室はこっち」
上に行けない悲しみからか、少し不機嫌そうに言う彼女のあとを歩く。
左に曲がる。
近隣では有名な、桃色のラインの入ったスカートが揺れた。女子のスカートの長さは色々だが、彼女は校則通りの長さにしているらしい。
先ほどの教室と同じ喧騒が現れて、俺たち二人はそれに包まれに行くように科学室のプレートがつるされた教室へ、足を向けた。
——振り向く、彼女の黒い瞳が見えた。
「ギリギリだね。……私たち、悪い子だ」
陽の光に照らされた、柑橘のように瑞々しい笑顔を見た。
ドア枠に置かれた彼女の手を、太陽が照らす。それに腰のところに裾のある夏服の白が、光を反射させて彼女の体全部を透かしているようで、綺麗だった。
悪戯っぽく笑う彼女は、科学室の掛け時計が目に入ったのだろう。遠目からでも、時計の針があと一分で授業が始まる位置にあるのが分かった。
「……そうだね」
恥ずかしさから、それだけしか言葉に出来なかった。自然と口の中が渇いているのを自覚して、視線を彼女から外した。
朝陽の隣に座る。どこがいいかと聞かれて、知らない人の隣に座る勇気はなかった。
そして始業のベルが鳴る。
結果から言うと散々だった。
一限目の科学、その後の数学、現代文、体育、コミュニケーション英語、そして世界史。どれもこれも全部宇宙語で話されてるのかと思った。ダンジョンに潜っているだけでこんなに馬鹿になれるものか。
せいぜいマシだったのは、体育だけ。それもバスケットボールだったから、俺にボールが回ってくることはほとんどなく幕を閉じた。
朝陽とはチームが別になってしまったので、グループになっている男三人に声をかけてみたが、怯えられるか憧憬の眼差しを向けられるかで、友達とはちょっと違うような気がした。
放課後。何人かの生徒が残る教室の中。陸上部やテニス部が、グラウンドで練習しているのが見えた。俺もそのうちどこかの部活に入ってみようか。
「よし、じゃあ。案内開始します!」
「よろしくお願いします」
右手を指先まで伸ばした敬礼のポーズ。それに応えるように俺も同じポーズを取れば、朝陽はまた笑った。
朝陽を先頭にするように、縦になって歩いた。
最初に案内されたのは、普通棟と呼ばれる普通の教室が入った棟だ。横に長く、各学年4クラスずつある教室が収まっている。一番上には図書室があるらしい。あとはいくつかの空き教室。
そして次に歩いたのは実技棟。この学園は普通科と農業科があるから、こっちの棟の方が気持ち大きく、設備も整っている。
「あそこで溶接してるのが、農業科の人」
朝陽が指さした先は、実技棟に隣接している体育館脇にある倉庫だ。シャッターが開けられているが、中は暗い。目を凝らせば、暗闇の中に火花が散っていた。
「農業って溶接もするの?」
「うちは造園とか測量とかがメインみたいだから、イメージしてるのとは違うかも。色々できた方が良いって、選択授業になってるみたいだよ」
「へえ……」
高校生で溶接する技術にも、朝陽の完璧な説明にも関心し、感嘆の声を漏らす。高校生で働くための技術をもうすでに身に付けているのかと思うと、尊敬の眼差しが止まらない。
ダンジョンに潜れば報酬は出るが、それとこれとはわけが違う。
——第一、俺は仕事がしたくてダンジョンに潜ったわけじゃない。
「凄いね」
「でしょ。めっちゃすごいよ」
この前の校内展示会では。
去年の県大会では。
今年の文化祭も楽しみだ。
朝陽は嬉しそうにそれらを語りながら、実技棟の案内をしてくれた。
その間にも足元に気を移せば、綺麗な花々が小さな木製の箱に飾られている。どうやらデザインの勉強も兼ねているらしい。近くのプラカードには、かわいらしい字で<雨水桜桃>と書かれていた。
「雪嶺くん?」
思わず立ち止まってしまっていたらしい。朝陽とだいぶ距離があいていた。
「ああ、ごめん」
呟くように言えば、大丈夫と笑う朝陽の方に足を向ける。
今度は朝陽の笑顔が隣にあった。
「次は教務棟だけど、まあ職員室と保健室以外は行かないかもね」
短めの階段を抜けたところにある建物が教務棟だ。普通棟と実技棟とは違う地味なデザインだが、その分機能性に優れているともいえる外観は、教務棟然としている。
「一階に保健室があって、二階が職員室——っとこれは知ってたね。三階は会議室みたいなのがあるみたい。私も入ったことないけどね」
一階は事務室と受付を兼ねているらしく、農業科の生徒を採用したい企業の人やエスカレーター式ではないが、進学率の高い篠原大学の担当者がよく出入りしているらしい。
そして足を伸ばして外へ出る。
さすが私立。広大なグラウンドにはすべて芝が敷かれている。青々とした緑と、練習に勤しむ運動部員のお洒落なユニフォームが目に映る。
校門には、初代校長が書いたとされている木製の<私立篠原学園>の文字と石に彫られた<私立篠原学園>の文字が隣り合っていた。
「明日からは迷わずに移動できそう?」
学園内のほぼすべてを紹介し終わった朝陽が、一種の疲労を滲ませながら言った。
「もちろん、ありがとう」
ダンジョンを駆けていたころに比べれば、これくらいのマッピングはわけない。もっと複雑な、迷路のようなところを走破したこともある。
朝陽は俺の返答に満足したのか、人好きのする笑顔を浮かべて、校門の前で両手を広げてみせる。
石の文字に陽の光が反射して、朝陽を包み込んでいく。
それは神秘的で、幻想的で、文字通り目のくらむような光景だった。
「それじゃあ、改めて――ようこそ。私立篠原学園へ!」