1_かつての英雄が普通になれると思った?
そのダンジョンは雨が降っていた。真っすぐに、地に吸い込まれるように降る雨が。
英雄に覆いかぶさるように置かれた石の上を、雨粒が通り過ぎていく。艶めいて、煌めいて、やがて流れ落ちた雨粒は英雄の頬を滑る。
赤く火照った頬が冷やされていく。
「どうして」
最奥の玉座。そこに鎮座していた魔王はもういない。それを倒すことが英雄の責務だったから。責務を果たした今、英雄がダンジョンに留まる理由はないはずなのに、英雄はそこから動けなかった。
英雄と眩しいばかりに輝く数々の財宝と、すっかり冷たくなった玉座。そして——
「なんで」
重い呟きは曇天に消えていく。それは水蒸気が雲になっていくかの如く、高く、高く昇っていく。
その頬に流れる雫が何ものか分からなくなって、英雄は独り、静かに拳を握った。
□ □ □
青い空。流れていく白い雲。そして飛んでいく雀の群れ。
地上に視線を戻せば、登園中だろう幼稚園児とその母親であろう二人がにこやかに歩いている。そんな通学路。平和だ。平穏だ。日常すぎるほどの日常だ。
そのすべてを自分が作ったかと思うと気持ちがいい。
俺が英雄として活躍した過去が今という未来を作ったかと思うと、思わず口の端が上がる。
向こうで「見ちゃいけません」という声が聞こえた気がするが、気にしないでおこう。
それにしても――
「友達、出来るかな」
英雄として覚醒してから約一年。その間はダンジョンに潜りっぱなしだったので、当然学校には行っていない。一年生の始業式にちょっと顔を出したくらいで、その後は誰とも連絡をとっていない。
つまり俺は、転校生じゃないけど転校生のようなもので……。
既にグループの形成された高校二年生の二学期に、同世代とのコミュニケーションをろくに取っていなかった俺が放り込まれるのかと思うと、胸が苦しくなる。
「ああ……もう帰りたい」
久しぶりに袖を通した校章入りの制服も、もはや懐かしい。
こんなもので魔物からの攻撃を防げるはずもない、というここ一年で作られた俺の本能が叫んでいるのが何か嫌だ。
普通の高校生じゃないみたいで。
「そうだ、普通だよ」
英雄じゃない。
特別でもない。
ごくごく普通の高校生。一生懸命部活に汗を流して、勉強をして、放課後には友達とゲームセンターやカラオケに出かける。そしてそのうち、恋人も……は、欲張りすぎなのかすら分からないが、ともかく俺は普通になりたい。
切実に。
そう決意を固めて、俺は私立篠原学園の門をくぐった。
教室から微かな冷気が廊下に漏れ出ている。
窓ガラスが太陽の光を反射させて眩しい。なんだか、何もかもが懐かしいな。歴代の床の汚れとか、窓枠に刻まれた相合傘とか、すりガラスを透かすために貼られたセロハンテープとか。
いや、なんか思考がおっさん臭いな。現役高校生っぽくない。やめよう。
俺は頭を振って、まずは職員室へと向かう。自分の教室を教えてもらっていないし、登校する電話をしたときに、必ず寄るように言いつけられたからだ。
「失礼します。雪嶺です」
古びた扉だったが、すんなりと開いた。
中は冷房がガンガンかかっていて、快適そうだ。歩いている間に流れてきた汗が、一瞬で乾いていく。
あまりの気持ちよさに魂を持っていかれていると、一人の女性が嬉しそうに声をかけてきた。
「雪嶺くん、おはようございます!」
「おはようございます、……柚子先生で合ってますか?」
電話越しで話した声とそっくりだ。イメージ通りの黒髪をポニーテールにしている姿は、もはや俺のイメージを具現化したんじゃないかと思うほどだ。
電話では、この先生が担任らしい。
「お、さすが。霰柚子です! よろしくね。雪嶺くん」
「こちらこそよろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀をした先生にならって、俺もお辞儀を返す。
頭をおこすときに目が合って、胸の内から笑みがこぼれた。先生も俺の照れ笑いにつられたのか笑い出して、和やかな空気が流れる。
「なんか変な気分」
先生が呟くようにそう言ったのは、一通り笑った後だった。
「変な気分……ですか?」
何かまずいことでも言っただろうか。
俺の不安をよそに、先生は笑顔のまま言葉を続ける。
「だって、あのダンジョンを攻略した英雄と先生と生徒の関係として話してるなんて、なんだか変な気分」
あのダンジョン。それは俺が攻略した<東京都第ニダンジョン>のことだろう。東京に出現したダンジョンのうち規模だけでいえば、最大のもので後に出現した第三、第四よりも強力な魔物やトラップが多く、実際魔王の根城になっていたことから<最終ダンジョン>の通称が有名だ。
人類の覚醒により、全国各地にあったダンジョンが攻略され、最終ダンジョンが文字通り最終ダンジョンになったのが約二年前。数々の冒険者がダンジョン攻略を目指し、飲み込まれていった。それによって、一部の企業や個人は特需によって懐が潤ったらしいが、それはまあ。一高校生が考えるところではないだろう。
「先生。英雄はやめてくださいよ。俺は英雄じゃなくて、普通に高校生しにきてるんですから」
そして高校生である俺が、ダンジョンを攻略して帰ってきたのが高校二年生の春だった。持ち帰った財宝や魔物の情報は他の冒険者から見たら、さぞ羨ましかっただろう。
でも、俺は受け取れるはずの名声を拒否した。
ネットニュースからの取材の依頼やインフルエンサーからの動画出演依頼など、枚挙にいとまがない。
しかしそれ以上に。
次に先生の口から出た言葉は、俺の<普通化計画>にとんでもなく水を差す……と、いうか計画の穴をついてそれを無理やり広げていくような言葉だった。
「それは無理かも……かな」
「え、あ、は……?」
焦る俺に、先生も意表を突かれたように焦り出す。
「だ、だって雪嶺くんは、みんなの英雄で。特別な存在なんだから。この学校にもたっくさんファンはいるよ」
「それは、そう……かも」
「じ、実は……せ、先生だって」
なんだ。
今不穏な一言が聞こえたような気がしたが……。
なんか後ろで、サムズアップしてる体育教師っぽい先生もいるし。なんですか、俺にすごい身体能力とか期待しても無駄ですよ。
「と、ともかく! 雪嶺くんはみんなの憧れで、スーパースターだから。ふ、普通? っていうのは、ちょっと無理なんじゃないかな?」
嘘だあ。
だって、俺普通の高校生で。
ダンジョン以外だと何にもできない、ただの一般人で。
剣と魔法がなきゃ、何にもできないのに?
項垂れた俺を見かねたのか、先生は両手をわたわたと動かす。可哀そうに思ったのか、焦っているからか、ほんのりと頬が色づいていた。
「あ~! でもでも、クラスメイトとしてはちゃんと見てくれると思うし、お友達は作りやすいんじゃないかな?」
「友達、ですか?」
その響きは、もはや俺にとって天使のラッパのようだ。
「そ、そう! みんなも話のネタには困らないと思うし、聞きたいこともいっぱいあるじゃない? きっとみんな話しかけてくれるって! ね?」
「そうですね。確かに。俺のダンジョン体験談でよければ、いくらでも」
生気を取り戻したように見えたのか、ますます頬を赤く染めた先生が俺の手を取った。
……正直ドキッとした。
「うん、うん! うちのクラスは賑やかで楽しいし、きっといい学生生活が送れると思うよ。よし! もう時間だし、早速出発!」
先生は俺の手を握ったまま、近くの棚から名簿らしきものを取り出す。
2-B。白い紙に黒い筆文字で書かれたそれは、思うに中身だけを変えて代々受け継いできたものだろう。
「雪嶺くんのクラスは2-Bです! ここからはちょっと遠いけど、その分体育館とか外に行くには近いから遅刻ギリギリでもセーフになりやすいのが、よいところ!」
職員室前で、堂々と教師がそんなことを言ってもいいのだろうか。
そんなツッコミをする暇もないくらいに、先生は足早に教室へと向かっていく。そのあとを追おうとする直前、職員室の中では先ほどの先生がなおもサムズアップを続けていた。
サムズアップ。
心の中で唱えながら親指を立てる。
そしてそのまま踵を返して、俺は先生のあとを追った。
■ ■ ■
「あの~先生?」
「なあに。雪嶺くん?」
2-B。先生に案内されたそこは、先生の言葉通り職員室からは遠く、昇降口や体育館へ向かう渡り廊下からは近かった。
それはいい。
いいのだが。
「なんで……教室に誰もいないんですか?」
冷房の効いた教室。
綺麗に並べられた机が整然と並ぶ中、その持ち主たる学生が一人もいない。異様とも言える光景に、俺は絶句しながらも答えを求めた。
「さあ、なんででしょう」
あなたが知らないなら、誰も知らないですね。諦めます。
――とはできない。
俺の幸せ普通ライフは初日早々残念な結果になりそうなことを悟りながら、なおも問いを続けた。
「なんで知らないんですか?」
「だって、誰からも欠席の連絡は来てないし」
「みんなギリギリに来るという可能性は?」
現在時刻は8時25分。HRが始まる5分前だ。
「そりゃあ、何人かは遅刻ギリギリな子もいるけど。だいだい8時ちょっとしたら来るんじゃない? 私職員会議あるから分からないけど」
「事件とか?」
「……かも」
「私ちょっと電話かけてくるね」と先生が名簿を手に、扉を開けようとした瞬間――先生が開けようとした扉とは逆側。後ろの扉が勢いよく開いた。
「す、すみません。遅れました」
か細いが芯のある声。
俺がそちらに目を向けるより先に、先生が声を上げた。
「朝陽さん!」
抱き着きそうな勢いで先生がそちらに歩み寄る。先生の動きに合わせて視線を動かすと、女子が一人立っていた。
ショートカットで、上だけ三つ編みにした髪を後ろで結んだような。快活そうだけど、どこか真面目で万人に好かれそうな瞳が驚きながらも、先生を見ていた。
「よかった~! 先生みんな今日は休みかなって、もしかしたら先生のこと嫌いになってボイコットしちゃったんじゃないかと……! ……なんでみんな来てないか、知ってる?」
そんなことを気にしそうには見えないが、案外繊細らしい。
「えっと、先生……」
事情を知っているらしい彼女が何かを言おうとしている瞬間、目が合った。今度は笑いなど起きない。
そして恐る恐るといった様子で開いた唇は、震えていた。
「……その子って」
質問だったが、どこか確信したような声。
俺の顔はSNSで拡散されてしまっているらしいし、攻略した当初はインタビューなんかにも答えていた。
「あれ、知らないっけ? 雪嶺一冴くん」
「し、……ってますけど。本当に私のクラスに来ると思わなくて」
「え~、言ったよ。それで、みんなのこと知ってる? 何か事件に巻き込まれてるのか、おうちに電話しないといけないから」
そんなことはないだろうと思っている軽快さだ。実際、ダンジョンが攻略されてからそんなことは、ほとんどない。
英雄の住む町、ということで犯罪者もよそへ移ったとか何とか。普通の人に対して何とかする能力は持ち合わせてないんだけど、ダンジョンに行ったことない人から見たらそういうファンタジーに夢見てしまうんだろう。
「あれ、聞いてないんですか? みんな英雄に会うなんて心臓が持たないとか。推し? と同じクラスは無理……」
「って言ってましたよ」と小声で続けた彼女は、硬くなった俺の顔をまじまじと見つめていた。
俺の普通ライフががらがらと崩れる音がする。
え、じゃあ無理じゃん。推し? 推しってなんですか。俺が? ありえない。
「だ、だよね~」
「何がだよね、ですか。先生! 普通の生活はどうなるんですか! 俺の友達作りは!」
「友達、ですか?」
先生と会話しているつもりだったから、彼女から声がしたことに驚きを隠せずにいると、先生はニヤニヤしながら言った。
「友達は、見つかったみたいじゃない?」
と。女友達。その響きに心おどる。友達を越えて、それは一足飛びな気もする。
けど、男もいるだろうクラスメイトが彼女を除いて誰一人としていないのは事実であって……。
彼女の方に向き直ると、俺より身長の低い彼女が必然、俺のことを上目遣いで見つめていた。
「朝陽柑です。よろしく、雪嶺くん」
まさしく太陽のような笑みを浮かべる朝陽さんの差し出された手を、ダンジョンで失った表情筋を限りなく笑顔にして握る。
その遠慮は、異性間ゆえか自分が英雄ゆえかは分からなかった。
「よろしく……」
「なんでもいいよ」
彼女の呼び名に困っているのを察したのか、彼女は即座に助け船を出してくれた。
友達とはこういう時、なんて呼び合うんだろう。名前を呼び捨てにするのはさすがにキモイだろうか。
だったら―—
「よろしく、朝陽」
困った俺が導き出した折衷案は、苗字呼び捨て。これなら、そこまでキモくない気がする。
できるだけ笑顔を作って、そう呼ぶと、瞬間。握った手が強く握り返される。
昇った朝日のせいだろう。彼女の頬が赤く染まって見えたのは――。